片品川泙川小田倉沢↑津室沢↓

日程:2019/05/25-26

概要:奈良集落跡から泙川に下り、ただちに小田倉沢に入る。初日は標高1150m付近に幕営。2日目も遡行を続け、奥の二俣の手前から右岸の尾根を乗り越し、津室沢を下降して泙川に戻り、泙川林道を歩いて奈良に戻る。

山頂:---

同行:ルーリー / ノダ氏 / ヅカ氏 / ブミ氏

山行寸描

▲小田倉沢F2-20m大ゼン。上の画像をクリックすると、小田倉沢から津室沢への遡行の概要が見られます。(2019/05/25撮影)
▲津室沢45m3段滝。下降には少々苦労したが、これは一見の価値あり。(2019/05/26撮影)

◎本稿での地名の同定は、主に『上信越の谷105ルート』(山と溪谷社 1999年)の記述を参照しています。

昨年も沢登り(というより山菜とり)でご一緒したノダ氏・ルーリーと連絡を取り合い、今年最初の沢登り先を物色した結果、いくつか案が出た中から選ばれたのは片品川水系の泙川小田倉沢と津室沢の組合せ。片品川水系というと尾瀬周辺というイメージがありますが、泙川はその片品川本流から途中で分かれて足尾山脈に向かう川で、その源流は錫ヶ岳から宿堂坊山を経て皇海山へと南北に連なる山並みとなり、これを東に越えると北寄りは奥日光、南寄りは松木渓谷ということになります。ノダ氏の声掛けによりヅカ氏とブミ氏の2人を加えた総勢5人で、猛暑の天気予報を心強く思いながら週末を迎えました。

2019/05/25

△10:00 奈良 → △10:25 小田倉沢出合 → △10:55-11:05 F2-20m大ゼン → △12:35-13:05 F3-12m → △14:40 幕営地(1150m)

起点となるのは奈良なろうの集落跡。広い駐車スペースに車を置き、沢装備に換装して一軒ぽつんと建っている建物の手前から右の森の中に入りました。

森の中の柔らかい土の道を下流方向へ下ると、ほどなくして泙川に降り立ちます。これを渡って対岸に河原状に合流する小田倉沢にただちに入りました。最初はちょろちょろとしか水が流れていませんでしたが、やがて小滝が出てくると水量が復活すると共に、左右の壁が立ち上がってきます。最初の滝らしい滝はF1-8mですが、これは右の斜面から巻き上がりました。F1を越えるとはっきりと谷底を歩くようになり、沢筋が左へ屈曲するところに立派な台形の滝が出てきます。これがF2-20m大ゼンで、水量が多いのか、真ん中の窪みがヒョングっています。水量が少なければ左端を登れそうでしたが、ここは自重して右端にかかったトラロープのラインを登りました。

斜度はさほどなく、フットホールドもそれなりにあるので登るのに不安は感じませんが、磨り減ったフェルトソールの薄さが気になり、念のためトラロープを握って慎重にここを通過しました。

大ゼンの上はしばらく気持ちの良いナメが続き、やがていったん河原状に戻ってから、易しい小滝を連ねるようになります。易しいとは言っても、中にはフリークライミング能力を試されるようなテクニカルなポイントもあって飽きさせません。

見事な柱状節理を左に見て先に進むと、この日唯一ロープを出すことになったF3-12m滝が右前方に現れました。この滝は右壁にロープが残置されているので不用意に取り付きたくなりそうですが、滝の正面に立って見てみると左壁から回り込むのが確実です。ただし壁が濡れて滑りそうなのと、落ち口の様子がわからないために、慎重を期してロープを出しました。ヅカ氏がリードしてここを難なくクリアし、ロープをフィックスして3人がロープにセルフビレイをとった状態で上へ抜け、最後にルーリーを引き上げて終了。

