塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

帰国

1999/11/24

ベッドによじ登ってきたカオニャオに「にゃ〜」と起床を督促されて目が覚めました。今日は帰国の日。お手伝いのエトさんが作ってくれたお粥とフルーツの朝ごはんをユウコさんとタイクーとともに食べてから、ユウコさんの車で空港に送ってもらいました。ここからは、チャイナ・エアを台北で乗り継いで羽田へ向かうことになります。チェックインの際、手荷物が大き過ぎるので預けるようにと言われ不安がよぎりましたが、仕方なく指示に従い手ぶらになって出国手続を済ませました。

帰路は映画も見ずに、食べて寝て、ディレイもなくスムーズに羽田便へ乗継ぎ。東京上空では雲海の上に満月がかかり幻想的な美しさでした。そして羽田で無事に荷物を回収し、小雨が降る中帰宅して、刺激的だった5日半の旅を終了しました。

参考情報

歴史

東南アジアはその名の通り、南アジア(インド)と東アジア(中国)の間にあって通商・文化交流の交差点のような位置にありますが、紀元前後から漢の支配を受けたベトナムが中国の政治的・文化的影響を大きく受けたのに対して、その他の地域はやはり紀元前後から金や香木、香料などを求めて南アジアから渡来した貿易商人の進出と衛星都市の建設の中でインド文化・宗教の強い影響下に歴史を育みました。

1世紀にはメコン下流地域に扶南が建国されていますが、その最初の王はインドから来たバラモンであったと言われています。5世紀末にはその勢力は現在のタイの半島部まで及び隆盛を極めましたが、6世紀に独立したクメール人の国・真臘に滅ぼされます。しかし7世紀に中部ジャワに興ったシャイレンドラ王国(ボロブドゥールを建設した国)は扶南の後継者を自任し、9世紀にはスマトラ島のシュリーヴィジャヤと合邦して11世紀まで南海に一大帝国が繁栄します。

このジャワからは頻繁にインドシナ半島に対する襲撃・略奪が行われましたが、8世紀後半にジャワに連行されていたジャヤヴァルマン2世がメコン川中流域に戻ってきてこの地域を統一し、ジャワとの関係を断って802年に独立したのがアンコール帝国です。スールヤヴァルマン2世は1145年にベトナムのチャンパの首都を陥れ、その勢力は東はベトナム南部から北は現ラオス中部地域、西は現在のタイのチャオプラヤー川流域、南はクラ地峡まで達しました。アンコール・ワットを建設したのもスールヤヴァルマン2世でしたが、強引な征服戦争と大伽藍の造営が国力を疲弊させ、王自身が戦闘の中で行方不明になると帝国は混乱し、逆にチャンパによるアンコール侵冦を招きます。今見ることができるアンコール・トムは、チャンパによる占領からこの地を解放し、クメールに最後の繁栄をもたらしたジャヤヴァルマン7世が12世紀末に再建したものですが、熱烈な仏教徒であったこの王の篤信的造営事業もまた国力を疲弊させ、アンコール帝国は徐々に輝きを失っていきます。

13世紀、東南アジア世界は元(モンゴル)の進出により動乱期を迎えます。ビルマのモン族国家は滅ぼされ、ベトナムやジャワも元軍の来襲を受けましたが、そうした政治的緊張の前夜に独立したのが中国南部にルーツをもつタイ族の国・スコータイ朝です。スコータイ朝はアンコール帝国をチャオプラヤー川中流域から排除することに成功し、第3代のラームカムヘン大王の治世には版図を現在のラオスとマレー半島の北部まで広げました。しかしスコータイ朝の歴史は約100年で終わり、後を継いだアユタヤ朝は14世紀から18世紀まで400年間の繁栄を遂げることになります。そしてアンコール・トムは1431年にアユタヤ軍の攻撃により陥落し、アンコール時代は終わりを迎えます。

説話

カンボジアの寺院には、インド説話に題材をとった壁面彫刻が数多く見られます。代表的な説話として「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」があり、また橋の欄干には「乳海撹拌」のモチーフが多用されています。以下に、ガイドからもらった資料から説話の内容を引用します。

