塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

バリ島周遊

2003/12/31

メインイベントが終わって今日はバリ島東部周遊の日。ガイドブックに書いてある面白そうなポイントを、ウブド起点で行ける範囲内でなるべくどん欲に見て回ろうというわけです。8時45分にホテルのロビーでグン氏と落ち合って、車で出発しました。

まずはウブドからいったん南下し、バロンダンスのメッカであるバトゥブラン村の劇場に入りました。劇場といっても、客席には屋根があるものの舞台はオープンエアで、中央奥には割れ門、下手にガムランの楽団の座敷があり、役者たちは奥の割れ門から現れて正方形の舞台上に繰り出す仕組みです。我々が会場に入ったときは客はほとんど入っておらず、最前列のうまく日陰になる位置を占めて開演を待つことができました。後から西欧系やアジア系のお客が三々五々入ってきましたが、最初から切れ目なくガムランを演奏し続けている20人ばかりの奏者たち(縦笛1人を除いて皆打楽器)が手元を見ずに客席ばかり見やって「今日も客が少ないな〜」という顔をしているのが笑えます。やがて、それ以上の客の入りを諦めたように開演しました。

バロンダンスのストーリーは、次のようなものです。

  1. サデワ王子はこの日、パタリ・ドルガという死神の生贄として捧げられる運命にあった。サデワ王子の母である女王の2人の召使いがそのことを悲しんでいると、死神の使いである魔女が2人の前に現れる。緊迫したやりとり。魔女が帰った後に、召使いはサデワの国の首相に助けを求める。
  2. 首相と女王の登場。魔女は女王の気が変わらぬように、女王に呪いをかけ、サデワ王子を生贄にするようにと首相に命じさせる。
  3. 首相は女王の命令に背こうとするが、やはり魔女に呪いをかけられ、サデワ王子を死神の住む家の前に縛りつける。
  4. シヴァ神はサデワ王子が木に縛りつけられているのを見て哀れみをもち、サデワ王子を不死身にする。
  5. 死神が現れ、生贄の儀式にとりかかろうとするが、サデワ王子が不死身の身体になっているのを見ると自分の敗北を認める。死神は、サデワ王子に自分を殺してくれるよう頼む。これによって死神は天国へ行けるからだ。
  6. 死神の第一弟子のカレカは同じように天国に行きたいと望み、死神同様に殺してくれるよう願うが、サデワ王子は同意しない。カレカは巨大な動物や鳥に変身してサデワ王子と戦うが、いずれも負けてしまう。カレカは最後の力を振り絞って悪魔の女王であるランダに変身する。サデワ王子はこのままではランダにかなわないと知り、真実の神バロンに変身する。
  7. バロンの味方が現れるが、ランダの魔法によりバロンに挑みかかる。バロンはランダのかけた魔法を取り除き、結局はランダとバロンの終わりのない戦いが続く。

サデワ王子役の役者さんは凛々しい顔立ちの若い女性で、張りのある高い声を独特の節回しで語って颯爽としていました。一方、2人の召使いはかなりコミカルな役どころで表情も豊か、死神に脅されて舞台をつっきり客席中央の通路を逃げてきて客の袖にすがってみせたりして笑いをとっていました。そして長い白髪に長い爪をもち邪悪な面をかぶった死神の舎弟たちはユーモラスな猿ですが、魔女カレカは黒髪の長い不思議な雰囲気を漂わせた女性です。獅子舞の豪華絢爛版のような聖獣バロンは2人がかりで演じられ体長3m、その仮面と胴体はあわせて重さ80kgもあるのだそうですが、そうしたことを感じさせないダイナミックな動きが見応えたっぷりでした。

バロンダンスのストーリーは、善と悪とがどちらの勝利もないままいつまでも同時に存在し続けているというバリの二元論的な思想を反映しています。バロンとランダの戦いは永遠に続き、ランダにかけられた魔法をバロンによって解かれた使徒たちは最後に胸にナイフ(クリス)を突き立てても死ぬことができません。日本的な勧善懲悪とはまったく異質で、見ているうちにバリの霊的な世界へ吸い込まれていくような感覚を覚えました。

劇場を出て車に乗り、今度は北上してキンタマニを目指しました。その途中に立ち寄ったのがトゥガラランで、ここはライステラス(棚田)が有名です。ビューポイントの近くで道路脇に車を停めて谷をはさんだ東側に何重にも連なるライステラスを眺めると、あいにく稲が刈り取られた後の様子でしたが、ここに緑の稲がふさふさと植わっていたら本当に美しいに違いないと思いました。

