塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

アユタヤ

1999/07/19

この日は日本人向けに最も人気のあるパンダバスのツアーですが、参加者が多いためミニバス数台であちこちから客を拾い、市内のパンダバスの駐車場で大型バスに乗り換える仕組みです。しかし月曜の朝のバンコク市内の渋滞は生半可ではなく、我々は早くも6時半にマンションの1階に迎えが来ていたにも関わらず、どうやら全体の出発が1時間遅れたようでした。

今日の行き先であるアユタヤは1350年から1767年まで417年間にわたって続いたアユタヤ王朝の首都で、17世紀にはペルシャや西欧諸国とも外交関係を結び、御朱印船貿易で栄えた日本人町の頭領・山田長政が活躍したのもこの時代です。しかし、度重なるビルマ軍の攻撃により最終的にアユタヤが陥落した際に王宮や寺院など都市の主要な建物は徹底的に破壊されたため、現在では荒廃した遺跡しか残っていません。それでも、タイの歴史に関心がある者にとっては必見の都市といえます。

アユタヤに向かう途中でまず立ち寄ったのがバンパイン宮殿です。これはチャオプラヤー川の中洲に築かれた夏の離宮であり、17世紀から18世紀にかけてアユタヤの歴代の王によって使われていたものをラーマ5世が改修したもので、中にはタイ風、中国風、ギリシア風、スイス風などさまざまな様式の建物が立ち並びます。ラーマ5世はヨーロッパに留学し、西欧の文物や制度を数多くタイにもたらした名君ですが、この離宮にもそのグローバル志向が遺憾なく発揮されているようです。

バスでさらに北上し、いよいよアユタヤの遺跡を巡り始めました。最初に訪れたのはワット・ヤイ・チャイ・モンコン(「ワット」とは「寺」という意味)です。

アユタヤは四方を川に囲まれた島状の都市ですが、この遺跡はその東の外側に位置しています。1357年に建立されたこの寺院の見どころは真っ白な寝釈迦と巨大なチェディ(仏塔)ですが、寝釈迦の方はもともと金箔で覆われていたのに侵攻してきたビルマ軍に火をかけられ溶けた金を持ち去られてしまったもの。またチェディの内部には地中深くへ続く穴があり、ビルマ侵攻の際の逃走路になっていたそうです。

次に訪れたのはワット・プラ・マハタート。こちらも14世紀に建てられた寺院ですが、ここにも徹底した破壊の跡が残ります。中央の44mの仏塔は崩れ落ち、石の仏像群は首を切られ、仏頭が菩提樹の根に取り込まれてしまっています。

こうしてみると、この遺跡がわずか200年余り前には各国の外交官も行き交う繁栄した都市の一部であったとは、とても信じられません。

ワット・プラ・シー・サンペットはバンコクのワット・プラケオに相当する王室の守護寺院。1491年に建立され、アユタヤ中期の3基のチェディに3人の王の遺骨が納められています。これらのチェディは壮観ですが、周囲にあった王宮、僧院などは跡形もなく破壊されてしまったとのこと。もっとじっくり遺跡の中を散策したかったのですが、出発が遅れてしまったために各遺跡での自由時間が極端に短いのが残念でした。

ここまで見て回ったら、後はチャオプラヤー川を船でバンコクに帰るだけ。船着場で遊覧船に乗り、船上で食事をして乗り合わせた奈良からの女性2人組とあれこれおしゃべりし、最後は船首側のデッキに出てバンコク市街を眺めながらゆったりと川を下りました。

リバーシティでちょっとお買い物、その後タクシーでワールド・トレード・センターの向い側にあるナラヤナ・パンとゲイソーン・プラザでお土産を買って帰宅すると、エトさんはパクチー(コリアンダーの若葉)をたっぷり入れたココナツミルクのスープ他を作って待ってくれていました。ユウコさんはパクチーが大の苦手なのでタイ式においしい料理を作りたいエトさんとしては内心おもしろくないところがあったらしく、私が食後にスープの味をほめると我が意を得たりという顔をして喜んでいました。確かにパクチーにはきつい癖のある香りがあり、最初の壁を越せないととことん苦手になってしまいそうですが、私の嗜好には合っていたようです。

部屋に戻ると、洗濯をお願いしてあったTシャツなどが全てアイロンがけしてありました。あらかじめ聞かされていたことですが、衛生上の理由もあってタイの人は着るものには徹底してアイロンをかける習慣があり、したがってしわしわのTシャツを着て街を歩くとタイの感覚では大変だらしなく不潔に見えるようなので要注意です。