塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

ブライトホルン

2003/07/20

今日はブライトホルン(4165m)に登る日。「登る」といっても、標高3820mまでロープウェイで上がってそこから緩やかな雪の斜面を300m余り登るだけですから実にお手軽です。

集合時刻である7時50分に村の奥にあるゴンドラ駅前に行ってみると、今日のガイドは赤ら顔の中年のおやじで、お客は他に米国人の親子でした。クラインマッターホルン展望台のすぐ下の駅までゴンドラとロープウェイを乗り継いで上がり、トンネルのような通路を抜けて外に出ると目の前に広々とした雪原(プラトー)が広がっていて、その向こうのずいぶん近いところにブライトホルンが山頂を見せています。米国人の父親はあまりの好天と展望に笑いが止まらない様子で「まったく素晴らしい。信じられない」を連発していました。ここからはスキーのゲレンデが水平に伸びていてスキーヤーやスノーボーダーも多いようですが、我々はしばし歩いてコースを離れたところでロープを結び合いました。要領は昨日と同じで、ガイド・父親・息子・私の順に3mくらいの間隔を空けてつないでからプラトーを歩き出しましたが、「ゆっくり行くぞ」と言われたわりにはガイドの足はけっこう速く、こちらは息が切れそうになりました。

一見したところプラトーはどこでも歩いて行けそうに思えますが、実はあちこちにクレバスが隠されていて、ちゃんと踏み跡がつけられたルートを歩かないと危険のようです。実際、翌日この地方を強力な雷が襲ったのですが、その際にブライトホルンで行方不明になった者が何人かいて、それはホワイトアウトの中をさまよってクレバスに落ちたのに違いない、とヘルンリヒュッテで知り合った日本人ガイドから教えられました。

しかし今日のプラトーはまったく平和です。ほぼ水平の道をしばらく歩いてから斜面にかかるあたりでアイゼンを装着し、さらに少し登ってから左に斜上すると小さなシュルントを越えたあたりから登り下りの列が行き交うようになりました。米国人親子は高度のせいか息が上がってきたようですが、ガイドは「ゆっくりでいいから休まずに歩き続けるように」と注意を出してなるべく休ませないようにします。雪稜に出て折り返し右上するようになると山頂はすぐで、歩き出して1時間余りで、山頂標識も何もない極めて眺めの良いてっぺんに到達しました。

率直に言ってこのノーマルルートでのブライトホルン登頂は、普通に雪山を歩ける者であって天候に恵まれさえすれば、ガイドの手助けを借りる必要性は皆無です。そこでハーフトラバースというのはどういうルートかとガイドに聞いてみると、この先の下の方から50度の雪の斜面を登るルートだとの説明がありました。そちらの方が面白かったかもしれないとちょっと後悔しましたが、今日は高度順化がテーマだし疲れをためるのも得策ではないのだから、と自分を納得させることにしました。それにしてもここからの展望は素晴らしく、前方にポルックス(4092m)とカストール(4228m)の双子のピーク、そしてリスカム(4527m)、モンテ・ローザ(4634m:アルプス第二の高峰であり、スイスでは最も高い山)への稜線が伸びていて、それはさらに左へ伸びてドムに至ります。これらの山々にもグレードの高いガイドプランが用意されており、またツェルマットへ来る機会があればトライしてみたいものだと思いました。

振り返るとマッターホルンが東壁と南壁を見せた不思議な角度で立っており、そこから雪と氷に削られた山稜が左に続いて尖ったところがダン・デラン(4171m)に違いありません。よく北アルプスの槍ヶ岳のことを「日本のマッターホルン」といいますが、こうして見た感じではマッターホルンはピラミッド部分が巨大過ぎて槍ヶ岳にほとんど似ておらず、むしろダン・デランの方がそっくりだと思いました。そして視線をさらに左に向けると、地平線方向に層をなす霞の中に隠れるように大きく白い山体が見えて、それがアルプス最高峰のモン・ブランでした。

素晴らしい展望を堪能したら、来た道を下山です。まずはアイゼンを外したところまで下って小休止し、軽く食べ物・飲み物を口にしました。米国人親子はこれが初めての4000m峰で、私の方は「ここはキナバル、キリマンジャロについで三つ目の4000m超だが、展望はここがベストだ」と言うと、ガイドはそりゃそうだろうという顔をしていました。

ロープウェイの駅の前でガイドや米国人親子と別れたら、エレベーターと階段でクラインマッターホルン展望台(3883m)に登ってみました。富士山よりも高いこの場所まで交通機関を使って簡単に登れるというのはさすがスイス。この頃から雲があたりを流れるようになっていてあいにくマッターホルンは隠れてしまいましたが、展望台の正面中央に立つ十字架像の真下に広がる氷河の向こうに目を上げるとヴァイスホルン(4505m)の白い姿が鋭く、そのまま右へぐるりと見渡すとドムなどのミシャベルの山々、そして先ほど登ったブライトホルンの大きく丸い山頂部がすぐ近くに見えています。その右のプラトーにも既に雲がかかっており、これは確かに方向を失ったら怖そうだと思いました。

ホテルに戻ってゆっくりパッキングをし直し、夕方、ふらりとアルピンセンターに行ってマッターホルン登頂の最終手配を行いました。このアルピンセンターまではホテルから片道10分程度の手ごろな散歩道といった感じで、よいリフレッシュになる距離です。そしてこの夜、到着以来ずっと好天だったツェルマットに20時頃から雷が鳴り響き、やがて雨が降ってきました。

ホテルの部屋ですることもなくテレビのチャンネルを回してみると、リチャード・ギアとジョディ・フォスター主演の『ジャック・サマースビー』をやっていました。あいにくドイツ語吹き替え版でしたが、前に観たことがあるのでストーリーを追うには困らず、やはり久しぶりに観ても泣ける映画でした。これを見終わった後にさらにチャンネルを回していたら、この夏の猛暑によるマッターホルンのルート崩壊についての特番をやっていました。見ればけっこう派手に崩れていて、登山者がヘリで吊るされる模様やガイドたちが浮き石をがんがん落としてルートを復旧している様子などが映っており、このように数日の差でルートが使えたり使えなかったりするアルプス登山というのは「運」の要素がずいぶん大きいのだと再認識しました。