塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

ハワイ

私が勤めていた会社には、勤続5年ごとに海外旅行に連れて行ってくれるというとてもありがたい制度がありました。究極のハードワークも「5年辛抱すればハワイ」の一念でなんとか耐えられる仕組み……というわけではありませんが、私もめでたく勤続5年表彰でハワイへ行かせていただきました。純粋のリゾートライフを満喫した、夢のような1週間でした。

1996/10/07

夜、成田空港から発って日付変更線を越え、同じ日の朝にホノルル着。京都・福岡組と合流してただちに市内観光へ向かいます。

ヌアヌ・パリはホノルルとカイルアを結ぶコオラウ山脈の峠で、風の名所として知られ、1795年にカメハメハ大王がオアフ軍とここで最後の一戦を交えてハワイ統一に成功しました。その際、数多くのオアフ軍戦士がこの崖から墜死したと言われています。展望台からは、カイルア方面の風景が広がりました。

その後、いったんホテルに落ちついてから、夜はポリネシアンダンス&ファイアーダンスを見ながらの夕食となりました。見る前は内心それほど期待していなかったのですが、実際に見るファイアーダンスはけっこう迫力があり楽しいものでした。

1996/10/08

朝ワイキキビーチで泳いだ後、ホテルのプールサイドに陣取って日がな一日読書・昼寝・水泳。

1996/10/09

オプショナルツアーの日。

京都本社勤務時の同僚Aさんとその母上とともに飛行機でマウイ島へ。カフルイ空港からバスでハレアラ火山の山頂まで登りました。ハレアラ火山は世界最大の火口丘を擁する休火山で、標高は3055mです。ほとんど海抜0mのところから3000m以上も一気に登り切ってしまうところがさすがアメリカで、火口原状のところは月のクレーターのように荒涼としており、映画『2001年宇宙の旅』の撮影でも使われたそうです。

ハレアカラ火山から下り、サトウキビやパイナップルの畑を抜けて西マウイ側の山の麓のゴルフ場へ。バスガイドのお婆さんは、パイナップル畑の経営の難しさをひとしきり講釈していました。ここで手早くビュッフェ形式の昼食をとり、ついで次の観光ポイント=イアオ渓谷へ向かいます。イアオ渓谷は火山性のダイナミックな地形が侵食を受けて不思議な景観となっていますが、ここも古戦場なのだそうです。

この後、旧都ラハイナへ。実はAさん親子はAさんのお兄さんからウインドサーフィンのボードのフィンを買って来るようにと指令を受けていたのですが、ここで地元の人に「2ブロック先のHard Rock Cafeの隣のLocomotionという店」にあると教えられてラハイナのフロントSt.をひたすら歩いたところ、正しい店の名前は「Local Motion」(その筋では有名な店とのこと)でした。まったくヒアリングは難しい……。

Hard Rock Cafeには時間がなくて入れず、港の風情を眺めるだけでラハイナを離れることになりましたが、もし次の機会があればゆっくりこの町を散策してみたいと思いました。ともあれ、無事に買い物を済ませてからサトウキビ列車に乗り、生のココナツジュースを飲んだり自生している綿花(意外に丈が高い)を見たりして楽しんだ後、暮れなずむ空をオアフ島へ戻りました。

1996/10/10

実質最後の日。この日もホテルのプールサイドで集中的に読書を続け、かなり読み進めることができました。ところで、今回泊まったのは四つのタワーからなるリゾートホテル「ヒルトン・ハワイアン・ビレッジ」。アリイタワーに泊まった我々は快適なホテルライフでしたが、他の棟に当たった人の中には、オーシャン・ビューならぬ「壁ビュー」だったり、水回りのトラブルに悩まされた人が少なくなかったとか。

夕方、ホテル内のレストラン「紅花」で打ち上げを行いましたが、一人スカイダイビングに挑戦していたK氏が時間になっても参加しておらず、皆で冥福を祈りました(かなり遅れて参加しました)。

その後、皆でビーチへ繰り出し、ビールやワインを飲んで酔っぱらった状態で海で泳いだのですが、抱きかかえられて海に叩き込まれたOさんが怒り心頭で首謀者E氏の背中に蹴りを入れて部屋に帰ったと思ったら、ちゃんと着替えて戻って来たのには驚くやら感心するやら。そして、自分がいつ部屋に戻ったかまったく記憶がありません。

1996/10/11

前夜の遊び過ぎで午前4時の集合時刻になっても目を覚ますことができず、添乗員の電話で起こされるという不祥事。しかし、いつの間にか(無意識のうちに?)帰りの支度は全て済ませてあり、5分でバスに乗ると、名残惜しいハワイを発って日付上は翌日の日本へ帰国しました。

この旅行で読み進めた本は、藤江俊彦著『現代の広報』です。ちょっと厚く、そして固い内容ですが、広報活動についての網羅的な知識を得るよいきっかけとなり、とりわけ「危機管理としての広報」という概念を学ぶことができました。さらに、藤江俊彦氏には後日プライベート・セミナーで直接いろいろと教示をいただく貴重な機会を得ることもできました。