塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

帰国

2008/01/05-06

朝、テレビではブリトニー・スピアーズの親権問題と強制入院の話題でもちきり。平和というか何というか。

ホテルのミニバスで空港に戻り、チェックインを済ませて強烈にわかりにくい発音の係員の案内にしたがって出発ゲート近くまで移動してから、ブリトーやタコスの「PAPPASITO'S Cantina」でBreakfast Plateをとることにしました。レジの女性は注文をレジに打ち込みながら「どこへ行くの?」「東京」「Your home?」と話し掛けてきます。そのにこやかな応対にとても好感を持ちましたが、肝心の料理はお世辞にも日本人の口に合いそうなものではありませんでした。

11時20分、いよいよ離陸。機内で見た映画はジャッキー・チェンとクリス・タッカー主演の『Rush Hour 3』で、これは以前キリマンジャロへ向かう機中で見た『Rush Hour 2』の続編です。前回はジョン・ローンとチャン・ツィイーが悪役で出演していましたが、今回は真田広之と工藤夕貴。エッフェル塔での死闘は映画館の大画面で見たら凄い迫力だったでしょうが、ストーリー的には可もなく不可もなく、さすがに歳のせいかジャッキーのアクションが控え目なのが明らかでした。続いて見た『The Game Plan』は、プロフットボールチームのQBのもとに本人がその存在を知らなかった8歳の娘が突然訪ねて来て巻き起こる騒動を描いたもの。脚本も芝居もよく練られており、子役の演技も特筆もので理屈抜きで楽しめました。

それにしても、太平洋は広い……。飛行時間はまだまだありますが、映画を2本見た後は軽いものにしたくなり、米国の料理番組を見てみたところ、これがある意味凄まじいものでした。TVでのフットボール観戦のために自宅に招いた友人たちが腹をすかせているので、仕方なく主人公は一人厨房に入ってTVを見ることもできずにひたすら料理を作るというシチュエーションなのですが、肉、野菜、果物などなんでもフードプロセッサーに入れて粉砕してから鍋に入れ、そこにびっくりするほど大量のスパイスと豆の缶詰、ビールなどをぶちこんでドロドロに煮込んでいるだけ。見た目にはとても人間の食べるものに見えないのですが、これを主人公は「Great!」とか「Beautiful!」とか自画自賛しながら作っています。さらにトルティーヤを油で揚げながら「G.B.D! Gold and brown is delicious!」などと揚げ方の秘訣を披露してくれましたが、それにつけるソースも同様のゲル状。成分的にはそこそこバランスがとれているとは思いますが、何しろ外見がおぞましい。こういうのを見ると、日本人に生まれて本当によかったと思います。

それにしても、まったくもって太平洋は広い……。もう1本映画を見る時間があるので、邦画『自虐の詩』をちらちらと見ました。ちらちら、なのでストーリーもよくわかっていませんが、中谷美紀はいい女優さんだなあとつくづく思います。それに、阿部寛のちゃぶ台返しは賞賛に値する妙技でした。

そうこうしているうちに、ようやく日本が近づいてきました。しからばと手帳を取り出してお土産の配分を考えましたが、こちらにコーヒー、あちらに写真集、こっちが翡翠……などと計算してみると、どう考えても職場の分が足りません。しまった、もっとゆとりをもって買えばよかったと後悔してみても後の祭り。今からグアテマラへ引き返すことはできないのですから。

参考情報

歴史

グスタヴォが盛んに引用していたのが『National Geographic』の記事。帰国してから私も買ったので、まずはその地図を以下に引用します。

この地図にも記載がある通り、マヤ文明の歴史はおおまかに区分すると「先古典期(500B.C.-250A.D.)」「古典期(250-900)」「後古典期(900-1502)」の3期に分けられます。既に先古典期の後期にあたる紀元前3-2世紀においてペテン低地のエル・ミラドールに高さ72m、底辺が500mと350mという巨大なピラミッドが建造されていますが、今回の旅で見て回ったティカルやコパン、キリグアは、長期暦石碑をもつ都市が盛んに造られ、そして最後には放棄された古典期に属しています。

マヤ文明の版図もまた、三つの地域に分けられます。グアテマラ高地や太平洋岸の低地を含む南部地域、グアテマラのペテン州とメキシコのカンペチェ州内陸部に広がる熱帯森林である中部地域、雨の少ないサバンナ気候である北部地域です。古典期の主要都市は、このうち中部地域に展開しました。

