塾長の山行記録

塾長の山行記録

私=juqchoの登山の記録集。基本は癒し系バリエーション、四季を通じて。

穂高の池巡り②〔ひょうたん池・奥又白池〕

日程:2018/08/11-13

概要:初日は明神からひょうたん池に上がり、下又白谷源頭部をトラバースして奥又白池まで。2日目は五・六のコルを越えて涸沢に入り、さらに北穂高岳東稜をまたぎ越して北穂池を目指したが到達できず、やむなく北穂高小屋へ。3日目に下山。

山頂:北穂高岳北峰 3100m

同行:---

山行寸描

▲下又白谷の源頭部(奥又白側からの眺め)。上の画像をクリックすると、トラバースのラインが見られます。(2018/08/11撮影)
▲ひっそりとした奥又白池。上の画像をクリックすると、ひょうたん池からここまでのGPS記録が見られます。(2018/08/11撮影)
▲五・六のコル手前の崩壊部。向こう側に、こちらへ降りてこようとしてためらっているパーティーの姿がある。(2018/08/12撮影)

北アルプスの穂高連峰から槍ヶ岳にかけての山稜の東斜面には、標高2300〜2500mの位置に四つの池が存在します。それらは南から順番に、ひょうたん池(2300m)、奥又白池(2470m)、北穂池(2480m)、そして天狗池(2500m)で、後二者は氷河湖ですが、前二者は梓川の作用による山体の崩壊に伴い生じたものとする説[1]と槍・穂高カルデラ火山のカルデラ壁東縁の痕跡であるとする説[2]とがあります。これらを結んで歩くバリエーション登山の記録はネット上にいくつか散見され、私もずいぶん前からいつかは辿ってみようと思っていたのですが、たまたまこの夏にパートナーが得られない週末ができたので、試みに歩いてみることにしました。問題はひょうたん池から北上するか天狗池から南下するかですが、途中で越えることになる前穂高岳北尾根の五・六のコルや北穂高岳東稜、さらには南岳横尾尾根の通過を考えて北上パターンを採用することにしました。

2018/08/11

△06:45 上高地 → △07:30-40 明神 → △10:20-40 ひょうたん池 → △11:00 2400m地点 → △13:30 2430m地点 → △15:30 緩傾斜帯 → △17:00 下又白谷の沢筋 → △18:30 奥又白池

夜行バスで上高地に着き、まずはバスターミナルの上高地食堂で優雅に朝食をとりました。上高地にはこれまで何度も来ていますが、ここ数年は縁遠くなっており、前回ここに来たのは5年前のことです。

河童橋から見る岳沢方面は白いガスの中でしたが、明神に向かう途中から対岸を見上げると、最初の目標であるひょうたん池が存在する明神岳東稜の鞍部はかろうじて見えていました。

明神橋を渡って左に行けばすぐに「山のひだや」ですが、行く手は反対の上流側で、すぐに道が分かれて「信州大学山岳科学総合研究所 上高地ステーション」という仰々しい名前の施設となり、その左奥に「ひょうたん池」と書かれた標識が立っていました。

ひょうたん池へ上がる道は残雪期にしか歩いたことがありませんでしたが、明瞭な踏み跡が出だしから上まで続いていて迷うことはありませんでした。一点だけ気を使うとすれば山道がガレに消えた後に長七ノ頭方面へトラバースする場所の選択ですが、登ってきたガレの左(右岸)に上から岩壁が迫ってきたあたりで等高線に平行に方向を変えれば赤ペンキや赤テープが目に入ってきます。

明神から2時間40分の登りで、こじんまりとしたひょうたん池に到着しました。前に来たときは雪に覆われたただの窪地でしたが、こうして無雪期に来てみると確かにひょうたんの形をしています。その姿はかわいいのですが、水面にはアメンボがすいすい泳いでおり、水質もあまり良さそうではなく、飲み水として活用するためには煮沸が必須のようです。

ひょうたん池からほんの少し上がったところにテントサイトとなる広場があり、ここで1本立てました。ここから北には下又白谷源頭部の崩壊地が広がっており、ガスの中に時折、対岸の茶臼ノ頭が姿を現しました。目指す奥又白池へはあの茶臼ノ頭の左の茶臼のコルを目指すのですが、そのためには明神岳方面に100mほど上がってトラバースバンドを見つけ出さなければなりません。