しばらく景観を楽しんでから車に戻り、さらに北へ進みます。道はどんどん高度を上げ、やがて見晴らしの良い場所に出たらそこがバリ島きっての景勝地であるキンタマニでした。巨大なカルデラの中央火口丘が標高1717mのバトゥール山、外輪山の東側にある最高峰が2153mのアバン山で、この間にとても大きなバトゥール湖が広がるなかなか雄大な眺めです。18年前のかすかな記憶ではカルデラの中はもっと荒涼とした雰囲気だと思っていたのですが、いまこうして見るバトゥール山周辺は緑が豊かで、バトゥール湖の周囲にはホテルやレストランも建ち並んでおり、ずいぶん印象が違っていました。ただの記憶違いなのか、それとも18年の間に環境が変わったのか……。

カルデラの下までは降りずに外輪山上の展望台からカルデラの全景を眺めた後、近くのレストランで昼食をとりました。注文したのはナシ・チャンプルですが、さすが観光地価格でカフェ・ロータスの1.5倍の39,000ルピアもしました。また、ビールBali Hai(映画『南太平洋』を思い出します)は苦みがきいていておいしかったのですが、窓の外で物売りがさかんに商品を広げてこちらにアピールしてくるのが少々興ざめでした。

食事を終えたら車に乗って、今度はキンタマニの東南に位置する聖峰アグン山南麓のブサキ寺院へ向かいます。途中の山道はよく整備されていて、バトゥール湖がますます大きく立派に見えるようになりましたが、あいにくアグン山は雲に隠れて姿を見せてくれません。アグン山は標高3142m、バリの人々の精神的な中心地で、伝統的な方角は東西南北ではなくアグン山方向(カジャ=清浄な方角)とその反対(クロッド=不浄の方角)となっているほど。そのアグン山のてっぺんに登るツアーもあるのですが、バリ島の人々は聖なる山の頂に外国人たちが土足で立つことにどういう感情を持っているのかが心配になります。それとも昔から講中で登られている富士山のようなものなのかな?

ブサキ寺院はバリ島のヒンドゥー教の総本山で、16世紀から本格的に栄えた由緒ある寺院です。アグン山の手前の斜面にいくつかの小寺院を細胞のように集めた複合寺院の姿をしており、正面中央には背の高い割れ門、その奥にはこれも背の高い、そしてたくさんの塔(メル)が建ち並びます。我々のような観光客は境内に入ることはできず、各小寺院の間を走る通路のような坂道を巡るだけですが、ちょうど地元の人々が祭礼に訪れている様子を門から覗いたり、塀越しに塔やお堂を見ることができました。そして正面の割れ門の右側の階段を登って坂道を突き当たったところにある展望台からは広い寺院の全体像やその向こうに広がるバリ島東部の広闊な眺めを見やることができて、自然に心が落ち着いてきました。

ところで、ブサキ寺院に入るときはバリ島の正装であるサルン(腰布)をまとわなければなりません。ユウコさんは以前にもブサキ寺院に来たことがあるので、あらかじめ日本から大きな風呂敷を持ってきており、それを私にも貸してくれたのでサルンを買わなくてすみました。ミャンマーでロンジーを買っておけば、それでもよかったのかもしれません。

寺院の門の前には飾り付けを施した高い竹が立てられており、道中の村でもこれが道の両側に並んでいるのを時々見掛けましたが、これはペンジョールと呼ばれる一種の幟で、天と地をつなぐ龍を表したものなのだそうです。

展望台から中心寺院であるプナタラン・アグン寺院の裏手を西側へ回り込んで石畳の小路を下り、11層のメルやたくさんのお堂を眺めながら、ゆっくりと寺院正面へ戻りました。次に向かうのはスマラプラです。

ブサキ寺院から南へ、美しい村々や田園風景を通り抜けながら標高を下げていくと、バリ島東部の古都スマラプラに到着しました。ここは、16世紀にイスラム勢力によってジャワ島を追われバリ島へ移住したマジャパヒト王国の人々が立てたゲルゲル王朝が分裂した後、その直系として18世紀から20世紀までバリ島の正統王朝の地位を守り続けた都です。市街の中心にあるのがスマラプラ宮殿で、まずは中央に池がある四角い敷地の角にある裁判所クルタ・ゴサに登ってみました。1段高いテラスの上に大屋根をかけた構造のクルタ・ゴサの中央にはテーブルをはさんで三つずつの装飾の細かい椅子が置かれており、3人の僧侶がここで裁判官をつとめていたそうです。またここの特徴は天井画で、裁判所らしく罪と罰に関する数々の恐ろしい絵がカマサン・スタイルで描かれています。

私が写真をばしばし撮っていたら、ガイドのグン氏とユウコさんが英語でアラビアンナイトがどうしたこうしたと話をしていましたが、ここにも王に差し出された大臣の娘タントゥリが夜毎寝物語として語った話が天井画になったという話があるそうです。しかし、その内容が本当にこうした「罪を犯すとその罪に応じた恐ろしい罰が待っている」という話だったとすれば、怖くてとても眠れなくなるのではないでしょうか?