マハーバーラタ
北インドのハスティナープラの都にドリタラーシュトラという盲目の王がおり、王はカウラーヴァと呼ばれる百人の王子とパーンダヴァと呼ばれる五王子を引き取って育てた。五王子は武芸、人格とも百王子に勝り人々から愛された。王がパーンダヴァの長兄ユディシュティラを太子に定めると、カウラーヴァの嫉妬は激しく燃え立った。このカウラーヴァの妬みは、バンチャーラ国の王女の婿選びで破れたこと、パーンダヴァの治める街の方が繁栄し名声が高いことを聞くと、狂うように燃え上がった。
かくてカウラーヴァの長兄はユディシュティラをダイス遊びに招き、謀略によって負かし財宝を失わせた上、国外に追放した。ユディシュティラは妻兄弟をともなって12年間国外を放浪し、苦しい生活を送った。ちょうどこの頃、カウラーヴァがパーンダヴァが身を寄せていたマスチア王の国を侵略しようとしたので、パーンダヴァは敵を撃退し、かつての五王子の街の返還を要求した。
カウラーヴァはこの要求を断固拒絶したが、これを知った五王子の友人クリシュナ(ヴィシュヌ神の化身)は大いに怒りパーンダヴァに協力して国土奪還のために戦うことになった。
十万の兵力のカウラーヴァ、七万の兵に拠るパーンダヴァ。親子・兄弟・夫婦・友人相分かれて戦う悲劇的な大決戦。パーンダヴァは苦戦しながらも、最終的に勝利をおさめ、この悲劇的戦争は幕をおろした。
ラーマーヤナ
昔、コーサラ国のダシャラタ王には、4人の王子があった。年老いた王は、かねてから文武の道に秀でた長子ラーマに王位を譲りたいと考えていた。ところが第二王妃は、かつて王が望みを二つかなえてやると言ったことを盾に、自分の産んだバラタ王子を王位につけ、ラーマ王子を14年間追放することを承認させた。ラーマは父王の命に服してシータ妃と弟ラクシュマナをともなって森の中に隠棲し、苦労の多い生活を送った。
かねがね美しいシータを手に入れんものと狙っていた魔王ラーヴァナは、金の鹿を森に放った。シータは金の鹿に魅せられ、ラーマに捕えることをせがんだ。ラーマ兄弟は金の鹿を追い、捕えてみるとそれは悪魔の化身したものだった。このすきに、魔王ラーヴァナはシータを奪い去ってしまった。
シータを略奪されたことを知った兄弟は、すぐにシータをさがしに森の中に入り、途中、王位と妻を兄猿に奪われた猿の王スグリーヴァに出会った。自分の境遇とよく似た彼に同情したラーマは兄猿ヴァーリンを討ち滅ぼし、王位を奪い返してやった。
猿王スグリーヴァは恩返しに、自分の部下の猿軍を率いて悪魔退治に従うことを約束した。猿の将軍ハヌマンは、シータの監禁されている場所を突き止め、ラーマから預かった指輪を渡し、シータから金玉の髪飾りを受け取りラーマに渡した。
ハヌマンからの報告を受けたラーマは、全軍に出陣を命じ、悪魔の本拠地ランカー島になだれ込んだ。ラーマ軍と悪魔軍との戦闘は熾烈を極めた。悪魔軍の魔法に大苦戦するラーマ軍だが、神鳥ガルーダの助けもあり、ついに魔王ラーヴァナの本陣に達し、勝利をものにした。
悪魔を討ち滅ぼしたラーマ王子は、愛するシータを救い出したが、妻の貞節を疑い悩んだ。シータはこれを悲しみ、火の中に身を投じて死をはかるが、神の審判はシータの貞節を証明し、前にも増して美しい姿でシータを現出させた。シータを再びわがものとした喜びのラーマは、魔王の使用していた天空を飛ぶ戦車に乗り、故郷の都に凱旋し、廷臣の居並ぶ宮殿の庭で勝利の矢を高々と空に射上げた。
ラーマが不在の間、玉座にラーマの履物を乗せ、これを王と仰ぎ王国を治めていたバラタ王子は、慎んで王位を兄ラーマに捧げた。王子と共に長い戦争を終えた猿たちも、祝いの酒に赤い顔を一層赤くし、笛を吹き太鼓を打ち鳴らし踊り、祝宴はいつ果てるともなく続いた。
乳海撹拌
昔、神々と阿修羅たちが相談をして、アムリタ(甘露)を手に入れようと考えた。これは不老不死の妙薬で、大洋をかき混ぜることによって生ずるとされていた。そこで神々は、ヴィシュヌ神の化身である大亀クールマの背中に大マンダラ山をのせ、中腹に大蛇ヴァースキをからませて、その両端を引き合うことによって山を回転させ、大洋をかき混ぜようと考えた。それで、大蛇の中央から頭の方には阿修羅たちが、尻尾の方には神々が、大蛇の胴を抱えて向かい合った。綱引きの要領で、交互に大蛇を引くと山がぐるぐる回り、その激しい振動によって魚や海中に住む怪物などは寸断された。かくて大洋は乳の海になったが、この乳海撹拌の仕事は千年以上続けられたという。
撹拌の結果、海中から天女アプサラの一人ランバー、後にヴィシュヌ神の妻となる美の女神ラクシュミーが得られた。そして最後に甘露アムリタが得られたが、その所有をめぐって神々と阿修羅たちはさらに相争ったと伝えられる。

