塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

逆鱗(NODA・MAP)

2016/02/23

東京芸術劇場(池袋)プレイハウスで、NODA・MAPの「逆鱗」。NODA・MAPの公演を観るのは昨年2月の「エッグ」以来ですが、これは2012年の同作品の再演なので、新作としては2013年の「MIWA」以来2年半ぶりということになります。

今回の「逆鱗」は、系譜としては「ロープ」(ソンミ村虐殺)、「ザ・キャラクター」(地下鉄サリン事件)、「エッグ」(731部隊)等と同じく現代史の実録モノということになりますが、今回の「逆鱗」で取り上げられた題材は、人間魚雷・回天という比較的地味なもの。太平洋戦争の歴史に精通していないと予備知識の不足に苦しむことになりそうな題材をあえて取り上げた野田秀樹の意図は、プログラムの冒頭の次の記述から推測することができます。

今までこの世に起こった話、それがフィクションであれノンフィクションであれ、忘却された話がどれだけあるだろう。それを思うと、職業柄、眠れなくなる。本来ほとんどの話が消え去り忘れ去られてしまうのに、「書く」という生業は、つまり「わざわざ書く」ということは、「わざわざ選んで残す」ということでもある。

そういえば「透明人間の蒸気」にも忘れ去られていく時代という主題が含まれていましたし、上述の「エッグ」も表向きは731部隊が主軸ですが、満州からの引き揚げ時のさまざまな悲劇に実は焦点を合わせていたことが想起されます。しかし、今回の「逆鱗」はよりストレートに、人間魚雷に搭載されて海の中へと射出されていった若者たちの悲劇を正面から描いていました。

◎以下、戯曲のテキストと観劇の記憶により舞台を再現します。ここを飛ばしたいときは〔こちら〕へ。

【#1 深い海の底】

冒頭の場面は、深い海の底。緑のロングヘアーをなびかせながら登場したNINGYO(松たか子)の長いモノローグから始まります。潜水艦の窓の外から「その姿」を見て泣きたくなったNINGYOは、泣くために空気が必要だから海面に出る。その泣き声は歌声となって響き、水面に落ちて海底に沈んでいく。その歌声を追って暗い海底に再び潜ったNINGYOは、自問します。

……なんで私は歌っていたの?なんで私は泣こうとしたの?

ここで場面は海中水族館に変わりますが、このときもこの後も、場面転換に際しては大勢の人ないしは魚群が舞台上を走って横切り、これがブレヒト幕の役割を果たす演出になっています。

【#2 海中水族館】

最初に登場する重要人物は、運び込まれた巨大な水槽を「右!左!」と指示しながら所定の位置に設置しようとやかましい警備員のサキモリ(阿部サダヲ)。ついで水族館長の鵜飼綱元(池田成志)、人魚学者の柿本魚麻呂(野田秀樹)、鰯ババア(銀粉蝶)らも登場し、カオスのような水族館の情景がひとしきり描かれる中で、どうやらこの水族館は人魚を生け捕りにして展示しようとしているらしいことがわかります。そこへ、夏のセミの声を伴って自転車に乗った爽やかな電報配達の青年モガリ(瑛太)が登場。サキモリとの電報を受け取る、受け取らないのやりとりの中に、「誰もいない海」「沖の船」(モガリ)「上の人間」(サキモリ)というキーワードが早くも現れます。

続いて登場する重要人物は、鵜飼館長の娘・鵜飼ザコ(井上真央)。誘惑するような目でモガリを減圧室に連れ込み、「志願」を募るチラシを手渡しましたが、ここでザコがこの悲劇の一方のキーパースンであることがわかります。その予感は正しく、人魚ショウ記念講演のリハーサルで頼りない柿本魚麻呂を牽引するのもザコの役目。瞳が透き通ったイルカ君(満島真之介)を危険な仕事とわかっていながら潜水鵜に志願させるのもザコ。ここまでは海中水族館が舞台でしたが、NINGYOに誘い込まれるようにして水槽に飛び込んだ青年モガリは海底の人魚たちの世界に辿り着きます。

