マチュピチュ

2006/05/16

モーニングコールは午前4時。連泊なので荷物は部屋に置き、デイパックにカメラや水を入れました。遺跡とは言え山道に近いところを歩くので、愛用のクライミングパンツ、Tシャツの上に極薄のフリースを着用し、足回りはナイキの優秀なアプローチシューズであるエアシンダーコーン。これでヘルメットとハーネスをつければ、たいていのアルパインルートには繰り出せそうなくらいの出立ちです。列車の中で朝食が出ると聞いているのでホテルのレストランでは軽くフルーツとチーズ、コーヒーのみいただき、1階に降りてバスを待つ間、ふと見ると昨日から苦しそうだったツアー参加者N氏が酸素ボンベのお世話になっている姿が目に入りました。奥さんの方はいたって元気で、このまま旦那を残置していこうかしらみたいなことを言っていましたが、マチュピチュの方がクスコよりも標高が低いので一緒に行った方がいいという添乗員Sさんの意見に従うことになりました。そのSさんは首からオキシメータ(血中酸素濃度測定機)をぶら下げていて、こうした装備からしても既に尋常のツアーではありません。

まだ暗いクスコのサン・ペドロ駅で乗った列車はビスタドームで、その名前の通り車両の上がガラス張りになっていて眺めがいいのですが、実際はそれほど御利益を感じませんでした。ビスタドームは1日2往復運行しており、我々の乗る列車はクスコを6時に発って9時40分にマチュピチュへの入口にあたるアグアス・カリエンテス駅に着きます。帰りは15時30分発でクスコに19時20分着です。座席は全て指定で、各車両にトイレ付き。列車の種類にはほかに、リーズナブルなお値段のバックパッカーと、クスコ郊外のポロイ駅発の豪華列車ハイラム・ビンガム・トレインがあります。

定刻に出発した列車は、すぐにスイッチバックで高度を上げていきました。クスコは盆地の町なので、まずその縁まで這い上がらなければならないわけです。朝日はまだ盆地の底に達してはいませんが、遠くの高い山々が美しくオレンジ色に染まる様はたとえようもなく美しく、盆地を埋め尽くした赤茶色の瓦屋根が斜面を駆け上がっている様子にも目を奪われました。その瓦屋根の上には、ちょっと変わった屋根飾りをよく見掛けます。基本は十字架ですが、そこに壷が二つと人形ならぬ牛形が2頭。壷はチチャ(悪魔除け)と水(火事除け)、牛は富の象徴で、キリスト教と土着信仰の融合といったところです。日干しレンガの家には犬が普通に出入りしていて、中には朝っぱらから公衆の面前で夫婦の営みに励む犬もいましたが、いずれにしても人々の生活に犬がなじんでいることがわかりますが、逆に猫はあまり見掛けません(この旅の中でも、クスコとイカで一度ずつ見ただけ)でした。

盆地の外に出ると列車は幅の広い谷に入り、のどかな景色の中を地形に沿ってゆったりと蛇行しながら走りました。ところどころにトウモロコシを刈り取った畑が広がって、霜が降りて白くなっているところもあり、赤茶けた土の色やまばらな木々の緑、青い空といったとりどりの色合いのいずれもがおおらかで日本にはない雰囲気です。やがて配られた朝食はコーヒー、チーズとトマトのサンドイッチ、フルーツ、ミルフィーユ。全ておいしくいただきました。

