特別展 運慶

2017/10/28

5月の奈良博での「特別展 快慶」と対をなすものとして今年のメインイベントに位置付けていた「特別展 運慶」を見に、雨模様の中を上野へ。

フライヤーの惹句を引用すると次の通りですが、その記述には誇張も偽りもなく、掛け値なしに仏像ファン必見の展覧会でした。

日本でもっとも著名な仏師、運慶(生年不詳-1223)。平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍し、まるで生きているかのような写実性と精神的な深みに富む作品を生み出しました。

運慶は生涯に多くの仏像を造ったとみられますが、現存する運慶作あるいはその可能性が高い仏像は、31体という見方が一般的です。各地で大切に守り継がれてきたこれらの仏像のうち本展覧会には過去最多の22体が結集する、空前の機会となります。また運慶の父・康慶、息子の湛慶、康弁ら親子三代にわたる作品を通じて、日本の彫刻史に燦然と輝く一時代を築いた作風の樹立と継承をたどります。

展示される約70体の作品のほとんどが国宝及び重要文化財という特別な空間で、普段お寺では見られない角度からも仏像をたっぷりとご堪能いただけます。

平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて慶派が興隆するようになった経緯については既に「特別展 快慶」のレポートの中で記述していますが、改めて興福寺復興に絞って振り返ると次のようです。すなわち、興福寺の伽藍が治承4年(1180年)の南都焼討ちによって焼失した後、その復興事業はただちに開始され、主要堂宇の造像を京の院派・円派が担ったのに対し、不空羂索観音を本尊とする南円堂の諸仏は康慶が担当して文治5年(1189年)に完成させました。本展覧会の第1章で展示される仏像のいくつかは、このとき南円堂に納められたものです。一方、北円堂の復興は10年以上も遅れて開始され、そこに納められる仏像は運慶を総責任者としその子たちが分担して承元2年(1208年)から4年の歳月をかけて制作されました。第2章で展示されこの展覧会の主役となる無著・世親の二体はこのときのものです。こうした経緯を予備知識としてもった上で、いざ会場へ。

第1章 運慶を生んだ系譜 -康慶から運慶へ

場内に入るとまず迎えてくれるのが、奈良・円成寺の《大日如来坐像》(安元2年(1176))〈国宝〉です。現存する運慶の作品の中で最も古い、運慶20代のときの作品ですが、その揺るぎない造形美は運慶の才能の開花が極めて早かったことを示しています。ただし、そのフォルムには先行する父・康慶の作品である静岡・瑞林寺の《地蔵菩薩坐像》(この日は展示なし)との相似があり、工房の図面ないし手本をベースにしたことが判明しています。とは言うものの、この大きさであれば通常3カ月程度で完成・納品に至るはずの像に運慶は11カ月の期間をかけ、腕と胸との間に空間をつくって広がりを出したり像の底部を削って像全体を後方に4度傾かせたりといった工夫を重ねており、そこには既に運慶の独創が見られるといいます。

この第1章では他に、玉眼(水晶を用いて濡れたような写実的な目を作る)の技法を用いた最古の仏像であり天平仏の技法に習った奈良仏師が定朝様へのアンチテーゼを示す奈良・長岳寺の《阿弥陀如来および両脇侍坐像》(仁平元年(1151年))〈重文〉や、運慶の父・康慶の手になり写実的な表現を通じて一人一人の個性が際立つ興福寺《法相六祖坐像》(文治5年(1189年))〈国宝〉、同じく興福寺で今は仮講堂(5月に訪ねたばかり)に安置されている《四天王立像》(同年)〈重文〉といった作品が並んでいて、のっけから吸引力抜群です。

第2章 運慶の彫刻 ―その独創性

そして、ほぼシームレスに第2章の運慶コーナーへ。まず目を引くのは、1人すっくと立ってその勇壮な姿を誇示する《毘沙門天立像》(文治2年(1186年))〈国宝〉。北条時政が氏寺として静岡・願成就院を建立するに当たり運慶を抜擢し、阿弥陀三尊・大聖明王(不動明王)・多聞天(毘沙門天)の群像を造像させた内の一体で、以後運慶が持つことになる東国武家政権との関わりの嚆矢となる作品です。ボリューミーでありながらすっきりとした体躯に、生き生きとした玉眼とすっきり尖った鼻筋の極めて現代的なハンサムさを持つ表情は、当時の武家にとっても理想の武人に見えたかもしれません。