【#3 人魚たちの世界】

……といってもセットが特別変わるわけではなく、シンプルな舞台上に青い光が広がり、NINGYOと同様に緑の髪を持つ男女がうごめいているだけです。そしてここで人魚の設計図が示されますが、それは二匹の大きな魚の頭をぶった切ってつなぎ合わせ、人の上半身を先頭につけるというもの。人魚は設計されたものなのか?という青年モガリの問いにNINGYOはつい自分の世界に入り込み、ひどいよね〜。そして人魚は散々アンデルセンにもてあそばれ、ほったらかされた。この暗くて深くて惨めな海の底に、恨みます。中島みゆきより恨みますと恨み節。そのまま人魚たちに迫られて恐怖に駆られた青年モガリが錯乱したところで、SEと共に場面が転換して元の海中水族館に戻ります。

【#4 海中水族館】

海中水族館で行われているのは、人魚ショウに出演するニセ人魚のオーディション。顔写真と実物が違うじゃないか!というところで背後のスクリーンに映し出される写真は1枚が宮沢りえ、もう1枚が深津絵里というNODA・MAP常連の女優で客席は爆笑することになります。オーディションが終わり、なぜか人魚同一性障害のNINGYOだけが不合格とされたところへ舞台後方から引き揚げられたのは、海の底でモガリが見せられた設計図に書いてあったのと同じ、巨大な頭のない魚たち=シーラニンギョ。ここでもドタバタがひとしきりあって、やがてぴくりとも動かなくなったシーラニンギョたちを残して舞台上から人が去った後に、そのシーラニンギョの中から白塗り・海藻を頭からかぶった異様な風態のサキモリが登場しました。青年モガリの後を追ってイルカ君が水槽に飛び込んだときに、綱で繋がれていたためにサキモリも水槽の中に引きずり込まれていたのですが、ここでの青年モガリとの対話の中から、サキモリは人の心の中の声が聞こえることが明らかにされます。そのとき、サキモリが青年モガリの心の中の呼び掛けを上官殿!と口にしたところから、突然舞台上に時空の歪みが生まれ始めます。警備員から潜水鵜に転職して鵜長になって行方不明になったサキモリは、俺は、行方不明というより、もはや正体不明だ……悩んでる。上官殿と俺を呼んだ声は聞こえた。でも俺は正確には誰だ?と苦悩を抱え始めました。

一方、オーディションに落ちて落ち込むNINGYOは水槽に入水自殺しようとしますが、青年モガリに声を掛けられて「いけてないリケジョ」としての自分をカミングアウト。そこで思い出されたアフロディーテとエロスの双魚宮のエピソードの中に青年モガリがNINGYOを「母さん」と呼ぶ台詞があるのは、後に出てくるNINGYO(の正体)の胎内にモガリが入っていたことを暗示します。水底にばらまいてしまった電報を取り戻したい青年モガリ、自分が本当に人魚かどうか知りたいNINGYO、そして「俺は誰だ?」と自分探しをしたいサキモリの3人の願いが一致して水底へ向かうことになると、ここで舞台上は人や装置がレコードの逆回転のように目まぐるしく動いて(このアイデアは秀逸!)、青年モガリが人魚たちに迫られ錯乱した場面 【#3 の最後】へぴったり逆戻りしました。

【#5 人魚たちの世界】

周囲の人魚たちの心を読んで私も巻き添えで喰われるのでありますか?と一瞬軍隊長の言葉遣いを見せたサキモリでしたが、NINGYOたちから、海で死んだ人間の時間は首の辺りに逆鱗となって青白く光り、人魚はその逆鱗を食うのだと聞かされて青年モガリと共に動転します。

【#6 海中水族館】

悪夢から目を覚ましたサキモリと青年モガリの惑乱ぶりは見もの。怖い怖い、離して!と叫んだかと思えば悪夢の中での逆八百比丘尼(鰯ババアの別人格)やNINGYOの声色を再現しては勝手に怯えてみせて抱腹絶倒でした。しかし、サキモリ救出の美談の記者会見の最中にシーラニンギョからNINGYOが引きずり出され、その首にある鱗にイルカ君や鵜飼綱元が手を触れると、ボーンと不気味なSE。そこへ割って入ったザコは、NINGYOを人魚学会の監視下に置くことを宣言します。ザコに命じられてNINGYOの鱗を調べていたイルカ君は、その鱗に書かれた文字を並べて次の文章を見つけ出しました。