谷筋が狭くなったところで、スイッチバックで今度は中腹から谷底へ下降します。車窓の左右には断崖絶壁がそそり立ち、ウルバンバ川沿いの谷筋=Valle Sagrado(聖なる谷)を走るようになって8時すぎ、オリャンタイタンボの駅に停車しました。この駅の前後では車窓から進行方向右側の山の中腹にオリャンタイタンボの遺跡がちらりと見えましたが、ここも巨石で有名で、かつてマンコ・インカ率いる反乱軍が追撃するスペイン軍をさんざんに打ち負かした(しかし最終的には撤退を余儀なくされた)場所です。さらにその先では、やはり右側に雪を戴いた5000m級の霊峰ベロニカ山を見上げることもできました。こうなると座るのは右側の方がよさそうですが、左側でもウルバンバ川やインカ道に散在する小遺跡のいくつかを見ることができて見飽きることはありません。雨期のウルバンバ川は泥色の濁流になるそうですが、今日は水量もさほど多くなく、水もきれいでした。なおインカ道というのは、クスコを中心に北はエクアドルのキトから南はチリのサンティアゴまで広大なインカ帝国の四つの州をつないでいた道であり、タンボと呼ばれる旅籠を設置してチャスキ(飛脚)が行き交い、インカ帝国の中央集権体制の基盤をなしていました。そしてクスコとビルカバンバとの間にも整備された山道があってそのところどころにかつてのタンボや段々畑の跡が残っており、現在、その一部がトレッキングコースとなっています。このコースは、一般的にはオリャンタイタンボの先から山道に入り3泊4日でマチュピチュまでを歩き通すツアーが歩かれていますが、人数制限があってかなり前から予約でいっぱいになるようです。

話が横道にそれている間も列車は引き続き谷底を走り、標高が下がるにつれて植物が熱帯っぽく、密になってきました。到着したアグアス・カリエンテス(「温泉」という意味)は標高2000mの谷底の村で、クスコからは3時間40分をかけて1400mも下ってきたことになります。駅前の民芸品マーケットを通り抜け、アグアス・カリエンテス川にかかる鉄道橋を渡ったところが乗合バスの乗り場で、バスは客がいっぱいになったらすぐに走り出し、最初は左右を急な崖にはさまれた川沿いの道をゆるやかに下りましたが、少し行ったところで川を左岸に渡り、そこから埃っぽいつづら折りの道をぐんぐん登り出しました。このハイラム・ビンガム・ロードは、熱帯風の樹林が繁茂していても見通しは悪くなく、川がどんどん下方に遠ざかって行くのが怖いくらいです。そのまま400m一気に登ったところがマチュピチュ入口前で、これ以上ないほどの快晴の空の下に、早くもワイナピチュが見えていて気分が高揚してきましたが、遺跡の中にはお手洗いはないのでまずは50センティモ硬貨を握りしめてトイレの行列に並びました。

サクサイワマンのところで触れたように、インカ帝国最後の正統な皇帝アタワルパが1533年にスペイン人に処刑された後も、インカの王権はクスコからウルバンバ川を下ってビルカバンバと呼ばれる地に抵抗政権を維持し続けました。ビルカバンバ政権は1572年にスペイン軍によって滅ぼされ、ビルカバンバの所在はその後歴史の闇の中に消えてしまいましたが、20世紀に入って、ビルカバンバ伝説に興味を持ち古いインカの道を探検していたアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガム(『インディ・ジョーンズ』のモデル)が1911年にマチュピチュを「発見」し、これを世界に紹介しました。その後の研究で本当のビルカバンバはさらに奥地にあったことがわかってきましたが、マチュピチュ自体は誰がいつ何の目的で造られたのか、未だにはっきりしないことが多いようです。というのも、よく知られているようにインカ人は文字を使っておらず、結縄(キープ)で数値情報と一部の文章情報を伝達したので、口承とスペイン人の記録によってしか歴史が伝わってきていないからです。今のところ明らかになっているのは、このマチュピチュには最大でも750名しか住んでいなかったこと、それも恒常的に居住していたのではなく季節的に増減があったこと、つまりは離宮のようなもので、王族が滞在していないときは管理的な役割を担う一部の住民しか住んでいなかったこと、施設の役割は軍事的なものではなく太陽観察や祭祀に使用されたらしいこと、などです。第9代皇帝パチャクティのときに建設が開始されたとされていますが、それより古い時代の遺構が存在するという説もあります。

ルイスの先導でゲートを抜け、遺跡の中へ進むとすぐに右下に石の段々と草葺きの屋根が見えてきて、これは後で調べたところでは農地管理人の住居跡でした。そしてその下にはウルバンバ川がはるか下になって、その川の蛇行に深くえぐられて残った岩峰がどかんと切り立っています。しかし、もちろんこんなのは序の口でした。