休憩を終えて、明神岳東稜の登りにかかりました。尾根上には草木が繁茂していますが、薄いながらも踏み跡が続いていて迷うことはありません。しかし、葉の上にたっぷり残された雨や霧がズボンとシューズを濡らしてきて、大変不快な状態です。

恥を忍んで白状しますが、このひょうたん池から奥又白池への横断にはとんでもなく難儀することになってしまいました。地形図で見てもバンドの存在はさほど明瞭ではなく、しかもそのところどころにガレ沢が緩傾斜帯を寸断するように突き上げてきていて、思うようにトラバースすることができません。そしてもう一つ事態をややこしいものにしたのは、このレポートの最後で紹介する『岳人』に掲載された服部文祥氏の記事をもとに自分が水平移動に固執したことです。その『岳人』の記述ではライン取りは微妙だが、技術的には問題なく下又白谷の緩傾斜帯にトラバースすることができたとあり、したがってとにかく歩けるところを北へ北へと進むのだと思い込んでいたのですが、明神岳東稜を100mほど上がったところから右手に見えたピンクのテープは横方向には続いておらず、頭の中に「?」マークが渦巻くことになってしまいました。

もし北側から下又白谷源頭部の地形を眺めた経験があれば、どこまでもこの標高で横断しようとするのではなく、ひょうたん池側から1ないし2本目の尾根を下って開けた場所に出ても横断は容易であることが理解できたと思うのですが、上述の通り標高2400mあたりを横断することばかりが頭にあったために、ガレ沢にぶつかっては上に逃げ、これではおかしいと戻ることの繰り返し。いったん明神岳東稜に戻ってさらに50m上がったところからトラバースしても行き詰まってしまい、途方に暮れました。

そうこうするうちに時間はどんどんたっていき、いつの間にか2時間半を空費しています。さすがにこれは方針を変える必要があるのだろうと思い至り、改めて標高2430mあたりからトラバースしていって、途中の沢筋の上部から下又白谷の底を見下ろしてみると、どうやら樹林の尾根の末端から懸垂下降で緩傾斜帯に下れそうであることが見てとれました。実はこの確信が得られていなかったために、不用意に尾根を下って急崖に行く手を阻まれることを恐れ、いつまでもトラバースにこだわっていたというわけです。

方針さえ決まれば心は軽くなり、尾根の中をどんどん下ります。途中から傾斜が強くなってきたので安全重視でロープを出し、30mの懸垂下降を4回繰り返したところで樹林帯からガレの斜面に降り立つことができました。

ロープを畳んで見上げると、確かに上の方に水平バンドらしき地形が見えていますが、サバイバル登山家ならぬ自分には、あそこをトラバースするのは厳しそう。ともあれ、時間はかかりましたがここに降り立つことができれば奥又白池までは遮るものがなく、ひたすら歩き続ければ到達することができそうです。

前方の茶臼のコルを目ざして緩傾斜帯を歩いていくと、再びピンクのテープが現れました。ということは、明神岳東稜の2400m地点に付けられていたピンクテープはやはり横断ルートを示していたのでしょうか。ただ、私が下った尾根にはこのテープは見当たりませんでしたから、おそらくそれより1本南(ひょうたん池寄り)の尾根を下っていたのでしょう。そのラインと私が下ったラインとの優劣は、もちろん不明です。

下又白谷の最後の滝場の上には残雪が残っており、これを下から回り込んだら茶臼のコルへの長い登り返しとなります。

ガレと草付とで歩きにくい登りをなんとかこなして、ようやく奥又白池に到着しました。やれやれ疲れた。計画ではさらに五・六のコルを越えて涸沢に泊まる予定でしたが、予定外の時間を要したためにここでこの日の行動を終了しました。

奥又白池の畔のテントは、ほかに4人組のひと張りだけ。彼らは池の東側にテントを張っていたので、メインサイトを独占することになりました。

2018/08/12

△04:55 奥又白池 → △07:10 五・六のコル → △08:15-09:00 涸沢 → △10:50 北穂高岳東稜最低コル → △15:20 北穂高小屋

夜中に雨がフライシートを叩いて気温が下り、シュラフカバーだけでは寒い思いをしましたが、それでも十分な睡眠をとって4時に起床しました。こちらがテントを畳んでいるときに4人組が近くを通過して奥又尾根を上がっていきましたが、腰にカムなどもぶら下げた正調アルパインスタイルでした。

