コパン

2007/12/31

実質的な旅の初日は、ホンジュラスのコパン遺跡へのショート・トリップです。

グスタヴォの運転する車でグアテマラシティ内を走りながら、銅像にもなっているグアテマラの2人のノーベル賞受賞者、ミゲル・アンヘル・アストゥリアス(1967年・文学賞)とリゴベルタ・メンチュー(1992年・平和賞)の説明を聞きました。アストゥリアスの文学は独裁政権と米国資本に支配されるグアテマラを描いたもの、そしてメンチューの活動は先住民への迫害に対するプロテストとして行われたもの。いずれも、グアテマラの民主化と人権回復に連なる系譜です。

続いて、旧市街で短時間車を降り中央公園に面したカテドラル(ギリシア風の円柱が立派)と国立文化宮殿を眺めたらグアテマラシティ観光はおしまい。郊外へ出て、東北東に向かう道を走りました。大晦日とあって首都と港を行き来するトラックが少ないからスムーズに走れるだろうというのがグスタヴォの見立てです。

標高1500mのグアテマラシティから800mのコパンまで、道は緩やかに下っていきます。グアテマラというと熱帯雨林のイメージがありましたが、この道筋に関しては緑は豊かでも比較的乾燥した起伏の多い景観が続いていて、ところどころに大きなサボテンなども見えたりします。すると途中の切り通しでグスタヴォが車を停め、道路脇に散らばっている黒い石を拾ってみるように勧めました。その言葉に従って車を降り、つやつや黒光りがして薄い部分が透き通って見える石を手に取り車に戻ると、それが黒曜石(obsidian)だとのこと。黒曜石はマヤ時代に刃物として活用され、交易の対象にもなっていたものですが、それがこんなに簡単に手に入るとは。

黒曜石は溶岩が急速に冷えて固まってできたもの、つまり火山地帯に多く見られる石ですが、グアテマラも火山国で地震も多いし、巨大低気圧(ハリケーン)があるという点でも日本と似ている、とグスタヴォは説明してくれました。プレートテクトニクスまで持ち出してこうした説明をするグスタヴォは見掛けによらず学識があるなぁと感心しました。しかし、その一方で自分の説明になると、40歳の奥さんと10代の子供と、ほかにあの町に18歳のガールフレンド、この町に16歳、と艶福家としての素顔も見せてくれました。うらやましい……。

モタグア川の峡谷に沿って、車は緩やかに下降を続けました。窓の外には時折スイカ畑やタバコ畑が広がりましたが、マヤの貴族もタバコを用い、喫煙によって精神状態を変化させたりタバコの煙を天上の神に送って豊作を願ったりしたそうです。では、今やグアテマラ名産のコーヒーはマヤの時代に飲まれていたのか?グスタヴォの答は「No」。コーヒーはエチオピア原産で、アメリカ大陸に移入されたのは18世紀だから当然です。一方、カカオはマヤ人にとって貴重な作物で、その実は通貨としても使われ、貴族はカカオを挽いてハチミツに混ぜて飲んでいたそうです。コパンはマヤ世界の中でも南東端にあり、マヤに大きな影響を与えたテオティワカンから見れば辺境といってもよいのですが、そんな立地にありながらコパンが5〜9世紀にかけてマヤ有数の優越王国であり続けられたのは、このモタグア川沿いの道が当時もマヤ高地とマヤ低地を結ぶ重要な交易路で、その上流域には上述の通り黒曜石を産し、さらに中流域では翡翠を、下流域ではカカオをもたらし、コパンがこの通商と産物を統制していたからだと考えられています。

11時前に賑やかな国境に到着し、ここでグスタヴォが入国手続をしてくれたパスポートにはCOPAN RUINASのスタンプが捺されました。これはホンジュラスへの正式入国手続ではなく、コパン観光用のテンポラリーな入国許可のようです。そこから15分ほどでコパン・ルイナスの町を抜けてコパン遺跡に到着し、ビジターセンターでローカルガイドのマルヴィン・ディアスに引き合わされて、ここからは彼のガイドを受けることになりました。

公園の入口からすぐのところに植樹されているセイバの木は、我らが元皇族サーヤが2003年に植えたもの。さらに進んでマルヴィンが示してくれたのが、ドライブの途中でグスタヴォがその重要性を教えてくれたカカオの木。そしてその先のゲートのところには原色も鮮やかなコンゴウインコが群れをなして木にとまっていました。この赤を基調とするコンゴウインコは、古代のコパンでは太陽を象徴したとのこと。こんな具合に、遺跡に達する前にも見どころいろいろ。なんとサービス精神旺盛な遺跡なのだろう。

ゲートでマルヴィンは、他のガイドから2mほどの細い棒の先に鳥の羽根をつけたものを受け取って「This is my weapon.」。なるほどこれなら、遺跡を傷める心配なくあれこれ指し示すことができそうです。うっそうとした巨木の密林の中を歩くことわずか、かつての下水道をまたいで自然の地形のような丘を登っていくと、目の前が開けて広場が現れました。これが西広場で、左手の高い壁が神殿11、正面に見えているひときわ高いピラミッド状が神殿16。神殿16は約400年にわたって何代もの建築物が積み重ねられてできあがっており、そのうち「ロサリラ」と名付けられた神殿は発掘坑から見ることもできるそうです。