NINGYO EAT A GEKIRINN

鉄扉が閉められる音、検査室でザコと柿本魚麻呂の取調べを受けるNINGYO。昔々の昔々の昔々の昔に人魚だったというNINGYOは、柿本魚麻呂の質問に答えて海の底で私の見てきた人間は、皆、死にたがっていましたと説明し、さらに人魚の設計図を見せられてそこに描かれた頭のない魚をハタハタと呼んで、この辺りでイルカのことをハタハタ(鱩)と呼ぶ理由を次のように説明します。

「魚」偏と「雷」を一文字ずつにすれば、鱩は、「魚雷」と呼べませんか?そして、魚雷は、流線型のイルカに似せて作られました。だから魚雷はイルカとも呼ばれていました。

【#7 戦時中の取調室】

ザコがNINGYOの頬をひっぱたいた次の瞬間、そこは戦時中に時間が変わっており、赤い光の中で柿本魚麻呂は先ほどまでの軽薄な言葉遣いを改め緊迫した口調で情報漏洩を疑いました。またこの辺りから、人間魚雷計画の実現にとりつかれているザコが柿本魚麻呂と鵜飼綱元に計画の推進を促すときの決め台詞お茶をどうぞが登場し始めます。そこへ、外から扉を叩く音。下からの電報は今読む必要がない、と言い放つザコ。それでも電報を持ってきた者が扉を開けた途端にNINGYOは取調室を脱出して、時間が元に戻ります。

【#8 海中水族館】

人魚のお披露目を先に延ばそうとザコが語った途端に始まったのは、鵜飼綱元による人魚お披露目会見。一方、取調室から脱出したNINGYOと電報を届けに来ていた青年モガリは、彼が持ってきた(はずの)電報を読みました。

オキユクインディアンノバシャニ チビモデブモノッテハオラズ バシャハカエリミチ

そして差出人はNINGYO EAT A GEKIRINN。しかし、NINGYOの首筋からぼろぼろと出てきた鱗を青年モガリが並べ替えてみると、アナグラムによってそこにさまざまな言葉が浮かび上がり、そのときNINGYOは「人魚は逆鱗を食べる」という言葉に意味はなく、それは暗号であることを察知します。昔々の昔々の昔々の昔、青年モガリの死体から溶け出した時間が塩の鱗となる古代妄想にNINGYOが取り憑かれたとき、ズーンと震動音がして再び時間が変わりました。

【#9 戦時中の潜水艦の中】

減圧室から転がり出てきたサキモリ他の潜水鵜たちは、ここで戦時中の戦闘服の出で立ちに変わっています。ハッチを開ければ海の上の音、そしてハッチを閉めて潜航すると、その遥か頭上を巨大なスクリュー音が通過していきました。ぞくっとする恐怖に客席も凍りついたところへ爆雷が投下され、サキモリは面舵、あるいは取舵とせわしなく指示して爆雷を避けようとしますが、その緊迫した指示は冒頭の水槽を運び込むエピソード【cf. #2】の悪夢のような再現です。しかし混乱した青年モガリは、口調を改めたサキモリによって現実に引き戻されました。

【#10 海中水族館】

NINGYOの一般公開、晴れがましい姿で鵜飼綱元が握る綱元には、大日本帝国海軍の軍艦の舳先を飾っていた菊の紋章。青年モガリが言う通り、この水族館そのものが海の底(過去)に引きずり込まれ始めたことを象徴する意匠です。「大量に余り、首を切られたイルカ」に動揺するイルカ君。そして、人魚捕獲の使命を帯びた潜水鵜たちを引き連れて水槽へとダイブするNINGYO。しかし……。