東国武士との関わりを示す仏像としては、神奈川・浄楽寺の《阿弥陀如来坐像および両脇侍立像》(文治5年(1189年))〈重文〉も見逃せません。和田義盛とその妻の小野氏の発願により運慶が造像したもので、その表情も体躯も柔らかく膨らんでおり、穏やかな印象です。なお、浄楽寺に納められた像は願成就院と同じく阿弥陀三尊・不動明王・毘沙門天の五体で、そのすべてが現存するということですから、現存する運慶作の31体のうちの実に6分の1が三浦半島西岸にあるこの寺に集まっていることになります。

和歌山・金剛峯寺の《八大童子立像(六躯)》(建久8年(1197年)頃)〈国宝〉は高野山を参詣したときに霊宝館で見ていますが、この展示では一体一体がケースに納められてすぐ近くから個々に眺められるようになっているため、それぞれの個性がとてもよくわかり非常に強い印象を受けます。その生き生きとした描写の素晴らしさを言葉にするのは難しく、これはどうしても実物を見るしかないのですが、実はこれらの像を『聖無動尊一字出生八大童子秘要法品』に説く大日如来の四智・四波羅蜜というそれぞれの性格に則って正しく配置すると、体の向きや視線がすべて、本尊である不動明王像を礼拝する行者に向けられるようになっているのだそうです。

いよいよ、今回の展示の白眉である二体の像の前に辿り着きました。《無著菩薩立像》《世親菩薩立像》(建暦2年(1212年)頃)〈国宝〉とはこれまでに2004年の「興福寺国宝展」と2009年の興福寺参詣の二度対面していますが、今回はとりわけ印象深いものでした。本来おわす興福寺北円堂の中で見るより博物館で見る方が強い感興をもたらすというのはいかがなものかという気もしないでもありませんが、こちらの感受性がようやく作品の高みに近づいてきたということもあるのかもしれません。ともあれ、東京博物館のディスプレイは北円堂の内陣の形と広さを再現しつつ2m以上の体躯をもつ両菩薩像のすぐ足元まで見る者を近寄らせており、こめかみや手の甲に浮き出す血管のリアルさと共に老年の無著の小さな目の奥の深い叡智と壮年の世親の表情に表れる力強い意志とをまざまざと感じさせます。まさにこれは国の宝と呼ぶにふさわしい木像ですが、これらは運慶を総責任者とした運慶工房の作品というのがより正しく、北円堂本尊阿弥陀如来坐像の台座に残された銘文から実際には運慶の子である運賀が無著を、運助が世親を担当したと考えられています。

この展示でのもう一つの見どころは、南円堂にある四天王立像を無著・世親像の周囲に配置した点です。従来、南円堂の四天王像は創建当初からそこにあったものであり、したがって運慶の父である康慶の作であると考えられてきたのですが、近年の研究により現在仮講堂に置かれている四天王立像(本展覧会の第1章で展示)が南円堂にあったものであり、現在南円堂にある四天王立像はもともと北円堂にあったもの、よって運慶工房の手になるもの(そうであるなら運慶の子息たちの作品であり《無著菩薩立像》《世親菩薩立像》と同時に制作されたもの)ではないかという見解が有力になりつつあるそうです。

なぜ場所が入れ替わってしまうのかと言えば、度重なる火災のたびに持ち出された仏像たちを後で戻すときに戻す場所を間違えたのだろうと容易に想像はつくのですが、ただし、北円堂に置くにはこれらの像は大き過ぎるという懸念もあり、したがってこの展覧会で北円堂のスペースを再現して本尊の周囲を囲む配置としたのは、これらの像が本当に北円堂にあったものかどうかを検証する実験としての意味合いもあったようです。その結果を研究者がどのように評価しているかは不明ですが、少なくとも私は、会場でのこれらの像の配置には無理を感じませんでした。

一方、無著・世親や本展覧会には出展されていない本尊阿弥陀如来の穏やかな姿とは対照的なあまりにも激しい、忿怒を通り越してほとんど異形といっていいその姿は、先に見た願成就院の《毘沙門天立像》とも異質であるという疑問もあり、本当にこれらの像が南円堂にあったかどうかはまだ確定していないようです。私自身も、これらの像の激しさにはショックを受けたのですが、特に剣を右上から左下へ斜めに構える《持国天立像》や左手に乗せた多宝塔を高く見上げる《多聞天立像》のダイナミックな姿が、むしろ阿弥陀如来と2人の菩薩によって示される極楽浄土を力強く守護する確固たる意志を示して、祈るものの心にますます阿弥陀如来への帰依の思いを強くもたらしたのではないかという気もします。

第3章 運慶風の展開 ―運慶の息子と周辺の仏師

展示は第二会場に移って、引き続き運慶の息子たちと周辺の仏師の事績を追います。まず見ておきたいのは東大寺の《重源上人坐像》(13世紀)〈国宝〉。東大寺再興を主導した事業家であり、快慶とのつながりが深い重源の像ですが、ここではその表現様式から運慶一門の造像になるものと見立てています。

