狐塚 / 善知鳥

2015/11/29

喜多六平太記念能楽堂で、観世流能楽師・柴田稔師主宰の「青葉乃会」。番組の眼目は、名作「善知鳥」です。師のブログでは、今回の曲の選定について次のように述べられていました。

今回は親子の絆、それも鳥の親子の絆をテーマにした「善知鳥」を選びました。
善知鳥とは鳥の品種の名前で、主人公の男はこの鳥を捕まえることを生業としています。 しかし鳥を殺した殺生の報いは、死後の地獄が待ち受けているのでした。
善知鳥は鳥の中でもことに親子の絆が強く、それを捕らえる猟師にも愛する家族がいました。
”殺生と地獄”そして”親子(家族)の絆”。この二つの事柄は、人が生きていくための永遠の課題ではないでしょうか。
この作品を通して、今の生きざまをもう一度深く顧みたく「善知鳥」を選びました。

ところで、喜多六平太記念能楽堂での観能はこれが二度目(前回も「青葉乃会」で曲は「楊貴妃」)ですが、このこじんまりとした親しみやすい能舞台に少し変わった点があることに初めて気がつきました。それは、他の能舞台では地謡座は舞台から張り出した形になっており、竹の鏡板は笛柱に接して空間を画しているので、切戸口から入った地謡陣は笛柱の前を通って地謡座につくのですが、この能楽堂では地謡座も含めた四角い床面の中に笛柱が自立して立っており、切戸口から入った地謡陣は笛柱の後ろを通って地謡座に着座するようにできているのでした。なぜ、そのような作りになっているのかは不明です。

最初に増田正造氏による解説があり、そのお話の断片を並べてみれば次の通り。

続いて仕舞二番は、観世銕之丞師による優美な「楊貴妃」と、そのご子息・淳夫さんの「国栖」。淳夫さんの謡の激しさ、足拍子の響きの大きさは驚くばかりで、これほどにフルパワーの仕舞というのはなかなかお目にかかれません。

狐塚

今年は嬉しいことに豊作。しかし、狐塚にある田を叢鳥が荒らすのが気になる主(能村晶人師)は、太郎冠者(野村万蔵師)に鳴子を渡して鳥を追い払うよう命じます。しぶしぶ狐塚に赴いた太郎冠者でしたが、それでも脇柱に紐を縛り付け、正中に置いた葛桶に腰掛けて、「ほーう、ほーう」と声をあげて鳴子を鳴らすと近づく鳥が逃げて行くのを見て大喜び。この辺りの一人芝居の面白さは、万蔵師の面目躍如といった感じです。ところが夢中になって鳥を追っている内にあたりは暗くなり、太郎冠者は心細さを紛らわすために鳴子を鳴らし続けます。そこへやってきたのは次郎冠者(河野佑紀師)。太郎冠者が寂しかろうと一ノ松から「ほーい、太郎冠者よーい」と呼びかけましたが、疑心暗鬼の太郎冠者は、あれは狐が化けたものに違いないと思い込み、返事を返して呼び込んだ次郎冠者を鳴子の紐で素早く縛り上げてしまいます。その間に笛前から橋掛リへ移動した主が一ノ松から太郎冠者に声を掛けましたが、これも夜陰に乗じて白縄で縛り、目付に座らせます。二匹の狐をつかまえたつもりの太郎冠者は、尻尾を出させようと松葉の束に火をつけて扇でパタパタ。狐ならずとも人間でも燻されてはたまらず、太郎冠者の命令に従って次郎冠者は「わい!」、主は「こん!」と鳴き声を上げさせられます。さらに鎌を持ってきて皮を剥いでやろうと太郎冠者が橋掛リを素早く下がっていく内に、次郎冠者は後ろ手の縄を解き、主の縄も解いて二人で作戦会議。鎌を持って戻ってきた太郎冠者を主が羽交い締めにし、次郎冠者は鎌を取り上げてから太郎冠者の足をとって、二人で太郎冠者の身体をゆらゆら揺らすと正面へ放り投げてました。万蔵師が本気でごろごろ転がってくる内に主と次郎冠者はさっさと下がっていき、太郎冠者は「やるまいぞ」と後を追っていきました。

この曲、一見するとドタバタですが、考えてみるとちょっと不気味です。演出によっては最後に主と次郎冠者が本物であることを知って太郎冠者が恐縮するというパターンもあるそうですが、この日の演出では太郎冠者は最後まで二人が狐だと思い込んだまま、二人を追っていきました。鳴子を使って鳥を追い払うところまでは楽しげな雰囲気が舞台に横溢していたのですが、夜が近づいたところで不安に駆られた太郎冠者には、次郎冠者も主も見知った人物とは映りません。それは暗闇への恐れが太郎冠者の神経を高ぶらせたせいかもしれませんが、夕闇に乗じて近づいた狐が太郎冠者に暗示を掛けたのだと考えた方が面白そうです。だとすれば、鎌を手に二人を追った太郎冠者は、その後果たしてどこまで行きつくのでしょうか?

