マッターホルン登頂

2010/07/20

夜、蚕棚のベッドは賑やかでした。空気の薄さに腹の調子が悪くなったらしい客のおなら、下界と変わらないいびき、そして私も寝言を言っていたかも。うとうととあまり眠れない夜を過ごし、2時50分に一足先に起床して荷物を持つと、部屋の外に出ました。トイレを済ませ、装備を身に着けて1階の暗い食堂に下りてみると、テーブルの上には皿が並べられています。3時半には電気がついて、登山者たちがぞろぞろ下りてくるとともにお湯の入ったポットが配られました。ティーバッグは使い放題、パンは食べ放題。銀紙にくるまれたプロセスチーズもありました。

ロープを結んで外に出たのは、3時48分頃。イヴァンはガイド同士の談合に負けたらしく(?)、このとき出発した中での順番は4番手でしたが、見上げてみると昨日のうちにソルベイヒュッテまで上がっていたらしいパーティーの明かりが1組、そして30分ほど前に出て行ったプライベートガイドのパーティーの明かりも見えています。昨日下見した取付まで上がってフィックスロープを腕力まかせに登ると、後はイヴァンの後についてひたすら高度を上げるだけ。さすがにイヴァンはルートを熟知しているようで素晴らしいスピードで進んでゆき、先行に近づくとガイドに声を掛けて抜かさせてもらうということを繰り返して、まず我々の前にいた女性客のパーティー、ついで早くもペースに遅れが見られるようになった男性客のパーティーを追い越しました。私の方は、その都度ゲストの方に「Good luck!!」とか「Keep walking!!」とか適当な励ましの声を掛けましたが、女性客はにこやかに「You too!!」、男性客は「……」。そのままひたすら歩き続けて2時間もしないうちに、頭上にソルベイヒュッテが見えてきました。おそらくここは、最初に登ったときに雪のために引き返した場所の近くでしょう。そしてこの時点では、ほぼ同時に出発したアルピンセンター手配のガイド組の中ではトップに立っていました。

ソルベイヒュッテに近づいたところで、白い岩のつるっとした場所に出ました。これが「下モズレイスラブ」で、ここまでほとんどコンテで登っていたイヴァンもここはスタカットに切り替えましたが、せいぜいIII級程度です。

ソルベイヒュッテ到着は5時40分、周囲が明るくなってきていて大展望への期待が高まります。ここまでいいペースで登ってきているので少しは休憩するのかなと思ったら、イヴァンは「もう少し上まで行こう」とさっさと小屋の左奥から登攀を継続しました。

続く「上モズレイスラブ」も「下」と大同小異で、「It's so easy!」などと余裕をかましながら登りました。そしてやっと休憩タイム。ここまで下の写真のような薄着ですが、無風の上に、何しろひたすら行動し続けているので寒さは感じません。

ここで行動食をとり、日焼け止めを塗り、サングラスとヤッケを装着しました。

休憩場所から東の山々を見ると、彼方はすっかり夜明けの様相。

すぐ横には、マッターホルンの特徴とも言える平らな東壁。

見上げれば頂稜がすぐそこに見えています。あそこまで2時間くらい?とイヴァンに聞くと彼は少し口ごもっていましたが、後から思えばどうやら彼は、あと1時間での登頂をもくろんでいたようです。

後続クライマーが現れました。急かされるようにして我々も行動再開です。

ついにマッターホルンの頂稜に朝日が当たり始めました。昨日は下界から見上げたオレンジ・マッターホルンを、今日はまさにその場に居合わせて見ることになろうとは。

この辺りから傾斜がきつくなり、「豚のしっぽ」と通称される杭などを使いながらスタカット混じりで登るようになります。

飛ばし屋イヴァンは先行パーティーをロックオン。上の写真中央の岩を左から回り込むようにして抜かしてしまいました。

太いフィックスロープが続くようになり、鉄鎖の梯子も出てきましたが、イヴァンはこの梯子にはおかまいなしでフィックスロープを使い続けました。その上でルート上に雪が出始め、イヴァンからアイゼン装着の指示が出て、ここで2度目の休憩です。

その先もフィックスロープが急傾斜に続き、やがて急な雪田になって息を切らせながらひたすら足を運び続けていると、前方にブロンズの聖人像、そして先行していた2人組の姿が見えてきました。先行パーティーはすっかり寛いだ様子、つまり登頂を終えたばかりという状態です。そして、聖人像から1段上がったところが頂上稜線でした。

少し進んで最高点に立ったのは午前7時4分、ヘルンリヒュッテを出てから休憩コミで3時間16分での登頂でした。きれいに晴れた空の下には360度の展望が広がっていますが、その中でも細長く雪の少ない頂稜の向こう側には十字架を立てたイタリア側山頂、さらにその向こうの遠くにはモン・ブランの大きな山体もはっきり見えました。目を転じれば鋭く尖ったヴァイスホルン山群やミシャベル山群、モンテ・ローザ周辺の山々、それらの間にスイスとイタリアの谷と平地です。

イヴァンは後続が追いついて山頂が混み始めることを避けたかったのか、私からカメラをとりあげてひとしきり代理撮影をすると、5分ほどで私を促して先ほどの聖人像の位置まで下がりました。えっ、もう?本当はもっと長く山頂に留まって、ゆっくり写真を撮ったり動画を撮ったりしたかったのですが……。

