仁和寺と御室派のみほとけ

2018/02/17

これまで仁和寺には訪れたことがなく、有名な御室桜も一度は見てみたいと思っていながら今まで果たしていません。さすがに桜は京都に行かなければ見ることができませんが、ありがたいことに同寺に伝わる寺宝の数々が東京国立博物館にやってくることになり、冬の一日、上野へ足を運びました。

第一章 御室仁和寺の歴史
仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建て始められ、その遺志を継いだ宇多天皇によって仁和4年(888年)に落成しました。宇多天皇が出家後に伽藍の西南に建てて住まった僧坊が「御室」です。仁和寺の初代別当は天台宗であったものの、宇多天皇が真言宗の益信を戒師として出家したのを機に真言宗の寺院となり、その後長く明治時代に至るまで門跡寺院として格の高さを維持し続けていました。こうした歴史を持つため、仁和寺には皇室ゆかり、そして真言宗にまつわる貴重な文化財が多く伝えられてきています。
そうした仁和寺の歴史を示す最初のコーナーは《宇多法皇像》から始まり、御室初期の歴史を示す《御室相承記》〈国宝〉を経て最初に長蛇の列を作っていたのが円勢・長円作《薬師如来坐像》〈国宝〉でした。歴代門跡の位牌を祀る霊明殿の本尊で、坐高は11.8cm(台座を含めても22cm)と極めて小さい白檀の像ですが、円形の頭光には七仏薬師、後屏には日光・月光菩薩、台座には十二神将がおそろしく細密に彫り出された上に截金文様を施した優品です。
また《高倉天皇宸翰消息》〈国宝〉は治承2年(1178年)、中宮徳子の出産に際して孔雀経御修法を行った仁和寺第六世・守覚法親王に対し、無事出産の後に高倉天皇が送った感謝状。同時に展示されていた他の諸天皇の宸翰がそれぞれに力強く、あるいは流麗であるのに比べると、高倉天皇のそれは達筆というのとは違うと思いますが、それでも落ち着いた書体に風格が滲みでています。なお、このとき産まれたのがもちろん後の安徳天皇です。
仁和寺ならではの寺宝として、《三十帖冊子》とこれを納める《宝相華迦陵頻伽蒔冊子箱》〈いずれも国宝〉も重要です。《三十帖冊子》は空海が在唐時に長安・青龍寺の恵果阿闍梨から伝授相承した密教儀軌や経典を写経生に書写させ持ち帰った写経の小冊子で、一部に空海自筆を含みます。また冊子箱は延喜19年(919年)に醍醐天皇が《三十帖冊子》の散逸を憂いて「筥一合」を東寺に下賜し、その後文治2年(1186年)に仁和寺に移ったことが記録に残されており、黒漆の上に金銀で宝相華と迦陵頻伽が賑やかに研ぎ出されて見事です。
第二章 修法の世界
仁和寺の孔雀経法は「無双の大秘法」として災厄を払う効果が期待されたそう。その本尊となる孔雀明王像の中でも北宋から伝来した図像が仁和寺に伝わっているのですが、本展覧会では2月14日をもって展示替となりこの日は展示されていませんでした(ちなみに右は高野山で見た《孔雀明王坐像》(快慶作))。他にも十二天像や三鈷鈴、五鈷鈴などの各種宝具がありましたが、面白かったのは仏像を描くための手本集があったことです。線描のみで各種尊像の姿を示すだけでなく、修法に際しての宝具の配置なども解説されたマニュアルとなっていて、実に親切。
また、密教と言えば曼荼羅ですが、各種曼荼羅の中でも《子島曼荼羅》〈国宝〉は縦3.5メートル×横3メートルの大きな紺綾地に金銀泥で描いたもので、この日はより細密な金剛界曼荼羅が展示されていましたが、その迫力には圧倒されました。
第三章 御室の宝蔵
このコーナーでは宇多法皇崩御に際し仁和寺にもたらされた御物を中心に成立した宝蔵の所蔵品の数々が展示されています。《医心方》〈国宝〉やその底本となった中国の医学書「黄帝内経」、あるいは《延喜式》(律令を補完する「格」の施行細目が「式」)といった貴重な古写本が惜しみなく展示されていて目を奪われたほか、南が上で北が下に各国を配した鎌倉時代の日本地図も面白く眺めましたが、インパクトという点では《彦火々出見尊絵》がその極彩色といい題材といい驚かされました。彦火々出見尊とは言うまでもなく山幸彦のこと。後白河院周辺で制作されたものの江戸時代における複製で福井県小浜市の明通寺に伝わる絵ですが、思えば山幸彦は神武天皇の祖父であり皇祖であるので、天皇家に近い仁和寺とその関連寺院にこうした絵があるのも不思議はないのかもしれません。むしろ、高山寺で見た《鳥獣戯画》がここにもあるのが不思議でしたが、解説によれば高山寺と仁和寺は中世・近世を通じて近しい関係にあり、仁和寺僧が高山寺塔頭を兼ねることもあったそう。