▲神殿16の内部構造。古い時代に建てられたさまざまな建造物が内部に埋まっている。(© Newton Press)

神殿11の手前にはワニの頭のような石像が置かれており、壁にはマラカスを持つ猿のような風の神が2体、その間の階段上に雨の神もいてマルヴィンはこれを「シャークだ」と言っていましたが、雨に打たれてかなり傷んでいるため細部は判然としません。そして神殿16の前にはステラ(石碑)Pと祭壇Qのレプリカが置かれています。

祭壇Qは重要で、その四つの側面には一面に4人、合計16代の王が彫られており、正面の真ん中には西暦426年にティカルからやってきた初代キニチ・ヤシュ・クック・モ(「最初の太陽・コンゴウインコ・ケツァル」。神殿16の最下層から彼のものと思われる墓も見つかっています)が16代ヤシュ・パサフ・チャン・ヨアート(「最初の夜明け」)に王権の象徴であるバトンを渡している姿が見られます。ヤシュ・クック・モはテオティワカンに由来するゴーグルを着けた姿をしており、この祭壇はヤシュ・パサフの王権が初代からの正統性を引き継ぐものであることを示しています。なぜそのような図像が必要だったかと言えば、ヤシュ・パサフ自身は母親こそパレンケ出身の高貴な血筋でしたが、父系は王統外であった(らしい)からです。

神殿16の南側に回り込むと、神殿の側面には発掘前後の遺跡の様子の違いが対照できるようになっており、また通路の南側にはかつて王やその家族が住んだと思われる低い一角が広がっていました。

「低い」と書きましたが、実は神殿11や神殿16などによって構成される小高い丘状の構造物=アクロポリスは自然の丘を利用したものではなく、全て人工の構造物によって得られた質量です。したがって「低い」位置の高さがこの遺跡が位置するコパン川流域の本来の高さだということになりますし、そう考えるとこのコパンがどれだけの労力をつぎ込んで作られた都市であったかということがある程度実感できるようにもなってきます。

引き続きマルヴィンに連れられて東広場(ジャガーの広場)を見下ろす高い通路をぐるりと巡り、神殿22のおどろおどろしいレリーフを眺め、神殿11の前を通ってアクロポリスの西側から階段状の石組みの下方に見えている巨大な広場へと降りていきました。

まず神殿11の正面下に立つステラNの重量感と高浮彫りの深さを堪能してから、神聖文字の階段とその前に立つステラMの前に立ちました。これらはいずれも749年に即位した第25代カック・イピヤフ・チャン・カウィール(煙貝王)が立てたもので、煙貝王は後述する「悲劇」の後に低迷したコパンを再興しようと盛んに神殿増改築を行った王であり、神殿26へと登る21mに及ぶ階段には2,500文字以上の神聖文字で王朝の歴史が刻まれています。今は保護のために巨大なテントのようなもので覆われているのが景観上は残念ですが、それでも近くで見るとその迫力には圧倒されます。

ところで煙貝王やその父の煙猿王、さらには第22代の煙イミシュ王などの名前に見られる「煙」とは何でしょうか?この点をガイドのマルヴィンに聞いてみたところ、かつてのマヤ人は煙を上げて神と交信したという説明が帰ってきました。なるほど、ここで午前中にグスタヴォがしてくれたタバコの話とつながりました。また、王の名前には他に第7代睡蓮ジャガー王とか第20代月ジャガー王といった具合に動物の名前を引くものもありますが、その中でも最もユニークで重要な王が第23代ワシャクラフン・ウバーフ・カウィール(在位695-738年)、通称「18ウサギ王」です。

マヤ世界でも最も美しい球戯場の一つと言われるコパンの球戯場は、738年に18ウサギ王が造ったものです。コートの左右には緩やかな斜面が作られ、その上の構造物には持送り式のアーチの門があって、選手はそこから入場した模様。ここで行われたフットボールは、中央の仕切り線をはさんで2組にわかれた選手がゴム製のボールを肩・肘・腰・膝を使って打ち合うルールで、負けると首を刎ねられることもあり命がけですが、マヤ世界での球技は娯楽ではなく王の即位や豊穣祈願時の祭祀儀礼なのだから仕方ありません。そして一説によれば、18ウサギ王はこの球戯場用の生贄捕獲のためキリグアに出掛けたものの、逆にそこで囚われの身となり、斬首されてしまったのだそうです。

コパンの最盛期を演出した18ウサギ王の事跡を示す遺構は、もちろん球戯場だけではありません。むしろ、グラン・プラサ(大広場)に林立する芸術性の高いステラにこそ、そのカリスマ王としての真価が発揮されています。43年間の治世において8本の極めて装飾的なステラが立てられており、たとえば731年に建立されたステラAには、正面に18ウサギ王の肖像が刻まれ、側面や背面にはティカル、カラクムル、パレンケという当時のマヤ世界の3大国の紋章文字とコパンの紋章文字が刻まれています。