この先は、淵や釜を持つ小滝の連続となりました。ヅカ氏は積極的に水に入る派なので釜にもどんどん飛び込み、一方ノダ氏はとことん濡れたくない派なので膝まで水に浸かれば簡単な場所でもプチ高巻きでひたすら乾いたところを進もうとします。ところが、2条の小滝で例によって釜に入って中央突破を図るヅカ氏を尻目に右から巻き上がったノダ氏は、滝の上でふいに足を滑らせてしまい、そのままウォータースライダーとなって釜へダイブする羽目になりました。

その後も頭と身体を使う小滝がいくつか続き、そろそろお腹いっぱいになってきたぞ……と思う頃に幕営に格好の河原に達しました。まだ15時前ですが、早く酒盛りをしたい我々はためらうことなくここにツェルトを張ることに決めました。寝ぐらの設営を行い、大量の薪を集めて焚火を起こしたら、直ちに宴会開始です。ルーリーだけは竿を持って上流に向かいましたが、結局ボウズ。その代わりミズを採ってきてくれて、これはおいしいツナマヨ和えになりました。

焚火が点火されたのが15時半、そこから就寝する21時半までひたすら薪をくべ続けながら、食べたり飲んだり語らいあったりロープワークの練習をしたり、紅一点が酔っ払ってクダを巻いたり(笑)。ところで今回のメンバーとのつながりを私の視点から見ると、ルーリーとヅカ氏は今は亡きひろた氏の通夜で出会った仲ですし、ノダ氏はルーリーの引き合わせ、ブミ氏はヅカ氏の引き合わせ。つまり、このメンバーとの縁はすべて故ひろた氏が作ってくれたことになるわけです。改めて、ひろた氏に合掌。

2019/05/26

△06:10 幕営地(1150m) → △07:20 F7-10m → △08:15-25 1504mピーク西鞍部 → △10:25-11:45 3段45m滝 → △12:45 津室沢出合 → △13:00 泙川林道に戻る → △14:40 ゲート → △15:10 奈良

夜中は冷え込みましたが、5時前には再び火が熾されました。朝食、勤行(キジ紙はもちろん燃やす)、パッキングといった泊まり沢での朝のルーチンを久々にこなして、2日目のスタート。

F6-10mは左の水線が階段状に見えましたが、水量があるためにモロかぶりになりそう。見上げれば左(右岸)の斜面にピンクのテープも見えており、そちらを高巻くことにしました。ここでは50mロープを背負っていた私がロープを引いて先頭に立ちましたが、緩い土の急斜面のトラバースは少々危険。それでも無事にこのトラバースを終えて、そこに立つしっかりした灌木にロープをフィックスしました。

小田倉沢最後の滝はF7-10mで、見る限り直登はかなり奮闘的。おとなしく右から巻き上がると沢は平坦な地形の中を緩やかに流れるようになり、幕営適地がそこかしこに見られるようになりました。

小田倉沢から津室沢に移るためには左の尾根を乗り越す必要があり、そのポイントになるのは尾根上の1504mピークです。小田倉沢を遡行して奥の二俣(標高1420mあたり)に達したら戻り気味に右岸の斜面を登ればよいと私は考えていましたが、先頭を行くヅカ氏は奥の二俣のかなり手前から左斜面に取り付き始めました。すると1段高いところに、一升瓶が散乱している平坦地あり。どうやら、かつてこの辺りに小屋掛けされていた様子ですが、それよりも歩いている途中で出会ったまだほやほやのクマの糞の方が気になります。笛を吹いたり大声を出したりしながら、とにかく上を目指して歩き続けました。

1504mピークの西の鞍部で、リュックサックを下ろしてほっと一息。この場所には東から尾根を降りてくる踏み跡、西へ尾根の南側を辿る踏み跡、同じく西へ尾根の北側を辿る踏み跡が合流しています。下山してから調べたところ、東の踏み跡を登ってゆけば長丁場にはなるものの皇海山まで辿れ、一方尾根の北側を西へトラバースしていく道はやがて北へ尾根を下る道となってかつての津室集落跡に達することができたようです。