なお、次郎冠者の若手・河野佑紀師はよく通る声で舞台にメリハリをつけていましたが、その大仰な表情と所作はずいぶん現代的で、狂言が持つ慎み深さを少々損ねていたようにも思えました。

善知鳥

三卑賤の一つ「善知鳥」は、2010年に木月孚行師のシテで見ていますが、以来、機会を得てまた観たいものと思っていた曲でした。生きてゆくため、家族を養うために殺生を生業とする猟師は、自身の罪を厭いながらも狩猟本能の虜になって嬉々として狩りをする、その本性の闇のために狩った善知鳥に地獄で復讐されるという、人間の業の深さを描く作品です。室町時代にこの曲を観た武士たちの中には、戦場での振舞いの中で闘争本能に身を委ねた自分の罪深さに思い至った者もいたことでしょう。

最初に、緑と金の段替りに唐草模様の紅無唐織のツレ / 猟師の妻(谷本健吾師)が、子方 / 猟師ノ子(谷本悠太郎くん)を先に立てて舞台に入ってきました。ツレと子方は前場では出番がないので後から出す演出もあるそうですが、柴田稔師は、この曲のテーマが親子の情愛であることからすると最初から妻子が舞台上にいることに意味があると考えて、あえて出し置きの形を選択したそうです。次いで囃子が入って、ワキ / 旅僧(大日方寛師)とアイ / 所ノ者(野村虎之助師)とが登場し、陸奥外の浜を見に行く途次に立山禅定、と立山に着いたことを謡って、そこから立山の様子を地獄の有様と謡うサシが朗々と美しいものでした。そこへ揚幕が上がって、幕の中から前シテ / 尉(柴田稔師)がなうなうあれなる御僧に申すべき事の候と暗く呼び掛けます。やがて姿を現したシテの姿は尉髪・阿瘤尉面、茶の水衣。髪をふるふると震わせながらワキに向かい、陸奥の国に着いたら去年の秋に亡くなった猟師の妻と子の宿を訪ね、そこにある蓑と笠を手向けて弔ってくれるようにと伝えてほしいと頼みます。そして水衣の左袖を外すと橋掛リでワキにこれを渡し、橋掛リを下がっていきましたが、二ノ松で振り返って舞台を見たシテの視線は、形見を託した旅僧ではなく、その向こうで脇座に佇んでいる妻子に向けられているように思えました。

シオリながらシテが行く方知らずなりにけりと下がって短い前場は終了し、ワキとアイとのごく短い問答を経てワキが一ノ松に立ったところで、ツレが夫との死別を嘆くサシ。そこへワキが案内を乞うて、誰かと訝しむツレに立山禅定の際に前シテから託された袖を示すと、これは夢かやあさましやと驚き悲しみつつツレは袖を押し戴きました。続いてワキは後見から受け取った黒い笠を正先に置き南無幽霊出離生死頓證菩提と手向けの読経。ここで鋭い笛が入り、舞台の空気が変わって後シテ / 猟師の登場となります。後シテは黒頭に白い縷水衣、羽蓑を腰に巻き、面は痩男で幽霊の姿。切れ切れの声でみちのくの外の浜なる呼子鳥 鳴くなる声はうとうやすかたと藤原定家の歌を引いての一声の後、シテは鳥獣を殺す身の重い罪科にも仏法の力の及ぶことを願ってワキに向かって合掌しました。

ここで地謡はツレの住まいの情景を叙述する上歌を謡い、これを受けてツレはあれはとも言はば形や消えなんと夫の姿の儚さを嘆きながら子方を立たせてシオリ。この様子にシテは自分の殺生を嘆きます。シテの猟は、親鳥の「うとう」という声を真似て「やすかた」と応える子鳥を捕らえるもの。何しに殺しけん、我が子のいとほしき如くにこそ、鳥獣も思ふらめとしみじみと後悔しても遅く、我が子の髪を撫でようとずいと近づいてゆくと子方は後ろずさって脇座に消えてしまい、願いはかないません。この場面、一瞬の内に加速するシテと子方の動きが極めてドラマティックで、胸を突かれるものがありました。一方シテは、隠れ笠が我が子の姿を消してしまったのだろうかと正先の笠を見下ろし、ああ苫屋の内が見たい、妻子の姿を見たいと着座してシオリとなります。以下、クリ、サシと下居のまま自身の生業を述懐したシテでしたが、後の世で報いを受けることも忘れて殺生をしたことを後悔するとはっと身を起こして手を合わせ、モロシオリ。述懐はさらに続き、猟師に獲られやすい砂の上に子を生む善知鳥の習性を愚かなことと哀れんで、親の声を真似て「うとう」と呼べば子は親に呼ばれて「やすかた」と答えてしまうのだ、と舞台を回りながら自らのわざを説明する内にシテも囃子方も高揚した後に……うとう

