塾長の渡航記録

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私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

トルファン IV - ベゼクリク千仏洞

2011/05/02 (4)

続いて、高昌故城の北1kmにあるアスターナ古墳群を訪ねました。ここは麹氏高昌国・唐代の人々の墓地で、全部で500基ほどの墓があるそうですが、この日はそのうちの三つに入ってみました。

墓の入口は緩やかな階段になっています。出土したさまざまな文物の多くは博物館などに移されていますが、中には鮮やかな壁画が残されていました。と言っても、もちろん撮影禁止です。

最初に入った216号墓はウルムチの博物館で対面した麹氏高昌国の左衛将軍・張雄の墓。張雄は麴文泰に仕え、西暦633年に病死。麴氏出身のその妻は唐代に入って西暦688年に亡くなり、後から合葬されました。墓の中には副葬品を置いたと思われる耳室があり、中国風の壁画が描かれています。画題は儒教に基づくもので、酒器(奢侈を戒める)・玉人(無欲)・金人(寡黙)・石人(発言)・木人(正直)などです。次に入った215号墓は中国南方からこの地に来た商人の墓。自分が死んだら墓に故郷の花や鳥を描くようにという彼の遺言は果たされ、美しい色彩・線の壁画をこうして現代の我々も見ることができます。天井には雁の絵が描かれていましたが、それは自分の魂を故郷へ運んで欲しいという願いの現れだったのでしょう。そして最後の210号墓は身分が高くない夫婦の墓。耳室も副葬品もないかわりに、2体のミイラがケースに納められて安置されていました。入口から入ると右側が夫、左側が妻で、女性の方が身長があるようでしたが、その表情はなぜか苦しげに見えました。

再びバスに乗って、火焔山の山並みを横断する谷筋の道を進み火焔山の北側に回り込みました。そこには天山山脈の雪解け水が作るムルトゥク河が流れており、草の緑も見えます。

この川を少し遡ったところにある崖の下がベゼクリク千仏洞でした。「ベゼクリク」とはウイグル語で「美しく飾られた場所」という意味です。

ベゼクリク千仏洞は麴氏高昌国(460-640)の頃に建設が始まり、唐代にも「寧戎窟寺」と呼ばれて発展した後、9-12世紀に天山ウイグル王国の下で最盛期を迎えました。ウイグル人たちは、突厥を滅ぼして建国した8-9世紀の回鶻可汗国ではソグド人の伝えたマニ教を宗教としていましたが、内紛などによって分裂し一部は西へ渡ってカラ・ハン国を、一部は河西回廊に逃れて甘州ウイグル王国を、さらに一部はタリム盆地に入って天山ウイグル王国を樹立しており、この天山ウイグル王国の下で仏教が栄えることになります。しかし、14世紀になりチャガタイ・ハン国の支配下で進んだイスラム化とそのために起きた宗教対立の中で、ベゼクリク千仏洞は破壊されてしまいました。放棄されたベゼクリク千仏洞が再発見されるのは20世紀初頭、中央アジアを探索するドイツ、イギリス、ロシア、日本などの探検隊によってですが、彼らもまた貴重な壁画を剥ぎ取り、国外へ持ち出してしまいます。