またステラCも素晴らしく、赤いペイントが残った中央の石像は東からただの四角い直方体、西から亀の獣形祭壇に挟まれ、東に面した顔は若々しく、西に向いた顔は老人の風貌をしています。つまり、日の登る東面(左)は始まりの、日の沈む西面(右)は終末の様相です。今はこの広場は一面芝生に覆われていますが、当時は漆喰で舗装されて彩色されており、そこにこれらの石碑が林立し、王ははるか高いアクロポリスの上に姿を現して神と一体となる儀式を繰り広げたのでしょう。後でティカルでも言及することになりますが、マヤの王権は軍事力よりも多分に宗教的権威をもって統治していたようです。

マヤ世界は最後まで金属器を知らず技術的には新石器時代にとどまっていた上に、大半が熱帯林で大規模な兵站を可能にする環境になく、それどころか牽引動物がいないこともあって車が存在しませんでした。このため、巨大な軍事帝国がマヤ世界を統一するということがなく、それぞれの都市はある程度の序列を持ちながら緩やかに結びついていたようです。そうした中でコパンはマヤ世界の南東端に位置する優越王国としての繁栄を謳歌していたのですが、上述のように18ウサギ王が不慮の死を遂げると、続く第24代カック・ホプラフ・チャン・カウィール(煙猿王)からは有力家系による集団統治に移行し、続く第25代煙貝王のときに一定の復興をなし得たものの、第26代ヤシュ・パサフの死後しばらくたってから即位したウキト・トーク(即位822年)の在位は短命に終わって、以後コパンに長期暦が刻まれた石碑や祭壇が造られることはありませんでした。

ひとしきり見終えて公園の出口でマルヴィンと別れ、車で待っていたグスタヴォと合流してのランチタイムは、コパン・ルイナスの町の中のレストラン「Churrasqueria Momo's」で。大きなマラカの木が緑の丸い実をつけている庭に面したテラスで、まずはビールを注文しました。出てきたのはモンド・セレクションで賞をとったというPort Royal Exportというビールで、きめ細かい泡と上品な味、それでいてアルコールがすぐに回ってくるいかにも左党向けのビールです。ただし車を運転するグスタヴォは、気の毒にコーラで我慢していました。そしていただいたのは、ホンジュラスではピンチョと呼ばれる肉と野菜のとてもおいしい串焼きに付け合わせのポテト、トマト、白く塩味のきいたチーズ、そしてペースト状の甘いブラックビーンズ。このブラックビーンズには、この後あちこちでお目にかかることになります。

ランチを食しながらグスタヴォと話したのは、コパンの輝かしい歴史と偉大な王たち……ではなくて、カリブ海観光開発の話。かつては政情不安定だった中米諸国も近年は安定し、カリブ海沿岸地方の観光開発に力を入れていて、世界各国からダイバーを集めているのだそうです。ところがグアテマラはカリブ海の海岸線が他の中米諸国に比べて短くこの点で不利、なんだとか。

昼食後は、遺跡に隣接する博物館に移動しました。実はコパンの遺跡にある石碑や祭壇の多くはレプリカで、あの祭壇QやステラAも本物はこちらに移設され、大事に保存されています。さらにこの博物館のセールスポイントは、神殿16の下に埋もれているロサリラの再現です。これを見ながらのグスタヴォの講義の内容を箇条書きにすると次のようでした。

  • マヤの暦は紀元前3114年に始まり、来たる2012年の12月22日に一つの大きなサイクルが終わる。このサイクルの後半には太陽はunderworldに沈むので、太陽を助けるために王は犠牲を捧げる。
  • 人々が待つ間、王は神殿の中に入り、タバコを喫って瞑想に入ると、脳のキャパシティの90%が活かされるようになり、祖先と会話ができるようになる。
  • 18ウサギ王の頃には森林伐採が進み、雨も降らず、人々は旱魃に苦しんだため、王は何度も祖先と交感しなければならなかったので、18ウサギ王の時代は石碑が多い、云々。

博物館見学で今日の行程はひと通り終了しましたが、最後にグスタヴォはコパン渓谷を見下ろす小高い位置にあるトラディショナルな雰囲気のロッジ「Hacienda San Lucas」に連れて行ってくれて、コーヒーを飲みながら「美しい風景だろう?自分はこの場所が本当に好きなんだ」。確かに彼の言う通り、ここから見下ろす渓谷の眺めはどこまでも穏やかで、このロッジに何日かステイしたくなるほどでした。

この日のコパン・ルイナスでの泊まりは、小さな中庭をもつコロニアル風のホテル「Camino Maya」です。そしてこの日は大晦日。町の人々も観光客も深夜まで町をうろうろしたりバーで飲んだり。もちろん私も、往来の賑やかさにつられて夜中に外に繰り出し、浮かれたような町の雰囲気を楽しみました。