パレンケ

2008/12/30

目を覚ましてみれば、幸いなことに雲間から青空が覗いています。朝食をとりに部屋を出ると、昨夜は気付かなかった中庭のプールなど案外に豪勢なホテルの様子も見えてきました。やがて出発時刻になってバウチャーが指定するツアー会社の車に乗り込むと、他のホテルも回って私以外に4人をピックアップしましたが、その4人は皆イタリア人。どうするのかな?と思っていたらパレンケ遺跡入口でパーティーをシャッフルするのだそうで、ガイド同士で客を交換してスペイン語組と英語組に再編成することになり、私はイタリア人たちと別れて1人で英語ガイドが引率するアメリカ人パーティーに混ざりました。

ガイドは開口一番「パレンケの冬へ、ようこそ!」と言っていましたが、もちろんこれはジョーク。もの凄い喧噪のパレンケ遺跡入口から密林の中の道を登るといきなり目の前に芝生の広場が現れ、右手に巨大な神殿が聳えていました。長く連なる神殿の手前側が頭蓋骨の神殿、奥が碑文の神殿です。

パレンケは、7世紀に統治したパカル王とその息子チャン・バールム王の頃(これはちょうどティカルとカラクムルの抗争期に当たります〔参考〕)に最盛期を迎えて各種の建造物が建てられたのですが、この碑文の神殿(692年完成)はパカル王の墓がその中から発見されたことで特に有名です(ただし現在は碑文の宮殿に登ることは許されていません)。墓室には殉死者の遺体や石棺があり、石棺の中からはパカル王その人の遺体と翡翠の仮面などの副葬品が発見されています。

正面には特徴的な天文台を擁する宮殿が建っており、上の写真の左の屋根の上にあるぎざぎざはその飾り屋根の名残です。

階段から宮殿の上に登ると地下通路の向こうに碑文の神殿が見え、そして宮殿の上にもマヤアーチが特徴的な通路跡があって、我々はガイドに連れられてその通路を抜けていきました。何世代にもわたって増築を重ねた宮殿は複雑な構造をしており、ちょっと気を緩めると自分がどちらに向かって歩いているのかわからなくなりそうですが、そういうときは宮殿の中心に立つ天文台が良い目印になってくれます。

途中でガイドが示したのが上の写真で、この楕円形の中にはレリーフが飾られていたようなのですが、スペイン人がはぎ取ってしまったそう。「どうしてそんなひどいことを?」という能天気なアメリカ人観光客の問いに対するガイドの回答は「あなた方もお土産を持って帰ろうとするでしょう?当時はカメラなどなかったから、浮彫りはかっこうのお土産だったのです。しかし、私はそのことに抗議するつもりはありません。そのことによって博物館に大事に保存されることになったのですから」という大人の発言でした。ただし、建築に使われた石材が持ち去られてカトリックの教会に流用されたため、やはり地元の人々は白人を嫌っているとも付け加えていました。

宮殿の中で最も広いこの広場はかつては漆喰に覆われていたが、漆喰を作るためには膨大な火力エネルギーが必要で、20トンもの木炭が必要だった……といったことを解説してくれたこのガイドさんはなかなかの名調子で、「Imagine」(思い浮かべてみて下さい)というのを頭につけてはかつてのマヤの栄華をあたかも自分が見てきたかのように語り、そのたびにお客はうっとりするのですが、「Imagine. マヤの王族は高貴なるものの義務として、棘の生えた蔓を舌に通したのです」とやったときにはさすがに皆「うー、それは!」と震え上がっていました。この自傷行為は本当にマヤの王様の義務で、男性器に穴をあける錐などというものも展覧会で見たことがありますが、そんな目に遭うくらいなら自分は庶民でいた方がずっとましだと思えます。

階段の脇にあるタブレットは囚人を示すものですが、ガイドの話では、この広場でパレンケに敵対するカラクムルの王族の処刑が行われたそうです。カラクムルとティカルは血で血を洗う抗争を繰り広げた仲で、コパンはティカルの衛星都市、そのコパンの王家にはパレンケの血筋が入っていたから、パレンケにとってもカラクムルは敵……ということになるのかな?そういえば、コパンのステラAにはティカル、カラクムル、パレンケの3大国の紋章文字が刻まれていたことを思い出しましたが、この辺りの関係はあまりに複雑過ぎて私の理解を超えています。

こちらは天文台の足元の中庭で、奥の飛び石のようなところには橋が渡してあったのでしょう。またこの塔を見上げるあたりの壁には、双頭のジャガーに乗って母親から王冠を授けられるパカル王のレリーフがありました。それにしてもこの天文台は不思議で、高さ15m、4階建てのこうした構造物は他のマヤの都市には類例がないようです。

天文台を回り込んだところで複雑な地下構造を見ることができましたが、そこには水路が通り、スチームバスや水洗トイレまであったということですから、ここに住んだ王族はずいぶん衛生的な暮らしをしていたようです。

暗い地下通路を抜けて元きた場所に戻ると、ガイドは我々に物売りが広げていた1枚の絵を指し示しました。その絵はパカル王の棺に彫られていた有名な「ロケットを操縦する人物」(本当は生命樹の下に横たわる人物)の絵で、「マヤ人たちはこうして宇宙に飛び立ってしまい、この地にはマヤ人はいなくなったのです」というのが彼の最後の解説でした。この説明に皆が大笑いしたところでこのガイドツアーは解散となり、私は11時半に神殿の近くのセイバの木の下で元のガイドと落ち合うようにという指示を受けました。時計を見ると指定の時間までは残り1時間で、周囲の諸々の建築物をじっくり見て回るには少々足りませんが、とにかく早足で歩き回ることにしました。