【#11 半年後の海中水族館】

舞台中央の水槽に飛び込んだはずのNINGYOがほとんど間髪を容れず上手に置かれた梯子状の装置の上に姿を現したのには驚きましたが、結局NINGYOは飛び込むことができず、人魚も捕獲できず、よって海中水族館は閑散としているという設定。それでも減圧室での訓練は続けられていましたが、そのことに虚しさを覚えたサキモリは転職を決意。転職先の求人条件は、(1)減圧室に45分間いられること、(2)沖の船を一目で目視できること、(3)後顧の憂い無きもの。この求人条件を読みながら一人一人考え始める潜水鵜たちは、既に「志願」を避けがたい心理状態になっていることをサキモリに読み取られます。そこへ、沖の船が近づいてきたと動揺する鵜飼綱元と柿本魚麻呂。いよいよ人魚学=武器を作る学問が息を吹き返すと歓喜するザコ。喪服のように黒いコスチュームを着たNINGYOが登場すると共に、時制が混乱を来たし始めます。シーラニンギョたちが次々に息を吹き返して舞台後方の空間に消えていき、NINGYOは自分が昔々の昔々の昔々の昔=70年前の人間魚雷であることを明かして、その場にいる全員を海の底=過去へと引きずり込みます。NINGYO EAT A GEKIRINNNINGEN GYORAI KAITENに変化し、舞台後方の空間に巨大な人間魚雷が現れました。

【#12 戦時中の海軍基地】

学者・柿本人麻呂と軍人・鵜飼綱元の前にザコがお茶をどうぞと広げた図面は、「大量に余った魚雷」の弾頭部を切り【cf. #10】二鋌の魚雷の間に人間が入れる隙間を作ることで生まれる人間魚雷の図。こんなつぎはぎの乗り物に人を乗せて……という鵜飼綱元の疑問も、100%の命中率など期待できないだろうと考える柿本魚麻呂の懐疑も、NINGYOが吐き棄てるような口調で代弁はするものの実際に2人の口から語られることはなく、ザコの進めるがままに作戦はとめどなく実行へと走り出します。人間魚雷搭乗員となった潜水鵜たちが下手から舞台中央へ進み、これに上手奥から斜めに対峙するように、白塗りに目の周りを黒く隈取りしてマネキンのように生気のない表情の人魚たちが、前傾姿勢で並びました。自分の動揺する心をNINGYOに読み取られ、さらに動揺するサキモリ。ここからは、舞台上の時間の流れがどんどん速くなっていき、ザコ・柿本魚麻呂・鵜飼綱元の3人が別室に消えていくと、残された潜水鵜たちは潜水鵜イルカと潜水鵜モガリを除いてほとんどが自分たちの内面の声(自分はこんな棺桶の中に入っていきたくない、こんなことだったら志願などするのではなかった、など)に動揺しパニックに陥ってしまいます。客席で観ているこちらもいたたまれなくなっているうちに、ついに人間魚雷発射の命が下り、舞台後方の高みに立ったザコによって電文が解読されます。

チビトデブヲノセ インディアンノバシャガ オキヲユク タダチニ NINGYO EAT A GEKIRINN ハッシャセヨ

リトルボーイ(広島型原爆)とファットマン(長崎型原爆)を乗せた重巡洋艦インディアナポリスが沖を行く。直ちに人間魚雷・回天を発射せよ。

これを聞いた鵜飼綱元と柿本魚麻呂は、人間魚雷の綱元を譲りあったあげく「さらに上の人」に渡すことで意見が一致。所詮、ワレワレも一羽の鵜ですからと吐き捨てるような台詞を残して、ザコを含む3人は姿を消してしまいました。

【#13 人間魚雷を搭載した潜水艦】

ここからは終幕まで、ほぼ一気呵成。

舞台前方では潜水鵜たちが緊迫した様子で人間魚雷の複雑極まりない始動シークエンスを開始します。しかし人間魚雷は熱走せず、浸水。これだけの短い時間にこれだけたくさんのことをさせて、それでも動かない、どれだけつぎはぎの思いで作られた代物だしかも形ばかりの脱出装置さえないことに、サキモリは絶望的な思いにとらわれます。それでも気を取り直して、部下たちに発射後敵艦撃沈までの手順を指示するサキモリ。しかしその手順には、人間がわざわざ魚雷に乗る必然性など微塵も含まれてはいません。それまで疑問を呈する潜水鵜たちの心を代弁していたNINGYOに代わって逆八百比丘尼が人間魚雷の無意味さを指摘したあげく、私の息子たちは、こんなものにのせられたのか。これに対してNINGYOはそうよ、私たちはこんな人魚だったの

