塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

敦煌 II - 莫高窟

2011/05/04

朝、外に出てみると散水車が道路に水を撒いていきました。黒々と濡れた道路にこの地の水の豊かさを実感してから、まずはこの地の名産である夜光杯の工廠を見学(買い物)し、その上でおもむろに莫高窟へ向かいます。

真新しくて大きな(しかし人気のない)敦煌駅を横目に見て走ること30分、乾いた大地の向こうに鳴沙山の東端の崖が見えてきました。

なるほど、この川が鳴沙山の山肌を削ってあの崖ができたのか。

鮮やかなブルーの額が印象的な牌楼が我々を迎えてくれました。ここからは徒歩で進みます。

この地に石窟が開鑿されたのは、唐代にここに建てられた重修莫高窟仏龕碑の記述によれば西暦366年、当時長安を都としていた前秦の沙門・楽僔に始まるとされています。現存する石窟の中では唐代のものが最も多いのですが、全てを見渡せば5世紀前半の北涼に始まり、北魏、西魏、北周、随、唐、五代、宋、西夏、元と実に約1000年に及ぶさまざまな様式のものが南北1600m、上下に1〜5層に並んで残されており、その数は彩色の施された南区の石窟が492、僧侶や画家、彫刻家が住んでいた北区の石窟が200ほどです。幸いこの地がイスラム化することはなかったのでベゼクリク千仏洞と異なり莫高窟の貴重な仏教美術の精華は大きく損なわれることなく伝えられ、明・清代には新しい石窟が造営されることはなかったものの修理造営も継続されていたということですが、清朝が衰退した20世紀初には西欧列強の探検隊がこの地にも訪れて後述する敦煌文書や壁画・塑像の一部を海外へ持ち出してしまいました。

莫高窟の中央に位置する第96窟の九層楼。

その左右には、こんな具合に大小の石窟が重なり連なっています。1907年にここを訪れたスタインが撮った写真を見ると、当時の莫高窟は崖が崩れ回廊も損なわれて窟内の壁画や塑像がむき出しで見えている状態ですが、それでも敦煌市内に住む人々はここを「生きた寺院」として礼拝に訪れていたそうです。

上の画像は絵葉書から借用した第45窟と第57窟の菩薩像。左は塑像、右は壁画ですが、驚くべきことに実物もこれくらい鮮やかです。壁画を全て高さ1mにして横に並べると、この莫高窟から敦煌市街まで(約25kmの距離)の両側にぎっしり並ぶくらいの分量なのだとか。以下、入った順番に各窟の様子を簡単に紹介します。

  • 第96窟(初唐):上の写真で見た、一番立派な概観の石窟。見上げる高さ(35m)の北大仏=弥勒仏は、抱えるほどの大きさの足の指が妙にリアル。後代の修復を受けていて色も鮮やかでした。また、ここでは唐、西夏、元、清、民国の各時代の地面を見ることもできます。
  • 第230窟(盛唐):ここには南大仏。北大仏と共に、山を削った上に土で表面を作って彩色したものですが、こちらはほぼ唐代のオリジナルのままだそうです。壁の下部には緑地の上に千仏、その上には巨大な菩薩像。また、この窟のスポンサーであった太守・楽庭環とその夫人の太原王氏の図像が描かれていました。
  • 第248窟(盛唐):ここには身長17mの涅槃像が安置され、窟全体が棺の形をしています。涅槃像の向こうには菩薩、十大弟子、八部衆、各国王子など数十体に及ぶ塑像が置かれていましたが、オリジナルなのは壁画の方。涅槃経、薬師経、観無量寿経に基づく絵は素晴らしい美しさでした。
  • 第256窟(特別窟・晩唐):ここにはロシア10月革命期に逃れてきたロシア人が一時期住み着き、中で火を焚いたために煙で燻されて天井が黒くなってしまっていましたが、そのことを差し引いても壁画のデザインや色彩は息を呑む美しさです。安史の乱(玄宗皇帝が安禄山らに長安を追われた内乱)後に唐の勢力が衰えて吐蕃の支配を受けていたこの地で、9世紀半ばに独立して唐に帰順し帰義軍節度使に任じられた張儀潮の大きな出行図が南壁に描かれ、また北壁の宋国夫人出行図では郵便、歌舞、雑技などの生き生きとした姿が描かれていました。
  • 第203窟(盛唐):小さな方窟で、ピースサインをしている塑像は清代のものですが、天井の蓮の花、連地紋、千仏が鮮やかで、壁には法華経などの内容が緑色の顔料を用いて山水画風に描かれています。
  • 第259窟(北魏):奥の丸みを帯びた龕の中に釈迦仏と多宝仏が並ぶ変わった窟。法華経の説話に基づくものだそうです。二体仏の外側の脇侍はガンダーラ風の様式で、顔の彫りは深く、衣は流れるよう。交脚菩薩の形を示しているものもあります。そして、入口すぐのところには「敦煌のモナリザ」と呼ばれる微笑をたたえた禅定仏像がありました。
  • 第249窟(西魏):穏やかな表情の仏像、赤色が目立つ千仏画の上には、伏斗形天井に四眼四手の阿修羅が黒々と立ち、後ろには須弥山。他にも風神・雷神、迦陵頻伽、天馬、朱雀・玄武などの想像上の生き物や、狩猟図、歌舞図などの人間界の様子が描かれています。
  • 第322窟(特別窟・初唐):奥に並ぶのは、ハンサムな仏様を中心に、左右に若い阿難と老いた迦葉、文殊と普賢の二菩薩、そして邪鬼を踏み付けた二天王からなる七尊像。天井の中心にはザクロ紋や琴・琵琶を抱えた飛天の姿、入口脇には説法図。いずれも素晴らしい保存状態に感激しました。
  • 第329窟(初唐):赭顔の不気味な表情の仏像は後代の修復のせいらしいですが、壁画の方はオリジナル。青龍・白虎、楽器を持つ飛天、天井には蓮紋、4体の飛天が周囲を回り、その外側にも12体の飛天が巡る飛天蓮華藻井図がダイナミックでした。
  • 第26・27窟(晩唐):そして最後は有名な敦煌文書が見つかった第27窟。第26窟の途中、横に作られた御影堂が第27窟で、覗いてみると奥の壁に菩提樹2本とスポンサーらしい人物像が描かれ、その前に高僧の像が置かれています。ここに5万点もの経巻類が封じ込められているのが発見されたのは西暦1900年のこと、この地に流れ来て莫高窟に住み着いていた道士・王圓籙が偶然見つけたものです。この地を訪れた1907年のスタイン、1908年のポール・ペリオ(仏)らは次々に文書を買い付け、これを聞いて清朝があわてて経巻類を押さえにかかったときには、史料的価値の高いものは多くが国外に持ち出された後だったと言います。井上靖の『敦煌』ではここに経巻類が隠されたのは西夏による敦煌侵略から経典を守るためだったというストーリーになっていますが、第26窟の壁画は西夏時代のもの。つまり、西夏がこの窟を造営したことになるので、今では逆に、当時タリム盆地に進出していたイスラム勢力(カラ・ハン朝)の東進に備えたものではないかという説もあるようです。