こちらは1段高いところにある十字架の神殿です。チャン・バールム王が建造したもので、これ自体もなかなか立派ですが、それよりも何よりもこの上からの眺めが絶景です。

これが十字架の神殿から見下ろした碑文の神殿と宮殿の眺め。パレンケの遺跡の中心部を一望するアングルで、こうして見るとパレンケが山の中腹の緩やかな斜面に築かれていることがわかります。しかし、この美しい景観もガイドの言によれば「整備し続けなければ10年でジャングルに埋もれる」のだそうです。確かに開けて芝生が広がっているのはごく限られたスペースに過ぎませんし、後で買い求めたガイドブックに掲載されているパレンケ発見当時の写真を見ても、宮殿は熱帯性の樹木に囲まれ蔓性の植物に覆われた姿をしていて、カンボジアのタ・プロームを連想させる姿でした。

十字架の神殿の前の広場をはさんで、右手(宮殿側)には飾り屋根が特徴的な太陽の神殿、左手にはこけし型の窓が不思議な葉の十字架の神殿と呼ばれる、いずれも小振りなかわいい建物が建っています。これら対になっている建物の両方に立ち寄ってから宮殿の方に戻り、碑文の神殿の隣に続いている神殿13の斜面の途中に開けられた入口から墓室に入ってみました。

ここは1993年に発見された場所で、そこでRed Queenと通称される女性の遺体が発見されています。その名前の由来は石棺の中の遺体が鉄を成分とする赤い塗料(再生のシンボル)に彩られていたからですが、この人物を特定する文書は残されてないもののパカル王の母サック・ククではないかと考えられています。もっとも墓室の中は暗く、石棺は残されているもののその中身は拝めません。そしてこの辺りで時間切れが近づき、隣の頭蓋骨の神殿は慌ただしく階段を駆け上っただけでその名をもたらしたウサギの頭蓋骨のレリーフを見ることもできずに、とうとう降り出した雨の中を約束のセイバの木に向かいました。

ところが、これだろうと思っていたセイバの木の下で待っても元のガイドは一向に現れません。うーん、これは待ち合わせ場所が間違っていたようだ、と焦りながら宮殿の周囲をぐるぐる歩き回ったり遺跡の入口の方に足を運んだりしましたが、そうこうしているうちにやはり私を探していた元のガイドがこちらを見つけてくれて事なきを得ました。やれやれ。

すっかり待たせてしまったイタリア人たちと合流してから、宮殿の北側に向かいました。

マヤの都市に欠かせない球戯場を通り「北のグループ」と呼ばれる建造物群の前を通って急な階段を下ると、こちらの斜面の途中にもいくつかの建物のグループがひっそりと残されていました。

しかし、この日が雨だったからかもしれませんが、密林の中に沈み込むような建物は湿気がいかにも身体に悪そう。もっとも、かつてはここもきれいに伐り開かれていたのでしょうけれど。

残された時間は下りきったところにある博物館でのお勉強タイムになりました。ご覧のような美しい浮彫りのいくつかには彩色が残されていましたが、それよりも目を引いたのは宮殿の復元模型でした。きれいな飾り屋根に四周を囲まれた複合建築物はすらりと美しく往時の偉容が偲ばれ、そしてパレンケの全体像を示す遺構配置図でその膨大な広がりを見たとき、英語ガイドが「パレンケの冬へ、ようこそ!」というジョークに続けて「今日見るのはパレンケの5パーセントに過ぎません」と告げた言葉が冗談でもなんでもなかったことに気付かされました。しかし、この都市が9世紀から10世紀にかけて放棄されていった理由は判明していないのです。

パレンケを離れる時刻になって、元のガイドはイタリア人たちをホテルへ戻すとそのまま私を長駆、ビジャエルモサの空港へ送ってくれました。どこまでも高い青空の下の真っ平らな土地に湿潤な熱帯雨林が広がる景観は、同じメキシコでもメキシコシティやオアハカとは異質のもの。そのことを実感しながらの2時間のドライブで空港に到着し、ぶっきらぼうながら気のいい元のガイドに感謝をこめて別れを告げました。

次の目的地はメリダですが、ビジャエルモサからの直行便がないためにまたしてもメキシコシティにいったん戻っての乗り継ぎで、直線距離ならおよそ450kmなのにその約3.5倍の距離を飛ぶことになってしまいます。

ここまでくればメキシコの国内線事情も少しはわかってくるのでここでその一端を紹介すると、だいたいは水平飛行になるとスナックが出て、そのときスチュワーデスさん(漏れなく1機に1人は若くて美人)が飲み物に氷を入れるかどうかを「Hielo?」と訊いてきます。それからなぜか子供が搭乗していることが多く、飛んでいる途中で必ず誰かが泣き出すのですが、親が「スースー」と言ってあやすと不思議に泣き止みます。そんなことを機内でメモっているうちにメキシコシティに着き、返す刀でメリダへのフライトとなって、この日はどうにか日付が変わる前にチェックインすることができました。