第四章 仁和寺の江戸再興と観音堂
仁和寺の伽藍は応仁の乱によって焼亡し、その後しばらく双ヶ丘の真光院で法脈をつないだ後、江戸時代に徳川家光の援助を得て現在の伽藍に復興しました。このコーナーは今回の展示の白眉と言える、江戸時代に再建された観音堂の内陣の再現が見どころです。
なんともゴージャスなこの眺め。さらにこの裏側にも通路が設けられ、観音堂内壁の壁画が再現されているというこだわりようです。この混み具合の中であっても、ここだけで30分くらいは見飽きることなく足を止めていられました。
中心に《千手観音菩薩立像》、その左右に《不動明王立像》《降三世明王立像》、両端に《風神・雷神立像》、そしてそれらの間を埋め尽くすそれぞれ個性豊かな《二十八部衆立像》。写真撮影を許可するという粋な計らいのお陰で皆がばしばし写真を撮っていましたが、係員さんは「フラッシュたかないで下さい!」と注意して回るのに大忙しでした。
第五章 御室派のみほとけ
仁和寺に連なる「御室派寺院」は、現在790寺もあるそう。最後のこのコーナーでは、それらの寺院からやってきた秘仏を含む貴重な仏像の数々が展示されています。
観音堂再現コーナーに引き続く一室に展示されていたのは、大阪・金剛寺の《五智如来坐像》〈重文〉。金剛界曼荼羅において中心をなす大日如来とその四方を司る阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就の四如来が組み合わされたもので平安時代の作ですが、やはり大日如来の顔立ちの崇高さが際立っていました。
続いて、現在は仁和寺霊宝館に安置される《阿弥陀如来坐像および両脇侍立像》〈国宝〉。茫洋とした顔立ちで、それと知らなければスルーしてしまいそうな静かな佇まい。もとは梵天・帝釈天と四天王を伴っていたようですが、仁和寺建立の仁和4年の作である点がとりわけ貴重です。
さらに仁和寺やゆかりの寺の仏像が続きます。そのほとんどが国宝ないし重文に指定されているのですが、珍しくそうした指定を受けていない仏像の一つである神奈川・龍華寺の《菩薩坐像》には見惚れました。脱活乾漆造の黒い肌に金の装飾が施され、ガンダーラ仏を連想させる写実的な美しさがあります。その由来は定かではなく、1998年に龍華寺の土蔵改築に際して発見され、復元修理されたものだそうですが、もとは奈良時代に東大寺周辺の官営工房で作成されたものと考えられているそうです。
福井・明通寺の巨大な《降三世明王立像》《深沙大将立像》〈共に重文〉が見下ろす下をくぐり抜けるように通って、大阪・道明寺の《十一面観音菩薩立像》〈国宝〉のしなやかなお姿を拝見するところからは、本尊秘仏のオンパレード。福井・中山寺《馬頭観音菩薩坐像》〈重文〉、兵庫・神呪寺《如意輪観音菩薩坐像》〈同〉、徳島・雲辺寺《千手観音菩薩坐像》〈同〉。しかし、何と言ってもすごいのは、こちらの大阪・葛井寺《千手観音菩薩坐像》〈国宝〉です。
神亀2年(725年)に聖武天皇の発願により仏師・稽文会と稽主勲により制作され行基が開眼したと寺伝に伝えられる現存最古の千手観音像で、本体は脱活乾漆造、脇手は桐材を心とする木心乾漆造ですが、いや、本当にこれはすごい。頭上に十一面、胸前で合掌するなどの大きな手40本と像の回りに半円形に広がる脇手1,001本を合わせて1,041本の手を持つ変化観音で、その形態はインド初期密教に由来するそうです。最初は像の周囲をぐるぐる回って、あの手の付け根はどうなっているのだろうとか十一面のそれぞれの表情はどうなのか(この像の大笑面はにこやかに笑っています)などと見ていたのですが、やがてそうした興味本位は捨象されてゆき、最後は正面からこの仏像の穏やかなお姿にじっと見入るしかなくなっていました。