阿修羅-天平乾漆群像展-

この週末は、奈良への2泊3日の旅。まず、奈良国立博物館の「特別展 快慶」を検討の起点として調べたところ、ちょうど興福寺で阿修羅ほかの乾漆像が耐震補強工事のため1年間の休館中の国宝館から仮講堂へ移されていることがわかったので、これも見ることにしました。もちろん日帰りではもったいないので、観桜客がいなくなり静かであろう吉野へ足を伸ばすことにしたのですが、それなら間に久々の明日香訪問を挟んだら充実するぞ、とプランが膨らんだわけです。

2017/05/13

新幹線で京都へ、さらに奈良へ。近鉄奈良駅から興福寺は、ほんのわずかの歩きです。

境内の中央で工事が進んでいるのは、伽藍の中核となる中金堂です。創建以来数度の消失と再建を繰り返した中金堂は享保2年(1717年)の7度目の火災の後、文政2年(1819年)に「仮堂」として再建されました。この「仮堂」を解体して新たに建築しているのが興福寺の悲願であった中金堂で、こちらは来年(2018年)に落慶予定ですが、「仮堂」の老朽化に伴いこれに代わって金堂としての役割を果たさせるべく1975年に中金堂北の講堂跡に旧薬師寺金堂(室町時代後期)を移建して「仮金堂」としていた寄棟造の建物が、中金堂落慶後は講堂としての役割を果たすことを期待され呼称を改めた仮講堂です。

実は、この仮講堂(仮金堂)では2009年にも四天王・八部衆・十大弟子像を見ているのですが、そのときは1時間並んで像の前にいられたのは10分程度と非常に慌ただしいものでした。ところが今回は待ち時間なし、堂内でもじっくり像と向き合えるゆとりがあり、かつて八部衆・十大弟子像が安置されていた西金堂(現在は失われています)の雰囲気を想像しながら一つ一つの像の見事さを堪能することができました。

穏やかな表情で中央に聳えるのは、この仮講堂の本尊《阿弥陀如来像》〈重文〉。鎌倉時代初期の木造で、もとは子院・観禅院大御堂の本尊であったもの。堂内の鎮めとなって諸尊を従える貫禄を備えています。一方、火炎光背を背負って四隅を厳重に固めるのは《四天王像》〈重文〉。これらは文治5年(1189年)作のやはり木造で、当初は南円堂に安置されたものです。視線を中央に戻せば、《阿弥陀如来像》の左右には静謐な知性を感じさせる《梵天》《帝釈天》〈重文〉、その外側に対照的に迫真の力感を漲らせる阿吽の《金剛力士像》〈国宝〉、そして《阿弥陀如来像》の前には、小さいながらも存在感抜群の《天燈鬼》《龍燈鬼》〈国宝〉が普通なら四天王の足に踏みつけられているはずなのに灯明で仏前を照らす役割を与えられて誇らしげです。

ここまでは鎌倉彫刻の優品たちですが、中央最前面に置かれた銅製の《金鼓》《華原磬》とその周囲に立ち並ぶ八部衆と十大弟子(六体)は西金堂建立時から今に伝えられた貴重な天平彫刻で、もちろんすべて国宝です。西金堂は、藤原不比等の娘で聖武天皇の后である光明皇后が母・橘三千代の一周忌供養のため天平6年(734年)に建てたもので、その内陣の仏像群は金光明最勝王経の一場面を立体的に描くもの。《八部衆像》のうち特に人気の高い阿修羅を含む四体(阿修羅・五部浄・沙羯羅・乾闥婆)が少年像であるのも光明皇后の意向を反映したものである可能性があるそうですが、こうして改めて見渡すと既におなじみの阿修羅像の細身と三面六臂はやはり異様で、むしろ上半身しか残していない五部浄像の真剣な眼差しに強く惹かれるものを感じました。

それにしても、これらの像の作り手もさることながら、その後の度重なる戦役・火災やさらには明治の廃仏毀釈の法難を乗り越えてこれらの仏像を守り伝えてきた興福寺の僧たちの努力には、頭が下がります(何度も僧の手によって担ぎ出されて避難しなければならなかった阿修羅たちは「いい加減にしろよ」と思ったかもしれませんが)。

さて、国宝館に安置されていたもう一つの寺宝である《銅造仏頭》〈国宝〉も国宝館を出て東金堂に移動しているので、あわせて拝見することにしました。

こちらは天武14年(685年)作、白鳳彫刻の傑作です。もとは蘇我倉山田石川麻呂の三十七回忌供養のためにその終焉の場所となった飛鳥山田寺の講堂の本尊薬師如来像として造立されたものを、平安末期の焼亡から興福寺を再興するため文治3年(1187年)に東金堂本尊として「迎え入れた」(『玉葉』の記述によれば興福寺の僧兵が強奪した)もの。応永18年(1411年)に堂と共に被災し、残された頭部だけがその後再興された東金堂の本尊の台座に納められていつしか忘れられていたのですが、500年以上を経た昭和12年(1937年)に東金堂解体修理に伴い再発見されたという経緯を辿りました。以後、仏頭は博物館や国宝館に収蔵されていたのですが、今回の国宝館休館に伴い80年ぶりに東金堂に戻り、かつて山田寺の昔から三尊像一具として《薬師如来像》が両脇に従えていた《日光・月光菩薩像》(白鳳時代)〈重文〉とも600年ぶりに顔を合わせることになったというわけです。

……ということなのでもちろん仏頭に手を合わせてありがたく拝んだのですが、この東金堂には他にも《十二神将立像》〈国宝〉、《四天王立像》〈国宝〉などが須弥壇狭しと並んでいて目移りします。わけても仏師定慶の手になる《維摩居士坐像》〈国宝〉の写実的な老体の表現力と、これと対をなす《文殊菩薩坐像》〈国宝〉の若々しい表情・体躯の描写には目を見張りました。

これで最初の目的は果たしたことになりますが、時間にゆとりがあるので興福寺の境内を一巡りしてみることにしました。

南円堂、北円堂。西金堂は南円堂の北に位置していたはずですが、再興の計画はあるのでしょうか?また、北円堂の中におわす《無著・世親立像》等とは今年の秋に東京国立博物館で開催される運慶展で会えるはずで、今から楽しみです。

三重塔から横道を少し歩いて、猿沢池へ。

かすかな雨模様の中でしっとりした猿沢池周辺の佇まいを愛でて、手近なお店で昼食をとってから、奈良国立博物館へ向かいました。