ゴッホ展 巡りゆく日本の夢

2017/12/23

北斎とジャポニスム」に続いて、「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」を開催中の東京都美術館へ向かいました。

この展覧会の目的については、図録に記されているファン・ゴッホ美術館館長アクセル・ルーガー氏の次のメッセージを引用するのが最も簡明です。

「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」は、ファン・ゴッホが日本の美術、特に人気の高かった浮世絵に魅せられていた事実を検証することを目的とした展覧会です。〔中略〕ファン・ゴッホは、どの絵画やデッサンに、浮世絵の知識を存分に咀嚼、吸収して生かしました。そして、本展にご来場いただく皆様は、本物の浮世絵と、それに影響を受けたファン・ゴッホ作品との関係を、会場で辿ることができます。しかし、ファン・ゴッホは、日本美術の技法をそのまま取り入れたわけではありません。彼は、浮世絵に存在するものをあるがままに抽出し、変容させたのです。我々は、そうした軌跡を数々の傑作を通じて体感することができるのです。

終わり近くの浮世絵に存在するものをあるがままに抽出し、変容させたのですという訳がやや不可解な気がしますが、原文(なぜか英語)は次の通りで、こちらの方が文意が通りやすいかもしれません。

Van Gogh did not adopt the Japanese pictorial idiom literally. He transformed it - took off with it, as it were.

1. パリ 浮世絵との出逢い

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)がアントウェルペンからパリに出てきたのは1886年2月。ここで印象派の技法と明るい色彩を身に付けたファン・ゴッホがもう一つ強い影響を受けたのが、浮世絵でした。

その数年前に日本を旅行していた画商ジークフリート・ビングの店の屋根裏部屋で1万枚はあろうかという(ファン・ゴッホから弟テオへの手紙)浮世絵を見てその色使い、構図、モティーフに惹きつけられたファン・ゴッホは、色調を変えたり複数の絵画のモティーフを組み合わせたりして実験的な模写を行なっていますが、このコーナーでそうしたファン・ゴッホの取組みを代表的に紹介する作品が、右の《花魁(溪斎英泉による)》(1887年)です。

この絵は溪斎英泉の《雲龍打掛の花魁》が『パリ・イリュストレ』誌の1886年5月号(日本特集号)の表紙に左右反転して印刷されたものを中心に置き、背後の鶴は《芸者と富士》、蛙は《新板虫尽》というそれぞれ独立した絵から借用したもの。原色の対比が強烈な印象を与える色使いも浮世絵の感覚にはないもので、ファン・ゴッホが最初から浮世絵のコピーを志向してはいなかったことがはっきり見てとれます。

このコーナーでは、パリのファン・ゴッホと関わった人物、たとえばカフェ「ル・タンブラン」の女主人アゴスティーナ・セガトーリの肖像画(右奥にぼんやり女性像と思われる浮世絵)や、有名な《タンギー爺さん》の背景に置かれている歌川広重の石薬師の浮世絵などが展示され、さらには同時代にパリにいてジャポニスムの一翼を担ったロートレックの構図の大胆さが際立つ《ディヴァン・ジャポネ》とベルナールのくっきりした輪郭線に特徴がある《ポンタヴェンの市場》も並んで時代の雰囲気を伝えてくれますが、ちょっと変わったこうしたモノも展示されていました。

左の絵はファン・ゴッホの《三冊の小説》(1887年)。その三冊の本を載せた台の実物が残っていて、それが右の写真の楕円形の板ですが、裏面には「起立工商会社」と墨筆されています。この木材の用途がこれまではっきりしていなかったのですが、この展覧会を契機に研究された結果、1878年のパリ万博での同社の陳列場の入り口の上にこの板が看板として掲げられている写真が見つかり、元の使途が判明したのだそうです。ただし、ファン・ゴッホがこの看板をどのような経路で入手したかは、未だに不明とのこと。