急な山道を登ることわずかに10分、突然目の前が開けて、そこにあまりにも見慣れた、しかしあまりにも圧倒的な眺めが眼前に広がりました。マチュピチュ遺跡は標高2940mのマチュピチュ(「老いた峰」の意)から派生した尾根上の2400m付近を切り拓いて築かれた都市の遺構で、この尾根はその先端に標高2690mのワイナピチュ(「若い峰」の意)を隆起させてから、尾根を取り囲むウルバンバ川(この辺りではビルカノタ川)へ一気に落ち込んでいます。今いる場所からは尾根上に展開する空中都市マチュピチュがほぼ一望できて、文字通り圧倒的。ツアー参加者同士で「あり得ない景色ですよね!」「これが見たかったんですよー」などと興奮した口調で感想を漏らし合いましたが、目は眼前の景色に釘付けです。ルイスは我々をさらに高い、見張り小屋がある場所へ引率してくれて「写真を撮る時間は、後で十分とりますから」と我々を安心させてから、ガイドらしく遺跡の由来やら周囲の史跡やらの解説を加えてくれましたが、こちらはついつい上の空。

この景観はなるほど宮崎駿作品『天空の城ラピュタ』のモデルと噂されるのも頷ける風情ですが、添乗員Sさんが2週間前に来たときにはここで雨に降られたといいますから、我々は本当に幸運です。遺跡に向かって左奥には雪をかぶったプマシージョ(Pumasillo)の山並みが見えていて、ルイスも「今年初めてみた」と喜んでいます。後ろの方には、斜めに上がっていくインカ道が尾根の斜面につけられていて、その先にインティプンク(太陽の門)が見えています。これは、ちょうど尾根の鞍部になったところに石造の建物が造られてあって、ルイスの話では冬至の日にそこから射してきた日の光が遺跡内の最高所にあるインティワタナ(日時計)に当たるのだそう。ほかにも、冬至の日には遺跡内の太陽の神殿にあけられた窓から神殿内部にぴたりと日が差し込むようになっているそうで、昨日のインティ・ライミの話とあわせ、インカの人々にとって太陽の再生の日である冬至がいかに重要な日であったかがよくわかります。

雄大な景色をしばし堪能してから、高台から降り居住区域へ向かいました。道は遺跡の左端を通り、見下ろすとはるか下の方にウルバンバ川が流れています。その断崖には何段にも折り重なる段々畑構造(アンデネス)が造られていて、これが遺跡の重量を尾根上で支える役割を果たしているようです。それにしても、この基礎構造を造るのにどれだけの時間と労力を投じたのでしょうか。また、手前の段々畑ではトウモロコシやジャガイモ、キヌアほか多様な作物が栽培されていたといいますが、そうした畑や構造物を維持管理するのに、どれだけの手間をかけたのでしょう。技術力の高さもさることながら、よほどの経済力の裏付けがなければこれほどの労役を課し続けることはできないでしょう。

農耕地区との境目をなす石の門をくぐると居住地区になりますが、つるつるの石で造られたこの門の内側(居住地区側)の両脇には窪み、上には出っ張りがあり、これらを使って扉を取り付けていたようです。ここから真っすぐな通路を通り、ちょっと右に折れて倉庫のような粗っぽい石組みの建物が連なる前を通りました。居住地区は手前から奥に行くにつれて庶民・貴族・王族の住居となり、それとともに石組みも緻密さの度を増し大きくなっていくのですが、この辺りは地図によれば聖職者居住地区となっていますから、この粗っぽい建物は本当に倉庫だったのかもしれません。その先、階段を降りたところには石切場があって、インカの人たちはここで水や火を使って石を割り石同士を擦り合わせて磨き上げて石材を得たのですが、石材の供給地はこの一角だけでなく後ろに聳えているマチュピチュ山の中にもあったようです。ついで、その一角だけいろいろな植物が植えられている植物園の横から「神官の館」「三つの窓の神殿」「祭壇の神殿」に囲まれた「神聖な広場」に到着しました。「三つの窓の神殿」の東に向かって開いている三つの縦長の窓は、例によって天上・地上・地下の三世界を表しているとも、インカ発祥伝説の一つで初代皇帝マンコ・カパックたち8人の兄妹が現れた洞窟を示しているとも言われます。「祭壇の神殿」は広場のワイナピチュ側にあり、広場に向かって開いたコの字形の石組みの壁と奥の壁の基部に祭壇石が残っていましたが、向かって右側の壁が倒れそうな様子で、このため立入禁止になっていました。