一方、潜水鵜モガリはハッチから見えたインディアナポリスの様子から、それが原爆をテニアン島に運び終えたカエリミチ【cf. #8】であることに気付き「上の人間」に攻撃中止を具申する電報を送りますが、既に発射命令に従って潜水鵜たちは自分の人間魚雷(ジェットコースター状の円筒形のもの。その1人ずつに1人の緑の髪の人魚が付き添う)に搭乗を始めており、準備ができた者から次々に発進していきます。舞台を揺るがす射出音と共に、魚雷に乗った潜水鵜は1人ずつ自分の人魚に引きずられて舞台後方へ消えていきましたが、命中すれば45秒で爆音がするはずなのに爆音はしません。しかし、サキモリに促されて潜水鵜モガリは聞こえない爆音を聞き、見事爆沈!と報告。1人、また1人と射出され、45秒後をカウントするサキモリと無音の中に撃沈を報告するモガリの声。舞台から1人消えるたびに、見ているこちらは込み上げるものを抑えつけるのが難しくなってきます。サキモリもまたいたたまれなくなって、残り少なくなった部下2人にお前たちの思っていることを口にしてやると声を掛けましたが、しかしお前たちは……心から喜んでいきます。そう思っているとしか言うことができません。このときの、サキモリを見つめるNINGYOの悲痛な表情……。

魚雷に人間を乗せることの意味が最期までわからない、とNINGYOに代弁させた潜水鵜モガリ。かたや出で立つや 心もすがし るりの風と澄んだ瞳で辞世を述べる潜水鵜イルカ。サキモリは、モガリの心を読みながらすまん、読めなくなったと顔を伏せて発進命令を出します。射出音と共に消えていく潜水鵜イルカと潜水鵜モガリ。そして45秒後に、爆音。潜水鵜イルカが乗った人間魚雷が、インディアナポリスを撃沈したのでした。

しかしカエリミチの船を沈めたからといって、それがなんになるのか。

【#14 夏・故郷】

一瞬時間が止まったようになり、蝉時雨の声を聞きながら自転車に乗った青年モガリがやってきて【cf. #2】、鰯ババア=「母」に電報を無言で渡します。息子の最後の様子を聞かせて欲しいと願う「母」と、すぐに海の底に戻らなくてはいけないというモガリ。そして、「母」の口からこの戯曲の主題が切ない口調で語られます。私の息子が誰だったか私が忘れてしまうことよりも、私の息子があなた達に忘れ去られること、それが、かなしいと。

【#15 海底】

自分も発進しようとしたサキモリの元に、玉音放送が聞こえてきます。これからは自分のコトバで喋っていい、しかし、皆は海へと放たれた後で、サキモリのコトバを聞くことはもうできません。暗転する舞台の中でサキモリの姿は下手に消え、舞台中央では海底に引っ掛かったまま「おーい!」と悲痛な呼び声を上げる潜水鵜モガリと、その人間魚雷であるNINGYO。

これが誰もいない海だ。もうじき俺もいなくなって、ここは誰もいない海になる。でもその海を誰も見ることができないだろう。これほど、寂しい景色があるだろうか?

やがて動かなくなったモガリを見下ろしたNINGYOは、水底で朽ち果てていく青年の「時間」をどこへ連れて行こう……と絶叫のような泣き声【cf. #1】をあげます。そして舞台の天井から光の煌めきが降りてきてそこに「塩の柱」が立ち、これをNINGYOが見上げたまま立ち尽くすうちに、ゆっくりと暗転しました。