2. アルル 日本の夢

パリで多くのものを吸収し、しかしながらそこでの暮らしに疲弊もしたファン・ゴッホは2年後の1888年2月に南仏アルルに転居し、ここで《ひまわり》《夜のカフェテラス》といった名作を生み出しました。陽光に満たされたアルルの風土にファン・ゴッホが「日本」をイメージしていたことは残されている書簡にはっきりと記されていますが、このコーナーに展示されたファン・ゴッホの作品の中にも、浮世絵から得た構図や描法のアイデアが織り込まれていることを見てとることができます。

《雪景色》(1888年)はアルルに到着したファン・ゴッホが出会った銀世界の様子を描いたもの。地平線を高くし、画面左下から右上へと斜線を走らせる構図の源泉として、会場には歌川広重の《東海道五十三次 蒲原》が合わせられていました。また《アイリスの咲くアルル風景》(同)に見られる細かい線描や、風景画としてではなくアイリスそのものに迫るテーマ設定も、日常的なモティーフを細い線で小さく描き込む日本の版画の方法を試みたものとの説明がされていました。

その他、《麦畑》《サント=マリーの海》(同)も地平線ないし水平線を画面奥の高い位置にとり前景を見下ろすように描く構図は同時代のヨーロッパの風景画には例が少なく、北斎や広重から学んだものであろうとのこと。そう言われてみれば、展示されている北斎《富嶽三十六景 武陽佃島》も広重《五十三次名所図会 廿四 島田 大井川駿岸》もそうした構図上の特徴が顕著です。

そして近景で木の幹が画面を大きく分断する《種まく人》(1888年)の極端な遠近法は、既に「北斎とジャポニスム」で見たように浮世絵から移植されたものですが、その浮世絵の遠近法も元は江戸時代後期に移入された西洋の絵画や銅版画での遠近法を浮世絵師たちが誇張して用いたもの。また、この絵には強烈な存在感を示す太陽と黄色い空というファン・ゴッホのいくつかの作品に共通する特徴も見られますが、会場には現存する《水夫と恋人》(同)及び書簡中のスケッチから復元した《ラングロワの橋》(古賀陽子氏)も展示されており、そこでも本来ならあり得ない北に位置する太陽とルネサンス以来の約束事を離れた自由な彩色(空は黄色、水面はエメラルド・グリーンなど)を見ることができました。

3. 深まるジャポニスム

引き続きアルル時代のファン・ゴッホの作品を見ていくコーナー。

有名な《寝室》(第一バージョン=1888年)は、ゴーガンの到着を心待ちにしながらひとり暮らした寝室を描いたもの。書簡の中でファン・ゴッホ自身が陰影は消し去った。浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色したと語る通り、輪郭線と単純な色面、さらに極端な透視図法といった浮世絵の要素が結実しています。このコーナーに配された他の作品でも同様の特徴を見ることができましたが、口元の表情の付け方が魅力的な2点の人物画が浮世絵の大首絵を手本としているという説明には少し驚きました。

一方、《オリーブ園》(1989年)はゴーガンとの共同生活が破綻し自分の耳を切り落とす事件を起こして病院に収容された後、サン=レミの療養所に移ってからの作品。オリーブの生命力とそこでの収穫を描く連作のアイデアは浮世絵における「百景」などに通じるものですが、点描的でありながらうねるようなタッチで色彩を重ねる技法は、輪郭線の力強さと共に浮世絵の表現を離れてファン・ゴッホ独自の世界を生み出しているように思えます。

4. 自然の中へ 遠ざかる日本の夢

アルル(ファン・ゴッホにとっての「日本」)に芸術家の共同体を作るという夢が破れ、サン・レミの療養所に自ら移ったファン・ゴッホは、それまで手紙で熱く語っていたようには日本への賞賛を語ることはなくなってしまいました。それでもこのコーナーでは、浮世絵の花鳥画を引用しながらモティーフの選定とそこへのクローズアップに引き続き日本の影響を読み取ろうとしていますが、同時に、たとえば《草むらの中の幹》(1890年)で描かれる樹皮の表現に顕著なごつごつした輪郭線と大胆なタッチ、そしてためらいのない色使いにファン・ゴッホの内面の直接的な投影を見出しています。そうだとすれば、次の絵はいかにも悲痛です。

