塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

嘉峪関

2011/05/05

朝食には、やれうれしや!トーストとコーヒーが出てきました。昨夜の食事もおいしかったし、新疆での辛い料理に悲鳴を上げていた胃腸がずいぶん癒された感じです。

今日の行き先は嘉峪関。ここは河西回廊の喉元と言われ、南の祁連山脈と北の黒山とに挟まれた狭隘地となっています。西域の直接経営を行わず国境線をここまで後退させた明朝は、モンゴルへの備えとして1372年に嘉峪関を設け、長城の西端としました。東端の山海関が「天下第一関」と呼ばれるのに対し、こちらは「天下第一雄関」です。

楼門の上の「天下雄関」の額は明の時代のもの。楼門は焼き煉瓦、その右の城壁は版築、右端の望楼は日干し煉瓦であることがわかります。

嘉峪関は内郭と外郭からなり、先ほど入った東門は外郭の出入口。これから内郭へ向かいます。

2階建ての楼閣をくぐると右に関帝廟、反対側には戯台(演劇の舞台)が設けられていました。

このように、郭の内側から城壁の上へ登ることができます。この階段は騎乗のままでも上がれるように作られているそう。

城壁の上に連なる3層の楼閣が見事。城壁の高さは約11mです。

嘉峪関から南へ伸びる長城。向こうに見えている山の麓を流れる北大河の絶壁上で長城は終わっており、そこに万里長城第一墩が置かれています。

見上げる楼閣。どこまでも青い空に映える赤・緑・青の彩色。

会極門楼。矢印の位置に1枚の煉瓦が置かれています。解説板に書かれた記述を引用すると次の通り(一部文字を改めています)。

嘉峪関を建設していたとき、「易開占」という技術力の高い師匠がいた。彼は詳しく調査し、細かく計算し、真剣に設計した後、精密な材料使用案を提出した。嘉峪関のプロジェクトが完全に終わったときに、ただ1個のレンガが残され、その他の材料が全部使いきられました。人々は苦労して功が大きかった職人たちを記念するため、このレンガを保ち、西瓮城にある”会極門”楼に展示していました。

美談。でも李さんは、煉瓦が多くても少なくても労働者が殺されることになっていた、と言った血なまぐさい説明をしていましたが……。

嘉峪関門。重々しい鉄の扉が、ここが外界との境であることを示しています。

外に出ました。ここは長城の外側、明朝にとってはもはや異国の領域です。

そこに待っていたのはラクダの隊商ではなく、近代的な小型飛行機(?)でした。料金は260元とリーズナブル、これは乗るしかないでしょう!ツアーの仲間たちも半分くらいが交代で乗り込みましたが、爽快この上なし。ときどきぐらりと揺れて肝を冷やすのもサービスなんでしょうか?

続いて訪れたのは懸壁長城。嘉峪関の西北8km、山を駆け上がるような長城です。登りが518段、途中に下りが9段あって体力的に厳しいので、希望者だけが上まで行くことになりました。