前半の海中水族館を舞台にしたドタバタなあれやこれやは冗長に感じる部分がなきにしもあらずでしたが、そこにいくつかの伏線を置いておいて戦時中にワープしてからの後半の急展開には、観ている者も過去へ、あるいは海の底へ引きずられるような牽引力がありました。とりわけ、舞台上を行き来する人や魚の群れが瞬時に場面を転換させる鮮やかさには目を見張りました。セットはシンプルなものでしたが、ホログラムのような効果をあげるパネルが水槽を作ったり会見室を作ったり。透明な円盤やシャボン、舞い散る光の破片が視覚効果を生み、また、減圧室、潜水艦のハッチ、電信室などは円筒がモチーフとなって、人間魚雷もまた減圧室の円筒を横にしたような造形です。小道具では、人魚たちの世界で車椅子に乗った逆八百比丘尼の点滴がタコの形で笑いましたが、鵜飼館長が手に持つ綱元の小道具に途中から菊の紋章が備わっているのを見たときは、ぞっとしました。

出演者では、NINGYOの松たか子さんとモガリの瑛太の存在感にまずは拍手。野田秀樹の芝居は、下手な役者が取り組もうとすれば単調な早口で単語を詰め込むのが精いっぱいということになりますが、この2人は確実に言葉の意味を客席へ届ける力量があり、十分な感情移入を勝ち得ていました。野田秀樹の言によれば、能にたとえるとモガリがシテ、NINGYOがワキの役割を担うのだそうですが(出典『シアターガイド 2016/3』)、なるほどという感じです。イルカの満島真之介もまた、役柄そのままにピュアな表情。かたや、サキモリの阿部サダヲは喉を傷めていたのか声の通りが悪く、ザコの井上真央もやや単調に聞こえましたが、もっとも井上真央に関しては、マッドサイエンティスト的なその役柄によるものかもしれません。

彼らを囲む鵜飼綱元の池田成志、柿本魚麻呂の野田秀樹、そして銀粉蝶のそれぞれの突き抜け方もすごい!中でも池田成志は記者会見の場面での怪演ぶりがすさまじく、記者の質問が相次ぐ事故の責任に及んだところで耳をそばだてるあのポーズから大泣きをしながら「とにかく〜!記憶がございません!うぁ〜!」と某号泣県議の物マネをしたのには客席バカウケ。かたや野田秀樹は、人魚学会の記者発表リハーサルで居眠りしたところをザコに起こされて寝ぼけ眼で「チャーハンはセットに含まれているんじゃないの?!」だの「酢豚にパイナップルは入れないで!」だの。さらに、もしNINGYOが本物の人魚ではなかったと発表しようものなら「今までお前たち人魚学会は何をやっていたんだ」と誰にも似ていない物マネをして自分でツッコミを入れたり。しかしここでは、現代の鰯ババアと戦時中の「母」、そして両者の間の記憶をつなぐために不死となった逆八百比丘尼という三つの人格を振幅大きく演じ分けた銀粉蝶に一票を投じたいと思います。

ともあれ、風化させてはならない記憶を人々の記憶にとどめさせようとする野田秀樹の営みは、少なくともこの日、この劇場の空間を共有した観客に対しては、十分過ぎるほどにその目的を達していたと言えるでしょう。

なお、この作品のタイトル「逆鱗」には意味がなく、「人間魚雷 回天」のアナグラムから生まれた単語に過ぎないようです。そして、劇中に紹介されたいくつかの史実に言及しておくと……。

  • 最後まで澄んだ瞳で前向きに死んでいった潜水鵜イルカの辞世出で立つや 心もすがし るりの風は、実際の回天特攻隊員の1人の辞世出で立つや 心もすがし るりの色からとられたもの。
  • 回天の実際の出撃回数は49隻、これに対して敵艦撃沈の実績は4隻。
  • 重巡洋艦インディアナポリスは原爆をテニアン島に運び、その帰路に日本海軍の潜水艦・伊58潜によって撃沈されました。しかしそれは、回天による特攻ではなく通常魚雷での雷撃によるものだったそうです。

配役

NINGYO 松たか子
モガリ・サマヨウ 瑛太
鵜飼ザコ 井上真央
サキモリ・オモウ 阿部サダヲ
鵜飼綱元 池田成志
イルカ・モノノウ(イルカ君) 満島真之介
鰯ババア(逆八百比丘尼) 銀粉蝶
柿本魚麻呂 野田秀樹