しかし、我々は真っすぐに谷底に向かって下りました。最初は柔らかい土の斜面を下り、やがて水が出てきてからは沢の中の下降となりましたが、沢の途中では一升瓶や茶碗らしき陶器のかけら、さらにはレンガの塊まで出てきて、この地に相当の人が入っていたらしいことが窺えました。

津室沢を下っていくと最初に現れる大きな滝は10m滝で、左岸にトラバースしていく道がつけられていましたが、手っ取り早く懸垂下降でここを下りました。そして、その先の顕著なナメを進むと、そこに出現したのがこの沢最大の見どころである45m3段滝の落ち口でした。落ち口右手にリングボルト3本とスリングが残置されていましたが、リングボルトの1本は浮いている状態で、古いトポに書かれているフィックスロープはありません。

今回、事前の意思疎通に若干の齟齬がありロープは50mと30mの組合せ。このため、まず50mロープをフィックスしてノダ氏が先行し、滝の下まで降りられることを確認してその旨を無線機で伝えてくれてから残る3人が順次下降し、最後に私が50mロープと30mロープをつないだ80mを支点から折り返し、2ピッチに分けて下降することになりました。ところが、しんがりの私が下降を始めて数m下ったところから下を覗き込んでみると、理由は判然としないながら滝の下まで降りきっているのはノダ氏とブミ氏の2人だけ。ヅカ氏は私がピッチを切ることになるポイント(下降支点から20m強下の右岸)で待ってくれていてこれは想定通りなのですが、なぜかルーリーが滝の中段の右岸側斜面で孤立している状態でした。

ともあれ、支点から10m下ったところに生じるロープの結び目でいったん停止し、PASで伸ばしたATCからビレイループに付けたエイト環にロープを移して、右岸に付けられているトラロープに手を掛けて姿勢を制御しながらヅカ氏のところへ下りました。ここでロープを灌木に掛け替えてから、下を見てルーリーに「滝の中段テラスまで出られるか?」と聞いたところ、ルーリーからはイエスの返事があったように見えました。それなら今ルーリーが立っている右岸の斜面へ斜め懸垂しなくても、私が下降するライン上のロープをつかまえることができるはずだと考えて真っすぐ下ったのですが、どうやらこれは私の勘違い。実際にはルーリーは滝の方へ出ることができず、このために真っすぐ懸垂下降した私はルーリーのレスキューを放棄したかたちになってしまったようです(申し訳なし)。これを上から見ていたヅカ氏は「あっ、見捨てた!」と大笑いしたそうですが、ともあれ私が降りきった後に彼がルーリーを救助してくれて事なきを得ました。

結局、この滝を下るには50mロープ2本で一気に下るか、30mロープ2本なら右岸の斜面の中を灌木やトラロープをつかみながら斜めに下り2ピッチとするかのどちらかになりそうですが、後者の場合は振られないように注意が必要。右岸から巻き下っている記録も少なからずあります。

45m3段滝を下った先には綺麗なナメ床が続いており、これをひたひたと歩いていくと、最後の25m滝に達しました。この滝は(トポには3段と書かれていますが)2段になっており、上段は右岸にある鉄杭を用いて短く懸垂下降、下段は右壁に打たれたハーケン(バックアップはあるものの実質的に軟鉄ハーケン1枚に全荷重がかかる状態)に掛けられたスリングを用いて50mロープ1本で懸垂下降しました。さらに右岸の土の急斜面をずるずると下れば、前方に間近く泙川本流が見えてきました。

泙川を渡り、ほんの少し下流からピンクテープに導かれて泙川林道に乗り上がって、これで沢旅は実質的に終了です。その後の林道歩きは藤の花の紫やツツジの朱色、供え物が欠かされていない神社、不釣り合いなくらいに立派な堰堤、左手はるか下を流れる泙川、ところどころに生えている山菜を愛でながらののんびりした歩きとなりました。