古典期は、メキシコのテオティワカンの影響が強い前期とマヤの諸都市が争った後期に分けられ、前期の画期となったのは西暦378年、テオティワカンの武将シヤフ・カックの来訪です。シヤフ・カックはワカを起点としてマヤ調略を進め短期間にティカルを制圧し、ここにテオティワカンから新王を迎えました。西暦426年にはティカルが270kmも南に離れたコパンを制圧していますが、コパン新王朝の初代キニチ・ヤシュ・クック・モはテオティワカン風のゴーグルをかけた姿で祭壇に彫られています。そして、古典期後期は、ティカルとカラクムルという二大優越都市の対抗の時代となりました。これらの都市は、マヤ全土を統一する王朝を築くことはありませんでしたが、かつての東西冷戦のように都市連合の盟主同士として覇を競ったようです。

ティカルの王族バラフ・チャン・カウィールは、エル・ミラドールの後継者を自認するカラクムルの勢力が伸びてきたパシオン川流域の押さえとして635年、ドス・ピラスに封じられましたが、カラクムルにとりこまれたバラフ・チャン・カウィールは祖国を裏切り、679年にティカルを打倒しました。しかしそれもつかの間、695年にティカル王ハサウ・チャン・カウィール1世はカラクムルを破り、以後カラクムルは衰退の一途を辿ります(なお、これらの都市名は現在の名称で、マヤ時代の実際の呼び名はわかっているものもあれば不明なものもあります)。とは言うものの、その後もマヤ世界に安定した秩序がもたらされることはなく、200年ほどの時間の流れの中で、人口過密や環境破壊、気候変動などによって土地の生産力が損なわれるとともに王権の威光も失われて、古典期の都市は一斉に衰退していきます。ティカルで日付が残る石碑が最後に立てられたのは869年。密林の中の低地マヤ諸都市が放棄された後、後古典期の都市群がユカタン半島北部で石造建築の技術と伝統を継承しますが、もはや長期暦が刻まれることはなくなりました。

ところで、マヤ文明の担い手であったマヤ人たちの生産力の源泉は何だったのかという疑問が湧いてきます。当時も今もマヤの主食はトウモロコシで、種1粒が100粒以上の収穫をもたらすその生産性の高さが古典期マヤの社会を支えたことは間違いないのですが、それにしても当時のマヤ低地の人口密度は焼き畑農法で維持するには高過ぎます。研究者たちは、この疑問に対する答として、当時の農法は単一の焼き畑農法ではなく、土地の特性に応じて住居周辺での畑作、低湿地での盛り土畑、土壌の浸食を防ぐための段々畑、半自然半栽培状態の樹木の利用などいろいろな工作法を組み合わせるやり方をとっていたのだろうと考えています。そして、農民によって開発・維持されたこうした多彩な農法に対し、王権が要求したトウモロコシ単一栽培は土地の生産力を損ない、増え過ぎた人口に対して困難な状況をもたらした可能性があると指摘されています。

とはいえ、未だに古典期マヤ衰退の理由は完全に解明されてはいません。

通貨

グアテマラの通貨単位はケツァールQuetzal。US$1がだいたいQ7強という計算でした。「ケツァール」とは右の画像に見られる背羽根の緑が鮮やかな鳥の名で、今でもグアテマラの国鳥で国旗にもあしらわれていますが、かつてはマヤの王族の頭飾りにも使われた由緒正しい(?)鳥です。ただし、旅行者が野生のケツァールの姿を見ることは難しいようです。

私は旅行中ケツァールへの両替を行わず、基本的にはUS$のみで済ませてそれで困ることはほとんどなかったのですが、唯一、アンティグアでレコレクシオン修道院の入場券を買おうとしたときには「ケツァールでないとダメ」と言われました。まあ、一定の現地通貨を用意するのは旅行者としてのマナーかもしれません。

ところで、上のケツァール紙幣の右上に楕円形と点からなる奇妙なマークがついているのがわかるでしょうか?これは、「20」を表すマヤ数字です。もう少し正確に言うと、マヤ数字では点(・)が「1」、横棒(—)が「5」を示し、楕円形の中に葉脈みたいなものがあるマークは「0」(←つまりゼロの概念を知っていました)で、かつ数の数え方は20進法なので、上の「・」は20の位が1=20、下の楕円は1の位が0、合わせて20というわけです。ではQ100ならどうなるかと言えば、20の位が5で1の位が0になるので、画像にある楕円形の上の「・」が「—」に置き換わります。20進法ということは1の位が最大19まであるわけで、たとえば18は「・」が三つと「—」が3本の組み合せで示されます。こんな感じ。

そう、これがコパンのステラAに刻まれた「18ウサギ王」です。

後遺症?

グアテマラへの旅から帰ってもうずいぶんたったある日、おかしなことに気が付きました。見慣れた都心の景観が、どうしてもティカルの廃墟の景色とだぶって見えてくるのです。もしや後遺症?しかし、これがまったくの妄想だと果たして言い切れるでしょうか。