昨日に引き続きガスの中のお花畑の斜面を水平に移動し、ガレ沢を渡った先で五・六のコルに通じるルンゼと尾根が見えてきます。

いよいよ五・六のコルが見えてきました。ここはその手間にある崩壊した斜面の横断が核心部で、2010年にここを通ろうとしたときはその崩壊ぶりに恐れをなして左の尾根からの高巻きという大胆な選択をしたのですが、覚悟を決めて近づいてみると遠目に見るほど悪くはありません。どうやらそこそこ通られているらしく足を置く場所はそれなりに安定している上に、最も際どい場所には残置スリングもあって心強く、多少バランシーながらさっさと通過することができました。ただ、ここも反対方向から降りてきて通過するのは心臓に悪そうで、もし四峰正面壁などを登った後に奥又白池に帰ろうとするなら、ここはロープで確保したいところです。

残りわずかの登りをこなして五・六のコルに立てば、待望の涸沢カールの眺めが目に飛び込んできました。

五・六のコルから涸沢ヒュッテまでは意外に時間を要しましたが、何はともあれここで大休止。最初から食料計画に組み込んである涸沢ヒュッテのカレーライスとおでんをおいしくいただきました。もっとも、本来の計画ではこれは昨日の夕食だったはずなのですが……。

五・六のコルから涸沢ヒュッテまでの420mの下りの後に、今度は北穂沢のインゼルの上に向かって400mの登り返しになります。背中のリュックサックの底には濡れて重くなったフライシートが鎮座し、足が思うように上がりません。

登山道が南稜に向かうところで反対側の東稜を目指し、おなじみのY字ルンゼは右俣を進んで、最上部でちょっとした岩場をこなして稜上に飛び出します。眺めは相変わらず真っ白ですが、北穂池には2010年にも下ったことがあるので、ここで道迷いをすることになるとは毛頭考えていませんでした。

それでも途中までは見覚えのある下降路にケルンも見つかり、さらに時折思い出したようにガスがとれて北穂池の姿が目に入ったので、少なくともあそこまでは楽勝だと思っていたのですが、どこかで左手に降りるべきポイントを見逃したらしく、気が付いたら急な尾根で進退窮まりかけており、あわてて登り返したときには再びガスが周囲を目隠ししてしまっていました。

昨日に続いて今日も道迷い?ルートファインディングはそう悪い方ではないと自分では思っていましたが、さすがにこれには凹みました。東稜上のゴジラの背が見えるところまで登り返してリュックサックを置き、行動食をとりながらしばらく地形図とにらめっこをした後、空身であちこちの沢筋を偵察してみましたが、やはりどう考えても最初に下ったガレ沢が正解です。そこまで確認したところで、今回はここで打ち切ろうと心を決めました。初見で問題なく下れた道が見つけられないというのも情けない話ですが、そこにこだわりを持つのは遭難への第一歩。自分の予習不足を責めなければなりませんし、視界の悪さも何かが自分を引き止めてくれているのだろうと考えることにしました。そうとなれば、今夜の宿を決めなければなりません。涸沢まで戻ることも考えられますが、ここまで標高を上げている以上、ゴジラの背の横を抜けて東稜から北穂高小屋を目指すのが最も安全です。

時折ガスが切れて見えてくる北穂池が「こっちへおいで」と誘っているような気もしますが、ここは断腸の思いで上を目指します。士気は上がらず荷物は重く、急ぐ理由もないために残りの登りにずいぶん時間をかけて、北穂高小屋に到着しました。リュックサックの中にはテントがありますが、この日は布団で眠ることを選択して小屋での宿泊の受付をしました。

2018/08/13

△05:30 北穂高小屋 → △07:50-08:00 涸沢 → △10:00-20 横尾 → △13:05 上高地

昨夜は1人1枚の布団というわけにはいきませんでしたが、19時すぎに激しい雷雨があたりを襲ったことを考えると、小屋泊まりを選択したのは正解だったようです。というより、順調に北穂池に下って山行を継続していたら、隠れようのないところであの雷につかまっていたかもしれません。

朝の北穂高岳山頂は雨雲の中に入っているように見えましたが、天頂部を透かし見ると青い色が見えており、どうやら上空は晴れている様子です。

南稜を下る途中では、こんな光景を見ることもできました。

しかし横尾に下り着いてみると、天気予報は雨基調。確かに、帰路に見上げた下又白谷の上部は厚いガスに覆われており、時々思い出したようにぱらつく雨のために雨具を脱ぐこともできませんでした。