この自らの呼び声をきっかけにシテは狩猟の喜びの虜となり、その様子を嬉々として再現する追打ちのカケリ。脇座に打ちかかり、逃れた鳥を目で追ってじわじわと迫ります。妖しい笛の音を聞きながらシテは橋掛リまで移動し、二ノ松から舞台を見やったかと思うとふと前に進んで一ノ松の松を打ちました(松に手を出すという演出は初めてみました)。またしても逃げられたシテはゆっくり舞台へ進むと正先の笠=うとうの子鳥に目を向け、ついにこれを打って膝をつき両手で捕らえた後に空を見上げて親鳥の姿を探しました。この狩猟の場面のシテの夢中な様子と写実的な術の表現には、舞台上に本当に鳥がいるかのような錯覚を覚えましたが、カケリが終わってみれば親鳥は空から血の涙を降らせ、シテは杖を見事なコントロールで後見座まで滑らせて捨て、笠で涙を避けながら舞台上を逃げ惑います。しかし、先ほど妻子の姿を隠した笠は今は身を隠す術にはならず、その笠を笛前から目付に向かって投げ捨てて扇を手にし常座に立つと、ここからは地獄の苦しみのリアルな描写に変わりました。足拍子を踏んだシテは、化鳥となって羽ばたく善知鳥に銅の爪で眼を抉られ、猛火の煙に追い立てられ、しかし逃げようとしても立つことができず二度膝をつくと正中にがっくり座り込んでしまいます。善知鳥は鷹になり、自分は雉となって空からも地を走る犬からも責められ安らぐ時のない苦しみ。その身の苦しみを助けて賜べや御僧と訴えたシテは、そのまま救済を得ることもかなわずに失せにけりと常座で留拍子を踏みました。

前場の寂寥、妻子を前にして声をかけることもかけられることもできない悲しみ、自らの生業の罪深さへの嘆きから、一転、夢中になって鳥を追うカケリの写実とこの振幅の大きさ、そして一気に終曲までなだれこむ地獄の責め苦の悲惨など、あらゆる場面において隅々まで柴田稔氏の心が行き届いた見事な舞台であったと思います。観世銕之丞師率いる地謡陣はもとよりツレと子方(なぜか途中から目をぱちぱちさせていましたが)もシテを支えて手堅いものでした。大鼓の打音が終始フォルテシモだったのが唯一気になりましたが、これは正面席の前から二列目に座っていたためにそう聞こえたのだということにしておきましょう。

なお、附祝言は「猩々」から覚むると思へば泉はそのまま、尽きせぬ宿こそ、めでたけれ

配役

仕舞 「楊貴妃」 観世銕之丞
「国栖」 観世淳夫
狂言「狐塚」 シテ / 太郎冠者 野村万蔵
アド / 主 能村晶人
アド / 次郎冠者 河野佑紀
能「善知鳥」 前シテ / 尉
後シテ / 猟師
柴田稔
ワキ / 旅僧 大日方寛
ツレ / 猟師ノ妻 谷本健吾
子方 / 漁師の子 谷本悠太郎
アイ / 所ノ者 野村虎之助
藤田貴寛
小鼓 田邊恭資
大鼓 大倉慶乃助
主後見 清水寛二
地頭 観世銕之丞

あらすじ

狐塚

山に田を持っている主は、田を鳥が荒らすと云って太郎冠者に狐塚へ行って田を荒らす鳥を追い払えという。太郎冠者はしぶしぶ主の命に従い、狐塚へ行って田を見張り、鳴子で鳥を追うことに夢中になっている内に、いつしか夜になった。太郎冠者が一人では心細いだろうと次郎冠者が田へやってくると、太郎冠者は次郎冠者を化けた狐と勘違いして縛り上げてしまう。主もまた太郎冠者をねぎらおうと田へやってくるが、太郎冠者はこれも狐だと思い込んで主も縛ってしまう。狐のいやがるという松葉をたいて二人に狐の鳴き声を出させた太郎冠者は、鎌を持ってきて皮を剥いでやろうと太郎冠者がその場を離れた隙に縄をぬけた次郎冠者と主は、戻ってきた太郎冠者に仕返しをして去って行く。

善知鳥

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