もちろんこれにも登ってみました。ひたすら登りが続く厳しい城壁上の通路ですが、右手に荒涼とした大地が広がる景観は大陸ならでは。

息を切らせながら長城の最も高いところに着いて振り返ると、ずいぶん高度が上がってきたことがわかります。

下りは歩きやすい山道。下の方には、シルクロードを渡った張騫、霍去病、班超、玄奘、マルコ・ポーロらの像が並んでいました。

嘉峪関市内での昼食の後に向かったのは魏晋壁画墓。その名の通り、3世紀から5世紀にかけての墳墓が1,000基以上もかたまっている場所です。深い階段を下ると、墓室の前にやはり煉瓦壁。昨日の敦煌で見た西晋墓と構造はそっくりで、その装飾も動物の頭や朱雀・玄武、金剛力士など共通のモチーフでしたが、敦煌の方は描かれたものであったのに対しこちらは浮彫りです。煉瓦のアーチをくぐって前室に入ると、果樹、猪や羊を捌いて肉にする様子、犬、ラクダ、馬、鶏の絵。もう一つアーチをくぐって中室に入れば、入って左は女性図。上から下へ若年→中年→老年となってどんどん太っていく様子が見てとれますが、反対の男性図の方は逆にだんだん痩せていくのが身につまされます。それぞれ化粧箱や絹、笛と琵琶を持ち、馬の背も高いので墓の主が金持ちまたは高位の人物であったことがわかります。最後の後室では、蓮の花の紋様の煉瓦が敷かれた床の上に、入って右側に男性、左側に女性の棺が置かれてあり、奥の壁には化粧箱などの模様が描かれていました。この主人は妻を大事にしていたのかな?しかし李さんは、この男性には奥さんが複数いたようです、という説明をしていましたが……。

「常に過去形で語る男」李さんと、完璧な日本語を話すアイドル韓さんとは、共にここでお別れ。2人ともありがとうございました。とりわけ、ウルムチからここまで足掛け6日間もつきあってくれた韓さんは、この後18時の列車に乗って翌朝10時にウルムチに到着し、その日のうちに空港で次のツアーを迎えて、またトルファン〜敦煌〜嘉峪関へとガイドをするのだそうです。過酷過ぎる!あの小さな身体のどこにそんなパワーが秘められているのだろう。

アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが射殺されたとのニュースを聞いたのも、嘉峪関市の空港でのこと。黄砂のために55分遅れで離陸する飛行機の機内で流された安全設備の説明のBGMはなぜか『天空の城ラピュタ』の「君をのせて」でした。16時すぎにテイクオフ。さようなら、砂の町。黄色くかすむ大地の上を、窓に当たる砂埃のパチパチという音を響かせながら、飛行機は一路東へ向かいました。

赤茶けた土の上に強引に緑のカーペットを敷いたような田園風景、そこに唐突に現れる滑走路。ようやく西安に帰ってきました。

そこで待っていたのはこの人……ではなくて、現地ガイドの張さん。西安市内のホテルへ向かうバスの中でも漫談を炸裂させて一人で「あっはっは!」と笑う張さんには脱帽です。短時間のうちに披露された張さん漫談のいくつかを紹介すると……。

  • 気象局が公表する西安の最高気温は、このところずっと摂氏39度。なぜなら、40度を超えると働かなくても給料が出る法律ができたから。
  • このバスはGPSで管制を受けているのでゆっくり走るが、トルファンではそうした管制がないので車を飛ばしていたら、最強の警官に出会った。その警官は天山山脈の麓、周囲100km以内に人間が1人もいないところでアリジゴクのようにじっとスピード違反の車が通るのを待っていた。それも警官の給料が少ないせい。
  • 西安市内には信号はほとんどない。西安城の南にある皆さんのホテルから場内の中心まで30分も歩けば行けるが、その間に信号は1カ所だけ。道を渡るときは走らずゆっくり渡って下さい。西安の道は、人間優先ではありません。車優先でもありません。勇気優先です。

夕食においしい火鍋料理をいただいてから、張さんのアドバイスを胸に城内へ行ってみることにしました。城壁の上の楼閣がライトアップされていて、とてもきれいです。

これが勇気を出さなければ渡れない横断歩道。車の運転手と目を合わせれば、「お行きなさい」と言っているか「ざけんなよ」と言っているかだいたいわかります(圧倒的に後者が多いですが)。

城門近くの広場で音楽に合わせて踊る人々。他にも野外カラオケが盛んに行われていて、そこでは年配のおじさん達が革命歌を一所懸命歌って喝采を浴びていました。

南門から城壁の上に上がってみました(料金は40元)。この城壁の上は一周14kmで、西安長城マラソンという大会も行われるそうです。試しに少し走ってみましたが、意外に走りやすい感じ。ところで一周14kmということはそれほど中は広くないなという印象ですが、この城壁は明の時代に唐の長安城を基礎にして築かれたものとは言うものの、唐の長安城は東西9.7km、南北8.6kmとはるかに大きかったと言いますから、唐の長安城の外周を使えばフルマラソンの大会もできたかもしれません。