ひょうたん池から奥又白池へ

今回の山行に際してプランニングの参考にしたのは、『岳人 2015年10月号』の「前穂高岳初登頂ルート」という記事です。1893年8月1日に陸地測量部の館潔彦が、ついで同月25日ウォルター・ウェストンが、いずれも上条嘉門次の案内を得て前穂高岳に登頂したルートは、ひょうたん池からまだ崩壊が進んでいない下又白谷源頭部を横断した後、下又白谷の最上流部を辿って明神岳と前穂高岳の鞍部に抜けるものであろうというのが服部文祥氏の見立てで、そのラインを同氏は嘉門次ルックで歩いています。

上の地形図に赤点線で示されたラインがその「初登頂ルート」で、服部氏がロープを使わずに横断していることから上述の通りのトラバースへのこだわりを生んでしまったのですが、これはあくまで自分自身の技量不足と判断ミス。今回、曲がりなりにもひょうたん池から奥又白池まで歩けたことで時間短縮の目処はついたので、いずれ必ず再挑戦するつもりです。もちろん、北穂池への下降についても十分な予習をした上で。

装備

装備面でもいくつか反省点があったので、自分のための備忘として以下にいくつか記しておきます(順不同)。

  • 懸垂下降時には8mm30mのロープと5mm30mのスリングを連結して使ったのですが、ピンポイントの懸垂下降ならこれでもよいものの、懸垂下降を複数回連続するとなるとスリングの方がこんがらがりやすく、その処理に時間を空費しました。次回は5mmではなく6mmを用意しようと思います。
  • 下又白谷の源頭部に雪渓があるかと思って軽量ピッケルとアルミアイゼンも用意したのですが、これらは無用の長物であったばかりか、リュックサックにくくりつけたピッケルが藪漕ぎ時に邪魔になって往生しました。時期にもよりますが、少なくともピッケルはかさばらないアイスハンマーで代用できたはず。
  • 行動中はともかく、テントサイトに着いたらただちに防虫ネットを使用するべきでした。テントの設営時にもヤブ蚊の大軍の襲撃を受け、帰宅してから顔を見たら大変なことになっていました。

脚注

  1. ^目代邦康「穂高東面に3つの池がある不思議」『岳人』2015年10月号No.820(ネイチュアエンタープライズ 2015年9月)p.22-23より抜粋引用。
    奥又白池は、谷側の縁が直線状です。こうした地形は岩盤のズレによって作られたと思います。ひょうたん池も同様。岩盤のズレは砂場の砂山崩しの要領で、山体の下部が河川の流れによって削られ、山体が自立できなくなると起こります。そうしてできた稜線付近の凹みに水が溜まり、池になったと考えられます。梓川を挟んで徳沢から蝶ヶ岳へ向かう長塀尾根にも、似たような池がいくつかあります。二重山稜になっていたり、細長い池が稜線に平行にできるのが特徴です
  2. ^原山智「上高地盆地の地形形成史と第四紀槍・穂高カルデラ–滝谷花崗閃緑岩コンプレックス」『地質学雑誌』第121巻第10号(日本地質学会 2015年10月)より抜粋引用。
    迫力の明神岳東壁から右へ視線を移し,長七の頭から明神岳東陵ママに連なるスカイラインを追うと,中途で大きなギャップを示している. この鞍部にはひょうたん型の池があることから,ひょうたん池のコルと呼ばれている. このコルの部分が,槍・穂高カルデラ火山のカルデラ壁東縁が有った場所である. カルデラ内の埋積火山岩とカルデラ壁基盤岩の境界に当たり,複数回の陥没運動による破砕作用を被っているため,この壁側の基盤花崗岩に沿って周囲よりも侵食が進行したのであろう. 地質の差異が地形に反映された組織地形の典型例といえる. ひょうたん池のコルだけではなく,こうした地形的ギャップは,茶臼の頭–奥又白池,慶応尾根上部,そしてパノラマコースの屏風のコルと,ほぼ南北に連なっており,かつてのカルデラ壁の所在を浮き彫りにしている

◎再び四池の継続にトライしてこれを実現した「穂高の池巡り③〔ひょうたん池・奥又白池・北穂池・天狗池〕」(2023/08/30-09/02)の記録は〔こちら〕。