塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

盤渉参軍

2015/11/07

国立劇場(隼町)で、雅楽「盤渉参軍」。これまで雅楽を聴く習慣はなく、一度だけ舞楽「青海波」を観たくてやはりこの国立劇場に足を運んだことがあるだけですが、あぜくら会からの案内メールに「大曲 盤渉参軍を聴く」とわざわざ「大曲」の二文字があったので、よくわからないがなんだかスゴそうだ!とチケットをとってみたというわけです。

平安中期の雅楽家・源博雅(918-980)が村上天皇の勅命により康保三年(966年)に編纂した「新撰楽譜(長秋竹譜・博雅笛譜)は現存する最も古い笛譜であり、約200曲の唐楽譜が収録されていたことがわかっています。このうち50曲余りが江戸期の転写本で現存しており、大曲「盤渉参軍」もこの中に含まれていました。国立劇場ではこの長大な「盤渉参軍」の復曲に取り組み、1977年の「序十三帖」、1979年の「破十帖」を復曲上演していましたが、今回はその通しでの上演ということになります。

なお、唐代の大曲の構成では散序・中序・破の3部構成であるのに対し「盤渉参軍」は序・破の2部構成で、これは、日本では歌を主体とする中序が定着せずに早く失われたことの影響を受けている一方、破の末尾の速いテンポの部分が独立して急の楽章となり序・破・急の雅楽形式が確立する前、すなわち唐代の大曲の形式が日本化する途上にある姿を示しているからであるようです。しかし、復曲に携わった芝祐靖氏はこの形式に物足りないものを感じて、いわば「盤渉参軍」を讃えるという意味で「急〈参軍頌〉」を作曲しており、今回の上演でも序・破の後にこの急を置いています。

さて、まずは「序」を演奏する第1部ですが、幕が上がると舞台上は御簾を模した背景の前に柿色の直垂と烏帽子姿の24人の楽師が居並んでいました。上手手前に琵琶三人、その後ろに笙五人、中央に篳篥五人、下手手前に筝三人、その後ろに龍笛五人、そして最後列は中央に太鼓、上手に羯鼓、下手に鉦鼓という編成です。最初に音合わせを兼ねる序曲「盤渉調音取」が奏され、笙の不協和なのに澄んだ持続音が醸し出す雅びな雰囲気が会場に響き始めれば、そこはもう平安時代の世界にタイムスリップします。盤渉調は雅楽の六調子のうちB音を基音とする旋法で、古代中国の二十八調のうち太簇均羽調と同じくB,C#,D,E,F#,G#,Aからなる音階です。

以下、「序」の演奏はリズムや長さを変えながら十三帖まで続くのですが、笙の持続音による基盤の上に主旋律を奏でるのは個性的な音色が存在感を示す篳篥で、そこに龍笛が高い音域でユニゾンしたり対位的に動いたりします。琵琶と筝とは主に三音分散和音を繰り返しながらたゆたうような音の流れを作り、背後の太鼓と鉦鼓が節の区切りにアクセントを入れる役目を果たしますが、全体のリズムをコントロールするのは羯鼓であるようです。音取だけは笙から入りますが、以後は各帖が終わると楽師は楽器を置いて自分の前に置かれた楽譜をめくり、続いて龍笛の一人が独奏を始めて、そこへ羯鼓や笙が加わって次の帖へ移るというのが基本パターン。帖ごとに、ゆったりした旋律を八小節単位で進行させる延八拍子から軽やかな旋律が四小節単位で進行する早四拍子までの速さや、羯鼓の奏法(塩短声、泉郎声、沙音声など)の指定があり、曲の色合いを変えながら次々に演奏されていきます。ただ、初めてではないとは言え馴染みのない雅楽に聴きどころがわからず、琵琶と筝によるミニマルなリズムと曲ごとの違いがわからない篳篥のメロディ(音域が狭く上行ポルタメントが常用されるためにどの曲も同じに聞こえてしまいます)のせいでだんだん夢の中へ追いやられていってしまいました。

第2部は、音取をさらに大きくした「盤渉調調子」の後に「序二帖」を冒頭に置いて、「破十帖」と「急」を演奏します。さすがに気合を入れ替えて演奏に集中しましたが、曲によっては複数の篳篥が複雑に絡み合ってチベット音楽のように聞こえたり、琵琶と筝とがコンビネーションで作る旋律に惹きつけられたりと、さまざまな面白みを把握することができるようになってきました。篳篥の装飾音の面白さ、笙の音量変化のダイナミクスによる波動、羯鼓と鉦鼓の連携。管楽器と弦楽器の音階の持つムードも不可思議で、曲名の通り盤渉調の音階が全体を支配しているのですが、そこに篳篥の複雑な音階と音程が絡んでこの世のものとは思われません。

舞台上の楽師は第1部と第2部とで同じ顔ぶれ(十二音会)ですが、一部担当楽器を変えていました。それにしても、都合4時間にわたり集中力を持続させながら演奏を続けることは、心身共に大変なことだったでしょう。それだけに「急」の末尾、琵琶と筝との最後の一音の力強さには、大曲の演奏をなしおおせたことへの感慨がこめられていたように感じられました。

とにかく長さが際立つ超大曲の演奏に立ち向かうには、自分の雅楽に対する知識はあまりにも貧弱であったと言わないわけにはいきませんが、遅まきながら勉強もできたことですし、これからも時折は雅楽の演奏会に足を運んでみることにしようと思います。

篳篥の粘り気のある音色と装飾音を聴いているうちに、なぜかEddie JobsonのこのMinimoogソロ(U.K.「In the Dead of Night」)を連想してしまいました。