渋い顔をしているのは、滞頂が短かったからではなく朝日がまぶしいから。

こんな態勢で大休止。イヴァンに「この下の尾根が国境?」と聞くと、イヴァンは誇らしげに「そうだ。スイス側は日が当たり、イタリア側はみな日陰だ」と答えてにやりと笑いました。

下降開始。山頂直下の雪田の下りは凍りかけた雪と岩のミックスが急でつい腰が引けてしまいますが、イヴァンは涼しい顔で「Trust your crampons!!」。昨夜の私の「Trust me」をもじったもののようです……。

次々に登ってくる登山者たちとすれ違いながら下降を続けていると、昨夜夕食時にご一緒した日本人のS氏が登ってきました。還暦なのにかなりいいペース。頑張れ!と声を掛けると、S氏の方もこちらに気付いた様子です。

雪が消えて、後は急な下りが続くばかり。上部では鉄杭を使ってイヴァンが私をロワーダウンさせ、私が下の杭にロープを二重に巻き付けてセルフビレイをとると、イヴァン自身は凄いスピードで前向きにクライムダウンしてきます。

登りでは通過したソルベイヒュッテで休憩をとりました。中を覗くとテーブルや2段の木のベッド(棚)、それに毛布が備え付けてあって清潔かつ快適そうでしたが、実は外にはキジの匂いが漂っていてあまり長居はしたくない場所でした。そんなわけで休憩は短く切り上げ下降を継続したところ、途中で突然イヴァンが「Look at him!!」と大声を上げました。何事?と指さされた方を見ると、ウィングスーツを着た2人が赤い煙を吐きながら空中を飛び去っていくところ。まさか、こんなところでベースジャンプをする人がいるなんて……。

登ってきた道でも下りはわかりにくく、先を行く私は後ろのイヴァンからたびたび方向修正を求められました。それでもついに道が水平に近くなって、その先にヘルンリヒュッテが見えてきました。フィックスロープをゴボウで下って取付の雪の上に下り立ち、一般登山道上でロープを解いてイヴァンと握手、時刻は10時25分ですから、出発から6時間35分で戻ってきたことになります。ペースが速過ぎて、登山というよりトレーニングという感じになってしまったのが少し残念ですが、まあスピードイコール安全というこの山のセオリーに忠実に従った結果だと思うしかありません。その後、小屋に戻ってイヴァンとアップルジュースで乾杯し、ひとしきり歓談しました。すっかり上機嫌のイヴァン曰く「いやー、貴方はナイスクライマーだ。技術についてはウィリーが太鼓判を押していたし(どうやら前夜のうちに電話で取材していた模様)、脚力も申し分なし。歳はいくつ?50?まだまだ若いね。ゲストは日本人だと聞いていたので、夕べ食堂で覗き見して若い方ならいいなと思っていたんだ」。そう言ってもらえると光栄ですが、実際はSさんでも十分な脚力だと思いますけど。

その後イヴァンがサインしてくれた登頂証明書をもらい、ささやかながらチップを渡していったん別れ、私は小屋のマッターホルン側のベンチに座ってS氏が下りてくるのを待つことにしました。やがてぽつぽつと登山者が下りてきましたが、皆は昨夜同じ夕食のテーブルについていた私が一番にすれ違ったことを覚えていて、こちらの顔を見ると一様に親指を立てて「Well done!! 速かったね」と祝福してくれました。

1時間半ほど待ったところで待望のS氏が帰着したので、お互いの健闘を讃え合いました。S氏はイタリア側の山頂にも足を伸ばしたりして、山頂での時間を存分に満喫したそうです。羨ましい……。ともあれ、S氏が自分のガイドにビールをおごり、人心地ついてから荷物をまとめ終わるのを待って、戸外で寛いでいたイヴァンに改めてお礼と別れの挨拶をしました。ありがとう、またいつか会いましょう。

S氏と一緒にシュヴァルツゼーへの眺めの良い道を下りながら、きれいに見えているヴァイスホルンやドムを指差しては「次はあそこへ」といった会話を交わしましたが、偶然S氏も私も3日後にドムに登る計画にしていることがわかりました。ということは、その前日にドムヒュッテで再会できることになるはずです。ただし、別れ際にイヴァンに聞いたところでは「週の後半は天気が悪くなるよ」とのことだったのですが。

シュヴァルツゼーに戻り、レストランのテラスで乾杯しました。干し肉やチーズ、野菜サラダ、それにオレンジがついてかなりの散財でしたが、それもマッターホルン登頂のご褒美だと思えば気になりません。ビールが静かに身体に染みわたるのを感じながらマッターホルンの金字塔を仰ぎ見ると、7時間前にあのてっぺんにいたことが初めのうちは信じ難いような気がしましたが、やがて「三度目の正直」を引き寄せられた幸福がじわじわと感じられてきました。

ゴンドラでツェルマットに下り、例の日本人橋のところでS氏とはお別れ。おめでとう、お疲れさまでした。そして私は一人ホテルに戻ると、後はひたすら爆睡でした。

▲この日の行程。