マチュピチュ遺跡内の最高所にあるのがインティワタナ(日時計)。インティ・プンクからの日差しが角柱の稜を結ぶ対角線を通るということですが、本当かどうか確かめたくなってきます。冬至の日にこの遺跡を訪れたら、あちこち見るところがあって大変そうです。

ところで、このときはほぼ正午で太陽が南中している時刻ですし、インティワタナの影は手前に伸びていますから、ワイナピチュ方面は南ということになるはずですが、なんだか地図と逆のような気が……するのは当たり前で、ここは南半球なのでお日様に関しては南北を反対に考える必要があるのでした。このインティワタナの石は触れればパワーをもらえるそうなのですが、今はロープで囲まれていてタッチできません。それでも手をかざして、少しでも御利益に預かろうとする涙ぐましい私たち。

インティワタナで気持ちだけ元気になってからワイナピチュ方面へ歩く途中で、添乗員Sさんが私にうれしい提案をしてくれました。この後一行は遺跡内を見て回り、アグアス・カリエンテスに下ってレストランで昼食をとってから列車の時刻(15時30分)までお買い物という予定なのですが、食事をキャンセルし、かつ15時までに自力でアグアス・カリエンテスの駅に辿り着けると約束できるなら、単独行動でワイナピチュに登ってきてもいいというのです。事前にウェブの記録をあれこれ見てワイナピチュからの眺めに強く惹かれていましたし、旅行前の確認電話でワイナピチュのことをちょっと話題に出しただけだったのに覚えていてくれたのもうれしく、二つ返事で「行きます!」と宣言しました。ご自身も高所登山をやる添乗員Sさんのことですから、私のやる気満々のいでたちを見て「これは登らせないわけにはいかない」と思ってくれたのかもしれません。さっそく添乗員Sさんとルイスとの間で簡単な打合せが行われ、ルイスや他の参加者の方も「頑張って」と言ってくれて、ワイナピチュ登山口のゲートへ向かいました。ここでは登ったまま降りてこない人がときどきあるそうで、このためゲートの事務所のノートに氏名や国籍を記帳してから登り、無事戻ってきたらノートの同じ場所にサインする仕組みになっています。ノートに記帳をし、添乗員Sさん・マチュピチュの現地ガイドの2人に「往復2時間あれば大丈夫」「途中の分かれ道は基本的に右へ」と励まされて、山道を歩き出しました。

ゲートをくぐって、すぐに右手へ下りワイナピチュ手前のピークを回り込むと、すぐ目の前に、あたかもヘルンリ・ヒュッテから見上げるマッターホルンのよう(←誇大広告)にワイナピチュがそそり立ちます。道はすぐに急な登りになって短く折り返しながらぐんぐん高度を上げていき、こちらも最初は飛ばしていましたがだんだん急坂の登りに足が上がらなくなってきて、恥ずかしながら休み休みの登りになってしまいました。登っている人は案外少なく、それよりも下ってくる方がはるかに多いのは、日帰りのツアーでワイナピチュに登る人は少なく、多くの観光客がこの近くに宿泊して午前中に登ってしまうからなのでしょう。それでもいつの間にかワイナピチュ上部の石組みが見えてきて、すれ違った白人に「あと5分!」と激励されました。ただし実際には頂上はもう少し遠くて、左手真横に倉庫の建物が見えたらそこから10分です。小さな洞穴を抜け、段々畑の横を上がって岩が積み重なった下をくぐり短い梯子を登ると、そこがワイナピチュの頂上でした。ゲートからここまで要した時間は35分です。

まさに絶景!山頂の岩の上からはマチュピチュの遺跡の全容が見下ろせ、ウルバンバ川が作る渓谷の複雑な地形や、遠くの高い雪山の美しさも堪能できました。山頂の岩の重なりは、かっこうの展望台になっているところからするとインカ人のことだから何かの人工的な施設なのかもしれません。