我々を案内してくれたのは紺のオーバーコート姿の女性学芸員さんで、無線のヘッドセットを我々に渡してくれて、回廊を進み、階段を登り下りし、次々に窟を回りながら流暢な日本語で解説をしてくれました。聞けば、東洋大学で2年間東洋美術史を勉強していたことがあるのだとか。そしてどの窟でも、ひとしきり説明を終えると「美しいでしょう?」というのが学芸員さんの口癖でしたが、本当に美しいので一同納得。ただし、とりわけ特別窟は厳重な管理がされていて、観覧客の数を調整しないと外気の影響を受け窟内の壁画などが被害を受けるため、今後ますます拝観に規制がかかる方向にあるのだそうです。

これは今回入っていない第45窟の塑像群ですが、第322窟の塑像群も似た配列と鮮やかさをもっていました。これを見るだけでも感激ものですが、もし全部の窟を見て回ろうと思ったら優に1カ月はかかるだろうというのが、学芸員さんの説明の締めくくりでした。

昼食は敦煌市内の太陽食府。入口の天井には第329窟の飛天蓮華藻井図。

続いて、当初の予定にはなかった西晋時代の墓を訪問しました。中に入ると地下13mの墓室に向かって階段が下っており、墓室の入口の壁は立派な焼き煉瓦でできています。その煉瓦の壁には、麒麟、鳳凰、熊の顔、金剛力士、ウサギ、鹿、青龍・朱雀・白虎・玄武、李広が虎を射る図などが描かれていました。そして耳室二つを持つ墓室には盗掘穴が開いていましたが、奥の壁には夫婦の絵があって、その左右に立つ役人たちは夫婦の語らいを他言しないようにと口を描かれていませんでした。

さて、ここからは嘉峪関市まで380km、バスで5時間の旅です。現地ガイドの李さん曰く、シルクロード=クルシ(苦しい)ロード。乾ききった山並みを右手に見ながら、ゴビ灘の中のよく整備された道をひたすら走ります。この道は国道312号線、東は長江河口の上海から西はカザフスタン国境のコルガス(霍爾果斯)まで5,000kmにも及ぶ大動脈です。

途中、瓜州と玉門鎮で休憩をとりました。上の写真は玉門鎮ですが、ここはかつて玉門関への補給基地だったそうで、物資は疎勒河を使って運んだのだそうです。それにしても、中華人民の皆さんはなぜあんなに大声で語り合うのか不明。そんなにでかい声を出さなくても聞こえるでしょうに……。もちろん、我々のアイドル韓さんはでかい声など出しません。

車窓から見えた烽火台。退屈しきった車内の空気を察した李さん、マイクをとって「月の沙漠」を歌ってくれて拍手を浴び、気を良くして今度は王維の『送元二使安西』を歌ってくれました。

渭城朝雨裛輕塵
客舎靑靑柳色新
勸君更盡一杯酒
西出陽關無故人

これには「陽関三畳」といって、最後の「故人無からん」を繰り返す歌い方があるのだそうですが、今回は省略です。李さんは我々にも「さあ歌いましょう」と勧めてくれましたが、李さん!日本ではカラオケはお酒が入らないと歌ってはいけない決まりになっているんです。

長いバスの旅の果てに、近代的な工業都市である嘉峪関市に到着しました。宿泊先の「長城ホテル」が烽火台風のコテージだったりしたらどうしよう?と心配していましたが、そんなことはありませんでした。