続いて運慶の工房を引き継いだ長子・湛慶の作品がいくつか並びますが、京都・高山寺の明恵上人との交流の中から生まれ同寺に伝わる《善妙神立像》(13世紀)〈重文〉や《神鹿》《子犬》の穏やかな(特に後二者は異例なほどに愛らしい)表現や、さらには湛慶晩年の事業であった京都・妙法院三十三間堂の千手観音菩薩坐像光背三十三身像のうち三像の端正さには、快慶にも学んだ湛慶の特色がよく示されているそうです。

しかし、楽しさという点では興福寺の《天燈鬼立像》と《龍燈鬼立像》が勝ります。特に緑の身体を持つ龍燈鬼(建長6年(1215年))〈国宝〉は、眉毛に銅板、牙に水晶、龍の背鰭に皮革を用いるといった工夫がされており、大臀筋やヒラメ筋の盛り上がりも力強くセクシー。運慶の子息の1人である康弁の作であることが像内納入品から明らかになっています。一方、天燈鬼は表現や技法に違いがあり、康弁以外の作者の手になる可能性が高いようです。

そして最後は《十二神将立像》(13世紀)〈重文〉です。もともと京都・浄瑠璃寺に伝わっていたものが明治時代に寺の外に出て、今は五体が東京国立博物館、七体が静嘉堂文庫美術館の所蔵品となっており、今回12体が勢揃いしたのは画期的なことだそう。薬師如来の眷属であり十二支のそれぞれをかたどった神像は高さ70cm強とやや小ぶりですが、それぞれにインパクトのある姿をしています。特に巳神の禍々しく威嚇する顔、午神の手を頬に当てて口をへの字に曲げた顔、申神の猿を思わせるユーモラスな顔、酉神の「おー!」と叫んでいるような顔、亥神の片目を細めて鏑矢の軸の撓みを確かめている顔など、リアルというより漫画的です。日本の漫画のルーツは鳥獣戯画にあると言われることがありますが、この十二神将たちはそのまま漫画やアニメの主人公として通用する個性とスター性を持っていると感じました。

こうして今年、運慶と快慶とをまとまったかたちで見ることができたわけですが、同じ慶派に属していながら、やはり両者にははっきりとした違いが感じられました。この展覧会でも、運慶作品の印象を薄めないよう、運慶以外では父・康慶、子・湛慶、康慶、そして運慶風の濃い作品に絞って展示しており、快慶の作品はとりあげていません。そして両者の違いについて、図録の中に収められた論考「運慶の独創性とその源」(浅見龍介氏)の中の次の記述がもっとも参考になりそうです。

快慶は仏師としては運慶と並び称されるが、彫刻家としての評価には大きな開きがある。快慶の特色は、立像、坐像とも衣文が左右対称に単純な曲線の反復で表された端正な造形にあり、ヴァリエーションはあまりない。快慶が目指したのは、仏像の作家として独創的な作品を造ることではなく、阿弥陀如来を信仰する仏師として、誰もが美しいと思う仏像を造ることだったのだろう。その作風は絵画的と称されることが多く、像表面の彩色や金泥塗り、截金による装飾に重きを置いている。彼にとっては造像が極楽往生につながる作善でもあった。

運慶は定型を繰り返すということがなかった。常に自分の独創的な像を造るという意識があったように思われる。日本の古典に学んで創り上げた面もあるが、写実の追求が感情、精神といった内面にまで及んでおり、きわめて独創的である。追随するのは容易ではないが、志向としては後世にも大きな影響を与えた。運慶は仏師としても彫刻家としても高く評価されるのである。

ひと通り回り終えて、最後にもう一度北円堂スペースに足を運んで四天王に威嚇されながら無著・世親の穏やかな表情を見上げてから、平成館の外に出ました。入場したときに比べると入館しようとする人々の列が長くなっており、そして雨足も強くなっていました。

なお、この展覧会は「興福寺中金堂再建記念特別展」と銘打たれており、5月に興福寺を訪れたときに工事中であった中金堂は300年ぶりに再興なって、2018年10月7-11日に落慶法要が営まれるそうです。

そのときに現在の興福寺の諸仏の配置がどのように変わるのかは不明ですが、今回の展覧会の公式フィギュアに抜擢された龍燈鬼も、今の住まいである仮講堂から新しい中金堂へ引っ越しをすることになるのかもしれません。

ところでこのフィギュア、喉から手が出るほど欲しかったのですが、なにしろ本体だけで5,400円、それにクリスタルのケースが2,500円の別売りとなっていて、合わせれば8,000円という高額出費となるために購入を断念しました。いま手元にある阿修羅フィギュアと並べれば、2人とも喜んだと思うのですが……残念。