ここで風に吹かれて1時間でも2時間でも過ごしていたいところですが、添乗員Sさんとの約束があるのでそういうわけにもいきません。頂上滞在10分ののち、後ろ髪を引かれる思いで山頂の裏手のスラブを下り、ちょっとした広場から標識に導かれて急な石段を下りました。

しかしこの石段は、手すりとかロープといった気の利いたものはなく、もし足を滑らせれば谷底までまっさかさまという恐ろしいものでした。

この石段を慎重に数十m下ったところに倉庫跡があって、中に入ってみると壁は分厚く頑丈ですし、高さも普通の2階建て分くらいある立派なもの。ルイスは、ワイナピチュの倉庫はマチュピチュよりも高いところにあり風通しがいいので食料の貯蔵に向いているという説明をしていましたが、それにしても断崖の上にこれだけしっかりした建造物を造るのは並大抵の労力ではなかったでしょう。この倉庫近くの段々畑もそうですが、インカ人の発想の中には「費用(労力)対効果」という概念がすっぽり抜け落ちているような気がします。それとも、皇帝が「あそこに畑を作ろう」とか「あそこには倉庫を」とか言ったら、それは神の言葉だから採算度外視で工事に取り組んだのでしょうか?労災も多かったと思われますし、もしかすると「安全第一」などとスローガンを掲げたかもしれません。

倉庫直下の階段は登山に慣れているはずの私でも前向きには降りられないほど急なものでちょっと怖かったのですが、そこをクリアしたところで登り道に戻り着き、後は先ほどふうふう言いながら登ってきた道を下りました。すると途中の月の神殿への分かれ道で、ちょうどそちらから登り着いたカップルの男性の方からスペイン語で「スペイン語、わかる?」と声を掛けられました。「No.」「English?」「Yes.」そこで彼は英語で、水が欲しいので売ってほしいと言ってきました。それならアグアス・カリエンテスからのバスに乗るときにもらった小さいペットボトルがあるので、もちろんタダで進呈。カップル2人とも喜んでくれて小さな国際親善になりました。2人と別れて先を急ぎ登山口のゲートに戻って記帳したノートに下山のサインをすると、陽気な係員のお兄さんが「OK, Amigo!!」、私も「Gracias!」と返してがっちり握手。ここで13時40分ですから、これなら約束の時刻に十分間に合いそうです。

ワイナピチュ登山口の近くにパチャママ神殿の広場があって、そこの壁のような岩には皆がインカのパワーをもらおうとヤモリのように貼り付いていますがこちらは横目に見て通り過ぎるだけ。さらに王族居住地区から貴族技術者居住地区を真っすぐ抜けて行けば「石臼」だの「コンドル神殿」だのに行き着くのですが、現在位置からマチュピチュの出口まで何分で辿り着くのかわからないので気が急いてガイドマップを見るゆとりがなく、そうした見どころがあることを把握していなかったためにこれらもスルーしました。芝生が美しい祭儀広場の方へ抜けたところでチャーミングな日本人の女性に声を掛けられて一瞬喜びましたが、もちろん単に写真を撮ってくれというだけのこと。ちょっと立ち話をすると、彼女は今日はアグアス・カリエンテス泊まりで、明日ワイナピチュに登る予定ということでした。そこで登山口の場所や道の様子などを簡単に説明して彼女の健闘を祈って別れましたが、そうこうするうちにも門限が近づいていて、やはり日帰りの行程の中でワイナピチュに登るのは無理があったかなとちょっと後悔しました。それでも「水浴場」の階段下でインカの水路の写真を撮りましたが、そこの階段の上にマチュピチュ遺跡の中でも最重要遺構の一つである「太陽の神殿」(優雅にカーブする石壁や夏至と冬至の日差しを迎える窓が有名)や「王女の宮殿」(マチュピチュ唯一の2階建て)があることに気付かず、これらも見逃すことになってしまったことは返す返すも残念です。こうなったら、何年後かの冬至の時期にここを再度訪問しなくては。もちろんインカ道をトレッキングして。