ビザ

カンボジアに入るにはビザが必要です(1999年11月現在)。空路入国時に空港で取得できるという話もありましたがあてにはできないので、私はあらかじめ東京都港区にあるカンボジア大使館でビザを取得しました。用意するものは写真(4cm×3cm)2枚と残存期間3カ月以上のパスポート。大使館の門を入って左手にあるビザ申請の窓口へ行って備え付けの用紙2枚に必要事項を記入し、写真を貼ってパスポートと料金3,500円を添えて窓口へ提出するだけで手続完了です。と言っても即日受け取れるわけではないので後日もらいに行かなければならないのですが、あらかじめ自分の宛名・住所を書いた封筒を差し出して郵送を頼んだところ、追加1,000円でOKとのこと。ちょっと高いようにも思いますが、大使館は平日しか開いていないので、忙しくて有給休暇が自由にとれない場合にはありがたいサービスです。私も郵送を依頼したところ、週末をはさんで1週間もかからずにビザスタンプが押されたパスポートが郵送されてきました。

通貨

カンボジアの通貨はリエル(Riel)で、タイのバーツも使えることは使えます。しかしほとんどの場合USドルの方が歓迎されるようで、観光客向けの諸々の値段は全てドル建てで設定されていました(たとえば缶ビールは2ドル、など)。ちなみに、公衆トイレの利用に際して500リエルを払う必要があったのでいったんガイドに建て替えてもらい、後で土産物店で1ドル札を500リエル札に崩してくれと頼んだところ、500リエル札が7枚帰ってきました。

資料

遺跡めぐりに欠かせないのは、歴史的背景と建築・美術的評価についての事前の調査です。今回、少なくとも歴史についてはある程度の予備知識をもって臨みましたが、帰国してから改めてあれこれ資料を読んでみて、これは人にも勧められると思える書籍を見つけました。私のこの記録も、ガイドのサマニーさんから聞いた話の他に、下記の2冊に多分に負っています。

『世界の歴史13 東南アジアの伝統と発展』(中央公論社)
上述のようにベトナム・ジャワ・クメール・タイ・ビルマなど東南アジアの諸国の歴史は相互に複雑に絡み合っており、これらを概括して理解しておくことがこの地域の遺跡を訪ねる旅には必要不可欠です。その意味で、中央公論社のこの本は格好の歴史書と言えるでしょう。記述のレベルは、ある程度おおまかな歴史の流れを頭に入れている読者がその知識を5割増しにするのに適しており、一般向けに読みやすい体裁を整えていながらちょうどよい深さのディテールにまで踏み込んで解説してあるので、そうそう、そこが知りたかったんだよと膝を叩く場面が多い本でした。
『地球の歩き方98 アンコール・ワットとカンボジア』(ダイヤモンド社)
な〜んだと思うなかれ、バックパッカーのバイブル『地球の歩き方』シリーズの中でもこの一冊は秀逸です。同シリーズの「タイ」が400ページ以上あるのに比べてこちらは260ページで同じ1,640円。しかし内容の濃さは圧倒的で、アンコール周辺の主だった遺跡を一つ一つ取り上げて、いつ・誰が建てたか、宗教は何か、建築様式上の特徴はどうか、見どころはどこか、などが懇切丁寧に解説されています。もちろん、アンコール・ワットとバイヨンには相当のページを割いて数多くの写真や詳細な平面図とともに多面的な解説が加えられており、中でも建築様式や工法に関する説明の掘り下げ方は尋常ではありません。編集者のこだわりが感じられる一冊であり、たとえアンコールに行くつもりはなくても解説書として買う価値あり。なお、当然のことながら旅行技術についての情報も必要十分な量が確保されているので安心です。