最後の《ポプラ林の中の2人》(1890年)は日本初公開とのことですが、その静謐な雰囲気は画面奥が暗い背景に断ち切られていることで孤独感や不気味さへと転じているようにも見えます。2人の登場人物にははっきりした顔がありませんが、もしかするとこれはファン・ゴッホが終焉の地オーヴェール=シュル=オワーズで一緒に住むことを切望した弟テオとその妻ヨーのイメージであり、この絵はその希望が実現しないことを予感しているファン・ゴッホ自身の心象風景なのかもしれない、などとも想像しました。

ファン・ゴッホの死が自殺であるか事故であるかははっきりしていませんが、パリにあってファン・ゴッホを経済的にも精神的にも支えてきたテオが新婚家庭を持ち、特にその妻ヨーとの間に緊張関係が生まれたことで、ファン・ゴッホに深刻な疎外感が生じていたことは間違いないようです。そして、ファン・ゴッホが銃による傷を負って37歳で亡くなったのはこの年の7月29日。そういう目で見ると、この現実離れした色彩をもつ幹しか描かれていないポプラの列は、墓地に整然と並ぶ十字架をも連想させます。ファン・ゴッホらしいとは言えず、浮世絵からの影響を見出すこともできない絵でしたが、それでもなおこの展覧会で最も印象深い1枚でした。

5. 日本人のファン・ゴッホ巡礼

最後のコーナーでは、ファン・ゴッホに憧れた日本人(主として白樺派とその周辺の文学者や美術家)が、ファン・ゴッホ作品の貴重なコレクションを持っていたオーヴェールのガシェ家(ファン・ゴッホの最期を看取ったガシェ医師の息子の代)を1920-30年代に訪れた記録を、三冊の芳名録と関連する資料や作品で紹介していました。ただし、なぜ日本でファン・ゴッホ受容がこれほど熱気を帯びたものになったのかの説明は必ずしも明瞭ではありませんでしたが、作品の芸術性が評価され始めた矢先の不慮の死という現実の悲劇性に加え、1910年代に入ってからの書簡集や伝記の出版によって増幅された不幸な求道者のイメージが、判官贔屓の国・日本での熱狂を生んだのだろうということは想像に難くありません。

改めて、図録からの引用。

ファン・ゴッホの思い描いた「日本人」とは、ファン・ゴッホ自身の理想に他ならない。ファン・ゴッホは自分の芸術的、社会的、倫理的、そして宗教的理想のすべてをこの「日本人」の周りに結晶させ、「日本人」というなの理想的人物を、そして「日本」という名の理想社会、ユートピアを想像の世界につくりあげた。ここにファン・ゴッホのジャポニズム最大の特徴がある。同じ頃、浮世絵の影響を受けた画家は数多くいるが、ファン・ゴッホは画家としてだけでなく、全存在をこの架空の「日本」に懸けたのである。

これまで、ファン・ゴッホの作品を十分にまとまった形で見たことがなかったのですが、著名な作品をピンポイントで抜き出して見せるのではなく、日本からの影響という縦軸に沿って体系的に整理された形で作品を紹介したこの展覧会は、自分のファン・ゴッホに対する認識をそれまでとは比べ物にならないほど高めてくれました。

また、洗練された美しい浮世絵の数々が参照可能であったことも、この展覧会の魅力を際立たせていました。とりわけ歌川広重の《東海道五十三次 蒲原》のモノクロームの深み、《同 大津》の精緻さとヒロシゲブルーの美しさ、《同 庄野》の構図の斬新さと疾走感、さらにはこの日展示されていはいませんでしたが、図録で見ることができる《同 箱根》のデフォルメされた構図の大胆さと配色の妙に、いずれも息を呑みました。

こうした浮世絵の数々とファン・ゴッホの絵とを並置して見せる点では、先に見た「北斎とジャポニスム」と通じるものがありましたが、様式面の影響に着目するだけではなく、その背後にあるファン・ゴッホ自身の人生の軌跡を描き出して見せたという点で、この企画には比類なき深みがあったように思います。