名残り惜しい気持ちを抱えたまま、マチュピチュ遺跡を出たところで14時ちょうど。客待ちの乗合バスに乗るとさして待たずに発車して、14時半には早くもアグアス・カリエンテスの駅に到着しました。それならもう少しゆとりをもってガイドマップをチェックすればよかったとは思いましたが、普通この行程では登れないワイナピチュに登れて、しかもこれ以上ない素晴らしい展望に恵まれたのですからこれだけでもやはり素晴らしい体験でした。添乗員Sさんには大感謝です。その代わり昼食抜きですっかり腹ぺこなので、土産物屋の間をうろうろ歩き回って雑貨店を見つけ、チョコクッキーとインカコーラを昼食がわりに購入しました。

帰りのビスタドームも、なかなか楽しい旅でした。車窓の左側にベロニカ山を見上げたりオリャンタイタンボの遺跡を遠目に眺めたりして寛いでいたら、オリャンタイタンボ駅を過ぎたところで車内に音楽が鳴り響き、白いマスクをかぶったアブナい扮装の男が客席を一つ一つ覗き込んでから妖しいステップでひとしきり練り歩きました。最初は引いてしまいましたが、これは「リャマ使いの踊り」というのだそう。続いて客室乗務員のきれいなお姉さんとハンサムなお兄さんによるアルパカ織物のファッションショーがあり、ここだけ車内放送に日本語の解説も入って綺麗なセーターやらショールやらをとっかえひっかえして見せてくれました。フォルクローレのBGMに乗って凄い早変わりが続きましたが、もちろんショーが終われば2人はモデルから販売員に変身して、今見せてくれた衣料品がワゴンに載って出てきて即売会になりました。私はモデルのお姉さんに魅せられてばしばし写真を撮りまくっていたので(後でツアー参加者の女性陣から「撮り過ぎです!」と教育的指導が入りました)誰も買わなかったら責任をとらなければならないかなと覚悟を固めていたのですが、車両前半を埋めた欧米人グループがカードでどんどん買い上げてくれたので、自分の財布を軽くせずにすみました。

クスコの手前のポロイ駅で団体が降りて車両の中はぐっと空いてきたので、こっそり右側の席に移動しました。これは、スイッチバックで盆地に下る列車の右手に見えるクスコの夜景を眺めるためです。列車の方も心得たもので存分に夜景を眺められるように車内灯を消してくれており、そうした中で眺めたこの夜景は、盆地を埋め尽くす淡いオレンジ色の光の海の中にアルマス広場がひときわ明るく見えて本当に素晴らしいものでした。ところが、喜んで写真を撮っていたら客室乗務員のお姉さんから「カメラをあまり窓に近づけたり外に出すと危ない」との注意を受けました。そのときはよく意味がわからなかったのですが、ホテルに戻ってから見た夜のニュース番組で都市部の少年窃盗団が渋滞中の車に近づき窓から手を突っ込んで物盗りをする映像を見て、これのことかと理解しました。さすがに列車では高さがあるのでそう簡単には盗られないという気もしますが、きっと実際にそうしたトラブルがこの列車でも過去にあったのでしょう。

クスコ到着は19時すぎ。ホームに降りたところで客室乗務員のお姉さんに写真を撮らせてほしいと言ったら快諾してくれましたが、カメラを構えたら「Only me ?」(一緒に写るんじゃないの?)と笑っています。彼女にお礼を言って手を振って、ともあれホテルに戻って少し遅めの夕食をとりました。クスコも夜の一人歩きはあまり勧められないとのことですが、21時くらいまでならお店も開いているから大丈夫でしょうとの添乗員Sさんのご託宣をもらって、列車から見てきれいだったアルマス広場に行ってみました。広場の周囲はやはりオレンジ色の街灯に彩られ、カテドラルやラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会も同系色にライトアップされており、そして、ここから見上げるクスコ周辺の盆地の斜面にもビーズを撒き散らしたように明かりが広がっていて夢のような美しさです。美しいのは上だけではなく、石畳の道も照明を反射して艶やかに光り、何とも言えない風情がありました。できることなら広場のベンチに腰を下ろして、このままいつまでもこの眺めを見つめていたいと思いました。