リマ

2006/05/14

観光初日。昨日の移動の疲れを癒す意味で、今日のスタートは11時とゆっくり目です。

今回のツアーでは、以下の四つの世界遺産を見て回ります。

  • リマ歴史地区(文化遺産)
  • クスコ市街(文化遺産)
  • マチュ・ピチュの歴史保護区(複合遺産)
  • ナスカとフマナ平原の地上絵(文化遺産)

その第一弾として、まずはリマの旧市街(セントロ)から見て回ります。灰色の空に覆われたリマ市内を、専用バスに乗って移動してささっと通過したのはサン・マルティン広場。中央にペルー独立運動の勇士サン・マルティン将軍の騎馬像が立ち、周囲の店舗も色遣いが制限されていて、我らがケンタッキー・フライド・チキンのカーネル・サンダース氏も黒塗りの看板に収まっていました。ちなみに、1985年の阪神タイガース優勝時に道頓堀にダイヴさせられ、その怨念によってタイガースを優勝から18年も遠ざけたことで有名なカーネル・サンダース「人形」は、ぺルーにはいないようです。

そのままバスはアルマス広場に向かいました。かつてこの地を支配したスペイン人によって建設・整備されたぺルーの都市の多くは、イベリア様式にのっとって中心に「アルマス広場」(武器の広場)を持っており、そこには大都市ならカテドラル(聖堂)、小都市なら教会が面しています。リマも例外ではなく、先ほどのサン・マルティン広場とこのアルマス広場が旧市街の中心で、こちらの広場にはリマ大聖堂やペルー政庁が建っています。立派なリマ大聖堂は比較的新しいものに見えますが、実はインカ帝国を滅ぼしたスペイン人コンキスタドール(征服者)フランシスコ・ピサロが1535年1月18日に礎石を置いたもので、この日がリマ建都の日。また、フランシスコ・ピサロの遺体は自ら建立したこのカテドラルに安置されています。ガイドのオスカルの話では、当時この広場はマヨール広場(大きな広場)と呼ばれていて、一時この旧名に戻す動きがあったそうですが、現在ではアルマス広場でもマヨール広場でも通じるのだとか。

リマ大聖堂の中では「母の日」のミサが行われていて、おおぜいの信徒が詰めかける中、何人もの神父が奥の壇上で儀式をしていましたが、これは撮影禁止でした。リマ大聖堂の左手には美しい装飾の出窓がある大司教の宮殿があり、広場に面する別のブロックにあるペルー政庁も中に入ることができてタイミングがよければ衛兵の交代式を見ることができるそうですが、今日は柵の外からチラ見するだけ。そして、ペルー政庁の脇の道を物騒な放水車を横目に見ながら2ブロック程歩いて着いたのが、黄色い壁が鮮やかなサン・フランシスコ教会でした。

この教会は1546年から100年以上かけて建てられた由緒ある教会で、二つの鐘楼の間の素晴らしい意匠のファサードが目を引く、しかしやたらと鳩がいる教会という印象ですが、1991年に旧市街一帯が世界遺産に登録される前の1988年に既に単体で登録されています。中庭を囲む回廊のセビリアンタイルや地下墳墓(カタコンベ)が特に有名なのですが、時間の都合でこちらも外から眺めるだけなのが残念です。

ここで写真を撮っていると、うしろから日に灼けた目つきの悪い男たちの一団を乗せた車が近づいてきました。すわ、ペルー・マフィアか?と焦りましたが、実は教会関係者が母の日のミサ用の装飾?を教会に運び込むところだった模様。人は見掛けによらないものです。

近くの公園の一角にあるレストランで昼食をとりましたが、レストランの前や横にはぺルーからスペインへ積み出す金銀を貯め込んだ倉の防壁跡が柵に囲まれて見られるようになっており、大きなピサロの銅像も建っていて、この場所は歴史公園になっているようです。また、いただいた食事のメインはパエリアでしたが、その前に出てきたセビッチェが南米海岸地域の名物料理です。これは生の白身魚を塩・胡椒・レモン等で軽く漬け込んだもので、粒の大きなトウモロコシとオレンジ色の芋と一緒に皿に盛られていましたが、あっさりした魚にレモンの酸味と赤唐辛子の辛味がアクセントになっておいしくいただきました。

