アンコール・トム

1999/11/22 (1)

ユウコさんの仕事の都合で、ここから2日間は単独行動になります。車で空港まで送ってもらい、バンコク航空のプロペラ機で東へ1時間。タイ領域内ではきれいに晴れていたのに、分水嶺を越えてカンボジアへ入ると雲が出てきました。小さな地方空港という雰囲気のシエム・リアプ空港の外に出るとたくさんのガイドが待ち構えていて圧倒されましたが、中の一人の女性ガイドが声を掛けてきて迎えの車に案内してくれました。ガイドのサマニーさんはプノンペンの大学で日本語を学び、1970年代には1年余り日本に住んだこともあるそうで、流暢ではないにしても日本語でのコミュニケーションに問題はありません。運転手の方は英語でのコミュニケーションとなりますが、この2人を2日間専属につけているのでお値段も24,400バーツと相当にエクスペンシヴ。さすがにおいそれとは手が出せない金額です。

それはさておき、車はシエム・リアプの街を抜けてアンコール遺跡への道を走りました。まず料金所で3日通用のパスを買い、さらに直進するとぶつかるのがアンコール・ワットの南の濠で、これを左に回りこんでアンコール・ワットの西側=正面を通過します。アンコール・ワットは墳墓という性格から他の多くの遺跡と異なり西を正面にしているので、太陽の位置の関係で午後に見る方が良いのだそうです。しかし、想像をはるかに超える大きさの敷地の中に遠く・高く中心塔が聳えているさまを車の中から眺めて、私は思わず狂喜しました。

車はそのまま北上して、アンコール・トムの南大門に到着しました。このアンコール・トムは1177年のベトナム・チャンパ軍による王都占領からこの地を解放したジャヤヴァルマン7世が築いた都であり、一辺3kmのほぼ正方形の都市は高さ8mのラテライトの壁に囲まれています。南大門はその南辺中央にある門で、中央上部にはジャヤヴァルマン7世が大乗仏教に帰依していたことを反映して観世音菩薩の四面仏が乗せられ、通路は象に乗った王や将軍が通過できるよう十分な高さと幅をもっています。しかし、ジャヤヴァルマン7世は旧体制であるヒンドゥー教との協調を図る意味もあってこの門へのアプローチとなる橋の欄干にはヒンドゥーの説話である乳海撹拌のモチーフを用いており、門に向かって左手には神々、右手には阿修羅がナーガ(大蛇)をかかえた姿を見せています。

南大門を抜けてさらに北上し、突き当たったところはアンコール・トムの中央に位置する仏教寺院バイヨン。二重の回廊の上に49基の尖塔が立ち並び、その全てに四面仏が刻まれているので合計196面の観世音菩薩が参拝者に微笑みかけていることになります。

建物全体は荒廃した印象が強く、日本政府の協力で修復事業が現在も続けられているところですが、回廊のレリーフには王や将軍の勇ましい姿だけでなく闘鶏や漁労など庶民の暮らしも彫り込まれていて、決して見飽きることがありません。

ところで、このレリーフの中にはチャンパとの戦いに赴くクメールの行軍の様子も描かれており、そこには耳が長いクメール人だけでなく中国人やシャム人も登場します。ところが、クメール人の行軍は整然として隙がないのに対し、シャム人は歩きながらも横や後ろを見ておしゃべりをしているために隊列が乱れているように描かれていました。シエム・リアプという町の名前が「シャムを追い出す」という意味であること、逆に一昨夜のロイカトンではスコータイを支配していたクメール人があたかも野蛮人のように描かれていたことなどからして、両民族の歴史的な確執は相当に根が深そうだと思わされました。

バイヨンを抜けて北側の王宮の一画にまず登場するのが空中参道がユニークなバプーオンですが、現在修復工事中なので参道部分を見るだけにして、すぐに隣の赤い階段ピラミッド状のピミアナカスへ向かいました。ちょっとエロティックな伝説があるピミアナカスは、こちらも空中楼閣という意味があるそうで、確かに見上げると急勾配の階段を登ったかなり高いところに祠堂が置かれています。どちらも11世紀前半に建てられたヒンドゥー教の施設ですが、ここまで見てきて不思議なのは、タイではクメール様式というととうもろこし型の尖塔をイメージするのに対し、アンコール・トムの中にはそうした施設はなく、むしろマヤ文明の遺跡と共通する印象をもつものが多いことです。

ピミアナカスから男池、女池の横を通って象のテラスに出ました。隣の癩王のテラスとこの象のテラスは王宮前広場(プラサート・スープラ)に居並ぶクメール軍を閲兵したテラスで、12世紀末にジャヤヴァルマン7世によってバプーオンと一体化するように造られています。テラスの壁面には300mにもわたって象のレリーフが施され、ここから整列した軍を眺めたらさぞ壮観でしょう。そして、この王宮前広場から東へ真っすぐ進む道がアンコール・トムの城壁とぶつかるところにある門が「勝利の門」です。

これだけの巨大な都市が1431年にアユタヤ軍の侵攻によって陥落し、その結果(一時的に修復が試みられたことはあったものの)都としては放棄されてしまったのですからまさに諸行無常。しかし、その背景には政治・軍事的な理由だけでなく、クメール独特の灌漑システムの破綻があったとの説もあり話は単純ではありません。ここに詳述する余裕はありませんが、クメールの灌漑システムはアンコール地域の地形が北から南にほんのわずか(水平距離1000mに対して標高差1m)傾斜していることを利用して、西バライ(東西8km南北2km)や東バライ(東西7km南北1.2km)などの貯水池に貯えた水を、乾期に堰堤を少しずつ切っていくことにより下手の土地に行き渡らせることを繰り返すものであったようです。歴代の王の治績として重要なのは寺院の建設ではなく、こうした灌漑システムの拡充と運営でしたが、戦争や宗教的建築物の造営などで国力が疲弊し、こうした灌漑システムの維持が不十分になると、沈殿物が水路や貯水池を埋めてしまい、さらに一度灌漑用水が止まると土壌の酸化鉄が浮上して開拓地は再び荒れてしまいます。また、12世紀のアンコール地域は既に開発し尽くされており、こうした開発の限界がアンコール帝国弱体化の一因となっていたということです。

午前の行程はここまでで、レストラン(なぜか「チャオプラヤー・レストラン」というタイ風&欧風のビュッフェ・スタイル)で食事をしてから、ホテルにチェックインしてしばし休憩をとることにしました。今回の宿となったアンコール・ホテルは明るく清潔で好感のもてるホテルで、クラスとしては上と中の間くらいの感じです。テレビではフランス語や英語のチャンネルにまじって我らがNHKもしっかりリアルタイムで放送されていました。