途中、ゲートのところに車が数台駐まっていたのは釣り師なのか、それとも三重泉沢を狙う沢屋だったのか。そうこうするうちに、誰が耕しているのかネギ畑が広がる奈良の集落に到着しました。

打上げは、東明館での入浴の後に「三割うまい」のキャッチフレーズが謎の「ぎょうざの満洲」で。運転する人には申し訳なく思いつつ生ビールと餃子という親父メニューに舌鼓を打ちましたが、津室沢の大滝で危うく残置されそうになったルーリーに私がビールをおごったことは言うまでもありません。

根利山古道

今回参照した『上信越の谷105ルート』(1999年)の小田倉沢の記事には、「奥の二俣」で遡行を打ち切り、その手前で沢を渡る踏み跡を辿って南の延間峠を越え、栗原林道を使って利根村役場まで6時間歩けと書かれていました。これを読んだときにはさして気にも留めなかったのですが、後で調べてみたところ、この「踏み跡」なるものは1899年から1939年まで開設されていた根利林業所に関係する道だということがわかりました。

高桑信一氏の『古道巡礼』に書かれていることをかいつまんで記すと、この根利林業所とは足尾銅山で燃料や建築のために用いる用材を伐採するために設けられた林業拠点で、主たる事務所を栗原川上流に設けた営林集落・砥沢に、出張所を栗原川下流の源公平や泙川上流の平滝に置き、足尾銅山を経営する古河鉱業の従業員にその家族を加えれば(一説によると)二千人もの人々が住んでいたとのこと。周辺の山々から伐り出した材木は空中索道で運ばれて砥沢に集められた後、さらに東へ六林班峠を越える長大な空中索道で銀山平まで送り出されていました。そして、これらの拠点をつなぐ道が上述の「踏み跡」で、今では「根利山古道」と呼ばれて古道ファンの探索目標の一つになっている模様です。

我々の行程でもその一端に触れていて、たとえば起点・終点となった奈良は、上流の平滝から沼田まで出る道のりが長いために途中で宿泊するための宿があったところ。小田倉沢の遡行を終えて右岸の斜面を登り始めたところにあった平坦地に散乱していた一升瓶も、この辺りにあった中小屋という施設を拠点に行われていた植林用の苗木栽培に従事する人たちの痕跡であったかもしれません。また、1504mピークの西鞍部から我々はダイレクトに沢筋へ下りましたが、ここから左(北西)へ続く踏み跡を辿っていれば、その道はかつて津室沢上流の左岸にあった営林集落・津室の跡地に続いており、空中策道の動力を供給する原動所のボイラーを収納したレンガ造りの遺構を見ることができたようです。予習不足のためにこの産業遺跡を見逃したことは、少々悔いを残しました。

今後、今回の我々と同じように小田倉沢から津室沢へつなごうとする方には、あらかじめ『古道巡礼』を読み、あるいは「根利山古道」で検索して容易に見つけられる古道ファンの記録をチェックした上で、いにしえの根利山古道を偲びながらの沢旅とされることをお勧めします。

泙川

ところで、そもそも「泙川」は何と読むのかと最初は悩んでしまいました。最新の地形図では「泙」の字に「ひら」とルビが振られているのですが、昭和6年(1931年)発行の地形図では「タニ」となっており、上記『古道巡礼』でも「たに」と読み仮名をふっているので、本来は「たにかわ」であろうと思われます。

この「泙」は、水のぶつかりあう音、水の勢いのさかんなさまを示す字で、音は「ホウ」。地名辞典には「泙野」と書いて「なぎの」と読ませる地名(愛知県豊川市)も掲載されていましたが、この漢字のつくりを「平」だと認識するなら、とても「たに」や「なぎ」という読みは思い付きません。