塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

出発

2011/04/30

7泊8日の旅の初日は、成田空港から上海経由、西安まで。前夜iTunesでレンタルした映画『敦煌』を一夜漬けで観たために眠い目をこすりながら、渋谷マークシティからリムジンバスに乗り、爆睡のうちに成田空港へ。松たか子に似てなくもない(←微妙な表現)はきはき美人の添乗員ナガタさんや他のお客とカウンターで合流し、搭乗手続を済ませました。今回のツアーは私を入れてお客が19人で、これはナガタさん曰く「ゆったりした人数」なんだそうです。

乗った飛行機は中国東方航空機で、非常用設備の案内をするフライト・アテンダントさん(ビデオですが)の身のこなしは心なしか太極拳的な優美さに満ちていましたが、前の座席の背もたれに掛けられたカバーには全て投資会社の広告がプリントしてあり、中国経済の資本化をも窺わせました。機内アナウンスは、中国語→英語→日本語の順。定刻を20分ほど過ぎて19時20分に飛び立った機は離陸後しばらくは強い横揺れに見舞われ続け、これは地震でも起きているのか?と訝しんだほどです。やがて落ち着いた水平飛行に移ったところで機内食がふるまわれ、2時間半のフライトの後に上海浦東空港に到着しました。中華人民共和国へようこそ!ここでいったん機を降りて、入国手続を行うことになります。

これが上海浦東空港の中の不思議な風景。横に渡されたワイヤーの上に白い柱が立ち並び、それが天井を支える構造のようです。待ち時間の間に空港内の売店をいろいろ見て回りましたが、日本でもなじみのあるさまざまな商品が中国語表記で売られているのを面白く眺めました。また、その間ひっきりなしに待機中の客の携帯電話が鳴ったのですが、中華人民のケータイの待受音がいかにもチャイナな音色と旋律なのも印象的でした。

上海から2時間のフライトで23時半に、最初の宿泊地である西安に到着しました。外気温は摂氏20度と暖かく、日中は30度を超えたそう。出口で待っていてくれたのは桂文珍似の現地ガイド・張さんで、空港から市内のホテルまで我々は張さんのしゃべくり漫談につきあわされることになりました。ところどころに彼の口癖らしい「正直言いますが」と「あっはっは」という笑いをはさみながら、張さん曰く。

  • 張という名字は、騎馬民族系で最もポピュラー。
  • 西安には100万年前から人が住んでいた。今では西安の人口は880万人、5年後には1,200万人になる予定。かつてあった多くの城壁は文化大革命で失われ、古い城壁を残しているのは西安と南京だけ。西安の西の門はシルクロードのスタート地点で、その城壁の上に立てばローマが見えるでしょう。皆さんのシルクロードの旅もここ、西安から。
  • 西安に残っている城壁は明の時代のもので、今は城内に38万人くらいが住んでいるが、唐の頃は100万人だった(←この説明には注釈が必要です。現在の城内は、唐の長安城のうち皇城の部分、つまり長安城の1/9の面積をカバーしているに過ぎません)。
  • 中国全土に適用される「北京時間」は、実は西安での標準時。
  • 西安の日本での姉妹都市は、京都、奈良、そしてなぜか船橋。
  • 西安で有名な日本人は、空海、阿倍仲麻呂、吉備真備、それに現代人では平山郁夫先生。平山郁夫先生は文化財の保護や各地での植林事業に尽力されたので感謝されている。そのおかげで、かつては黄土高原から黄砂をただで輸出(←日本にとっては迷惑!)していたが、今は激減した。
  • 西安がある関中平野は麦食文化、秦嶺山脈を越えた南側の漢中以南は米食文化。よって西安を省都とする陝西省の人たちは麺が大好き。
  • 政府は90年代には海沿いの都市に投資してきたが、00年代に入って内陸、とりわけ西安にも投資が重ねられ、都市の姿が変貌しつつある。

この不気味……もとい、不思議な人形は何?と張さんに聞いてみたところ、これは、いま開催されている西安園芸博覧会のマスコット「長安花」だそうです。モチーフは西安の市花であるザクロで、その色は西安の市のカラーであるとともに、中国で縁起の良い色とされる「赤」(日本的感覚では、ちょっと色合いがどぎついような気もしますが)。ともあれようやくホテルの部屋に落ち着き、先ほどの「ザクロ娘」にうなされないことを祈りながら、中国での最初の眠りにつきました。