そして敷地の真ん中にある四角い池のさらに真ん中に立つのが王族の休憩所バレ・カンバンで、もとは17世紀にスマラプラの南にあるゲルゲルに建てられたものを1940年代にここに復元したのだそうです。ここも涼しそうな吹き抜けの構造で、建物の外壁や池を渡る橋の欄干などに彫りの細かい彫刻が施されています。

天井にはやはりカマサン・スタイルのヒンドゥー神話っぽいモチーフの絵がたくさん描かれていて見応えがありました。

近くには博物館があって王家の宝物などが展示されていましたが、ここで最も印象的だったのはオランダ軍と戦って破れた最後の王家の写真でした。19世紀半ばからのオランダの侵攻に抵抗を続けたスマラプラ王朝は1908年に最後の決戦を挑んで滅びたのですが、王とその幼い王子を含む王の家族が写っている古びた白黒写真には、1908年4月28日に彼らが戦いによって亡くなったことが解説として付されていました。オランダ軍との戦いの様子を描いた絵も展示されており、銃で装備したオランダ軍に対してバリ独特の波打つように曲がった短剣で挑み、倒れていく王朝軍の模様がリアルに描かれていて、日本人にとっては楽園のようなリゾート地のバリ島にもこうした弾圧と抵抗の歴史があったのだということを今さらながらに思い知らされました。

バリ島東部周遊の旅はこれでだいたい終わりですが、最後にウブド近郊のゴア・ガジャに立ち寄ることにしました。

ここは11世紀に造られた寺院の遺跡で、駐車場から斜面を下りていくと下の広場にいかにも古そうな石造の沐浴場が地面を掘り下げるように造られており、ガンジス川ほかの聖なる川を表す水差しを持つ女神像(アプサラス)がこれを囲んでいます。そして広場の左手には巨大な異形の石彫りが施された洞窟の入口があり、中に入ってみると豆電球の明かりでかなり暗く、そこにガネーシャ像やリンガ、僧が瞑想したという横穴がしつらえられていました。豆電球などない昔は松明の火でも入れていたのかもしれませんが、そうすると相当な暑さでしょうし酸欠も心配。瞑想も楽ではなかっただろうといにしえの僧に同情してしまいました。

洞窟を出たところから川沿いへとさらに下る道に入ると、そこに造りかけの大きな石像の残骸がきれいな緑の苔に覆われて横たわっていました。ただ、その苔に誰かが「BudhA」と大書してあるのが雰囲気ぶちこわしで、以前ここに来たことがあるユウコさんも「ひどい!」と憤慨していました。

きれいな沢を渡り、ぐるっと回る小道を登ってとても美しい水田の中を抜けると元のゴア・ガジャの境内で、これで本日の観光は終了です。車でホテルに戻り、グン氏とはここでお別れ。彼は翌日は一族で新年の行事があるとかで、明日の空港への送りは別のガイドになるのだそうです。グンさん、どうもありがとう。お世話になりました。

夜、ホテルで私の元同僚のスガヤさんと落ち合いました。スガヤさんはかつて初めての海外旅行でバリ島に来てその魅力にとりつかれ、ついにバリ島に移住して今はフォーシーズンズ・サヤンで日本人スタッフとして働いています。彼女とそのパートナーのエコさん、私とユウコさんの4人で向かった先はベベッ・ブンギルというレストランで、実はスガヤさんは地中海料理のレストランを予約してくれていたのですが、旅の途中でグン氏がさかんに宣伝していたアヒル料理のベベッ・ブンギルのことがユウコさんの頭を離れなくなっており「実は……」と切り出したところ快く予定を変更してくれたのでした。エコさんの運転する車でウブド市内へ移動し、奥行きのある店内のオープンエアの一角に4人で席を占めて、シーフードのサラダに続いて名物のクリスピー・ダックを頼みましたが、スパイスがきいたアヒルのフライはなかなかおいしいものでした。日本語・英語・インドネシア語をちゃんぽんにした会話の中で、スガヤさんがバリ島に移住することになったいきさつやエコさんの仕事(アウトドア系のガイド)の話などを面白く聞きましたが、スガヤさんの言によれば、日本人女性でバリ島にお嫁にきているのは500人は下らないだろうとのこと。確かにそれだけの魅力がある土地であるのは間違いありませんが、経済的な基盤は必ずしも安定しているわけではなく、スガヤさんにしてもバリ島ではウェディングコーディネートの会社からリッツカールトンに移り、そこでの契約が延長されずについ最近フォーシーズンズへ再就職を果たしたという波瀾万丈。きちんと食べていくのはどこでも大変なことです。

ところで、エコさんは日本の焼酎が好きとの情報をあらかじめスガヤさんと私の共通の知人から仕入れていたので、持参してきた黒糖焼酎を進呈すると大喜び。せっかくだからとその場でフタを開け、うまいうまいと飲み始めたのには慌ててしまいました。エコさんには、後でホテルまで車で送っていただくことになっているのですから。