ところで、先ほどから気になっていることが……。

公園からは正面にもっこりと立ち上がった丘が見えていて、てっぺんには十字架、中腹には貧しげな家が斜面にへばりつくように建ち並んでいるのですが、その頂上に近いところに巨大な白文字で「☆ALAN」と描かれています。あれは何?ガイドのオスカルによれば、丘の名前はサン・クリストバルの丘、白文字は石灰で描かれたもので、大統領選の候補者である元大統領アラン・ガルシア氏(フジモリ大統領の前の大統領)の選挙運動だそうです。サン・クリストバルの丘自体がリマの展望台として観光名所になっているのですが、そこにでかでかと文字を描くとは、ぺルーの選挙戦はスケールが違うと感心しました。そしてこの旅の中では、この後いたるところに「ALAN」と対立候補「OLLANTA」(元軍人のオヤンタ・マウラ氏)の名前が大書されているのを見ることになりました。

昼食後、再びバスに乗って移動。からからに乾ききった丘に沿った道を南へ進むうち、あたりは次第に高級住宅街になってきて、貧富の差がはっきりと町並みに現れるようになりました。走っている車もぴかぴかの新車に変わり、交差点では、途上国でよく見掛ける花売りの子供や、ダンスパフォーマンスで小遣いを稼ぐ若者も見掛けました。ちなみに車中でのオスカルの話では、ぺルーの人口は2,800万人、インディヘナ(先住民)とメスティソ(先住民とスペイン人の混血)が大半ですが、日系人は約30万人で中でも沖縄出身者が多く、中国系も100万人程います。オスカルもフルネームは「オスカル・イサイヤス・サカリヤス・イシモト」(←と聞こえた)だそうで、父方の祖父はスペイン人、祖母はインディヘナ、母方の祖父母は日本人なのだそうです。しかし、3/4もモンゴロイドの血が入っているにもかかわらず、オスカルの顔つきはヨーロッパ系のすっきりしたイケメンでした。うらやましい……。

やがて着いたのは黄金博物館。広い地階に、実業家のミゲル・ムヒカ・ガーヨ氏が若い頃から集めまくったというプレ・インカ(インカ帝国より前の南米文化)中心の黄金製品や土器・石器・骨器、ミイラなどが展示されています。ぺルー北海岸地方で10世紀頃に崇められたナイランプ神を象ったマスクや、そのナイランプ様を柄のところにあしらったナイフ=トゥミ、さらにはナスカで盛んに行われた脳外科手術の頭蓋孔に使った金の蓋なんていうのもありました。黄金の毛抜きや鼻飾り、イヤリング、ネックレスなども豊富です。ついでに1階の武器博物館も見ましたが体系的とは言い難いものの展示点数は膨大です。これでもかとばかりに展示されている古今東西の刀剣や銃の中には、日本の鎧兜や日本刀ももちろんありました。

この後は、新市街・ミラフローレス地区の海岸にある「恋人たちの公園」に足を運びました。この辺りの海沿いは断崖になっていて眺めが良く、その公園の真ん中にラブラブの恋人同士のモニュメントが置かれています。海の彼方を眺めて「日本は見えますか?」「あいにく視界が悪くて……」みたいな会話をツアー参加者同士交わしながら、しばしのんびり。

さらに、大きなスーパーマーケットに立ち寄ってぺルーの庶民の購買事情を見学しました。どこの国の市場でもそうですが、こういうところはやはり食料品コーナーが面白い!いかにもおいしそうな各種お惣菜もいいし、魚介コーナーではイカの切り身(厚さ5cmもあるということは、元はどれほどの大きさなのか?)、紫色の子持ちのカニ、殻が肉に包まれた巻貝も不思議です。野菜コーナーには細長くしっかり締まったトマト、ばかでかいパプリカ、巨大なカボチャがカットされたものが並び、ナスやアーティチョーク、トウガラシなどもみな巨大です。そして50cmほどの細長いスイカ、おいしそうな巨大パパイヤ、各種リンゴ、山積みのパイン、柑橘類、その他正体不明の果物たちといった具合で見飽きることがありません。

最後に、紀元後にリマ地方に栄えた文化が遺した日干しレンガの巨大遺跡ワカ・プクヤーナをバスの中から眺めて、本日の行程は全て終了です。こうしてみるとリマも、けっこう面白い街でした。

……といいつつ、ホテルに着いたときには、心は早くも明日のクスコに飛んでいるのでした。