崖の上から階段を下ったところ、つまり崖の中腹にあたるところに回廊があり、この回廊に面して83の窟院が設けられています。

中に入ったのは五つの窟で、いずれも天山ウイグル王国時代のものでした。

  • 第20窟(天山ウイグル前期=国家寺院としての庇護を受けた時代)は回廊式の構造になっていますが、壁画のあった場所の下の方にわずかに赤い彩色が残っているだけ。
  • 第27窟(天山ウイグル後期=民間寺院となった時代)はアーチ状の天井に千体仏が描かれているのが見え、そのブルーは美しいものでしたが、側面の壁画はイスラムによって顔を破壊されている上に、ドイツの探検隊が他国の探索の邪魔をするために泥を塗ったせいで傷んでしまっています。
  • 第31窟(前期)も第27窟と同様。
  • 第33窟(前期)は、奥に釈迦の入滅を悲しむ人々の姿がさまざまな色で描かれていました。沙羅双樹の左側に菩薩、天竜八部、右に各国の王子。以前、ベゼクリク千仏洞をとりあげたテレビ番組で、群像図の中にビルマの王子の姿がある(それだけアジア大陸の交流の範囲が広かった)という紹介がされていたのを見た記憶がありますが、この窟の中の図がそれだったのかもしれません。ただし、誰がビルマ王子なのかさっぱりわかりませんでした。
  • 最後の第39窟(後期)では、光背の円環にかつての金箔の跡がかすかに残されていました。そして天井にはやはり千体仏。

なお、壁画の本来の精彩な意匠と鮮やかな彩色とは地元で売っている小さいガイドブックでも見ることができます。その写真を見ると、壁画を剥ぎ取ったときに長方形の小分けに切ったナイフの跡がはっきり見えて、かえって痛々しいばかり。

壁画の美しさよりもその破壊の様相に暗澹となりながら窟を出ると、外にいたおじさんが楽器で弾きだしたのは「四季の歌」。春を愛する人は〜という、あれです。我々を日本人と正しくみてとったおじさんのサービス……だと思ったのですが、調子に乗って記念撮影をしたツアー参加者の方はしっかりお金を請求されていました。ウイグル商法、侮りがたし。

外に出てみればまだまだかんかん照り。孫悟空一行の像も暑そうです。

トルファン富士とも呼ばれる火焔山を見て、一人物思いにふけるラクダ。我々はそそくさと冷房のきいたバス内に避難して、再び火焔山の南面の道をトルファンに向かいました。

ラグ麺の夕食をとってトルファン駅へ向かい、ここでウイグル美人のミライさんとはお別れです。そしてここから敦煌まで夜行列車の旅になりますが、このトルファン駅で中国文化の一端を垣間見ることになりました。列車の時刻まで間があったのでお手洗いに入ったのですが、いわゆる「大」の方は個室がなく、一方の壁際の1段高いところに溝が切ってあって個室サイズに前後を仕切る壁があるだけ。利用者は溝をまたいで用を足すのですが、目の前の壁によって前後の利用者からは目隠しされるものの、扉にあたるものがないのでトイレ内に充満している人民の皆さんからは丸見えです。しかも、出たものを流すのは間歇的に溝を流れる水の力なので、前の方に行くと後ろの人の出したものが自分の後方から流されて真下を通過するのを目撃するハメに陥るわけです。幸い、私は溝の一番後ろの場所を占めることができた上に、そこはトイレの出入口の扉が視界を半分遮ってくれていたのでなんとか落ち着いて目的を達することができました。しかしこうしたトイレ事情はこの後、たとえばちょっとチープなレストランなどで繰り返されることになり、ツアーの女性陣は毎回悲鳴を上げていました。ともあれ無事にトイレを出てみると、そこに置いてある屑かごは煙草の吸い殻入れと化していて煙がもくもく。これでよく火事にならないものです。

我々が乗る列車の到着時刻が近づいてホームに出たところ、ちょうど向かい側のホームに別の列車が停車していたので何人かのツアー客がカメラを向けたのですが、途端に停まっている列車内から大勢の男たちの罵声が飛んできました。その剣幕には一同びっくりし、韓さんも驚いたようでしたが果敢に声を張り上げてくれました。

韓さん「どうして撮っちゃいけないの〜?
男たち「軍用列車やっちゅうのが、わからんのか!ボケ!

……中国語はわからないので、あくまで想像です。その列車が動き出してみると確かに客車の先には大型のトラックなど軍用車両も積んであり、怒られるのも無理はなかったかもしれません。そんなアクシデントはありましたが、我々の夜行列車はほぼ定刻通りに到着してくれました。

列車の中は、洗面所とトイレが車両の端に備え付けられており、各個室は4寝台。やや狭くてトランクの置き場には困りますが寝心地は悪くありません。既に外は真っ暗なので、明朝の景観を楽しみにすぐに就寝しました。