翁 / 西王母 / 大黒連歌 / 花月 / 舟渡聟 / 吉野静 / 因幡堂 / 鬼界島 / 成上り / 葵上

2015/02/15

丸一日がかりで演じられる翁付き五番立ての式能を、私は2010年に一度体験していますが、観る方もたいへんな体力を要するこの式能はさすがにつらく、その後は敬遠していました。しかしこの三年ほど「翁」を観ておらず、今年の正月も機会に恵まれなかったことから、久しぶりにどっぷり式能に浸かってみようと思った次第。よって、10時から19時までを国立能楽堂に引きこもることにしました。

翁 

観世流。宗家による「翁」は、正先での礼拝からしてやはり風格が違います。その翁によるとうとうたらりたらりら。たらりあがりららりとう天下泰平、国土安穏、今日の御祈禱なりを聞けば、もうこの日の目的は果たせたようなもの。さらにシテ方による千歳(観世喜正師)の若々しい舞と、三番叟(山本泰太郎師)の揉之段でのダイナミックな烏飛ビ、鈴之段での長大な舞が続き、神事の荘重さに浸りきりました。

西王母

続く脇能は、古代中国を舞台とする「西王母」。神仙思想に基づき女神をシテとする点が異色なのだそうです。引立大宮がしつらえられ、狂言口開から真ノ来序を経てワキ・王(殿田謙吉師)が唐冠狩衣大口姿で登場しただけで、もうそこは大陸の空気。そして前シテ・仙女(観世芳伸師)は唐織の上に白い薄衣を肩から掛けた姿でツレを伴って登場すると、ワキとの間にゆったりした対話が続きます。後シテ・西王母はがらっと装束が変わり、白地に雅楽文様の舞衣、金紋の入った緋大口、そして見事な装飾の鳳凰の載る天冠を戴き、飾太刀を履いて極めて高貴かつエキゾチックな感じ。そしてツレは桃の実三個と桃花を載せた盆を捧げ持って登場しましたが、これは崑崙山にある西王母の宮殿の蟠桃園の仙桃です。三千年に一度しか実をつけない不老不死の桃で、『西遊記』では孫悟空が食べ散らかしたことでも有名。舞台上では地謡が孔雀、鳳凰、迦陵頻伽が飛び巡る様をめでたく謡い、桃実盆がワキに捧げられると、シテが優美な中ノ舞を舞って帝王の世を寿ぎました。

大黒連歌

脇狂言・福神物の典型の一曲とされ、大黒天信仰を奉じあらたまの年の初めに大黒の信ずる者に福ぞ賜ると連歌を年越しの神前で詠む二人のアドの前に、大黒面を掛けたシテ(山本東次郎師)が登場して舞働を舞い二人の信心を褒め連歌の徳を称え、打出の小槌と宝の袋を授けるというこれまためでたい曲。舞働の中で繰り返される足拍子、小走りの所作と飛ビ返リがダイナミックでしたが、一人に宝の袋を与えるともう一人が「私にも何か下さい」とせがみ、これを地謡(鏡板の前に三人)がまじめくさった顔で「その願いはもっともだ」と謡うくだりがなんとなくおかしみを感じさせます。

花月

宝生流。生き別れた父子が寺で再会するという筋立ては「丹後物狂」と似通っていますが、あちらの父は物狂い、こちらは出家の僧。さらに「丹後物狂」は父に芸尽くしをさせるものの父子再会を演出した文殊菩薩への崇拝がテーマとなっていますが、こちらの「花月」は子のシテ・花月(金森秀祥師)による名前の由来の言葉遊び、『閑吟集』にも載る小歌、花を散らす鶯を射落とそうとするも殺生戒を思い出してやめる弓之段、清水寺の縁起を語る曲舞、鞨鼓の舞、山廻りの仕方といった芸尽くしを見せるところにポイントがあります。この日、シテは立烏帽子に喝食面、小豆色の水衣の前に鞨鼓を抱き、白大口という出立で、アイ(三宅近成師)と息を合わせながら弓之段までをこなした後、後見から撥を受け取って詞章に即した写実的な、かつ若者らしいきびきびとした鞨鼓の舞を見せて見応えがありました。最後に、ワキは橋掛リを下がってゆき、シテが常座で留拍子を踏みましたが、終曲時にワキは三ノ松にあって歩みを止めず、そこにこれから父子の仏道修行の旅が果てなく続くという余韻が感じられました。

舟渡聟

これは文句無しに抱腹絶倒。酒好きの船頭(三宅右近師)が船に乗せた若者の持つ酒に目をつけ、船をわざと揺らしたり流したりして脅すので、仕方なく若者(三宅右矩師)は船頭に酒を飲ませるものの、実はその若者は船頭の家を尋ねる途中の初対面の聟だったという話。さすが三宅右近師、あの手この手で酒を飲もうとして若者を辟易させる船上のやりとりがまず笑わせます。船の前に座る若者と後ろで艪を使う船頭の息の合った仕草が船の揺れや流される様子を見せるところは、京劇の「秋江」も連想させました。後半の舞台上は船頭の家に変わり、聟の顔を見て大慌てになった船頭から事情を聞いた妻(高澤祐介師)が腹を立て、半ば恫喝して髭を剃らせて聟の前に送り出しますが、酒を酌み交わそうとしても顔を袖で隠して返杯を受けようとしない舅に業を煮やした聟が舅=先ほどの船頭であることに気づいて途端に態度が変わるのが笑えます。立場が逆転し、強気になった聟と面目ないと平謝りの舅の二人は、最後にそれまでの喜劇的な縁起から一転し声を合わせて謡を謡って終わりますが、この終わり方には少し意外感を持ちました。で、個人的には聟が船に乗るときに肩にかけた棒の片端、酒桶の反対側にぶら下がっていた鯛の作リ物のリアルさがツボでした。

吉野静

金剛流。前半はワキ・佐藤忠信(高安勝久師)が衆徒たち(アイ二人)に混じって繰り広げる情報戦が緊迫感に満ちたドラマチックなものでしたが、後半はがらっと趣が変わってシテ・静御前(廣田幸稔)の舞グセと序ノ舞の華麗さが主眼となり、舞金剛らしい流麗な舞台となりました。金の立烏帽子、紫の長絹、緋袴の姿でひたすら舞い続ける静御前の姿に、私の意識もタイムトリップ……。気がつくと、シテは常座で手を合わせ、静かに留拍子を踏んでいました。なお、この日は省略されていましたが、本作にはもともと前場がついていて、忠信と静御前が義経を逃す時間稼ぎのための打合せをする場面があったとのこと。

因幡堂

善竹忠重・十郎のお二人による夫婦物。すらっとした立ち姿に穏やかでどこまでも上品な口調の忠重師が、舞台中央で大酒飲みの女房を離縁し、新しい妻を授かるようにと因幡堂の薬師如来に祈っていたところ、突如揚幕から姿を現したあの十郎師が美男鬘姿でダミ声も荒々しく「のう腹立ちや」と地団駄を踏んで悔しがり、そのあまりの対比にのけ反りそうになってしまいます。そこで一計を案じた妻が被衣をかぶって……とここから先はおそらく「花子」と同じ流れなのだと思いますが、善竹家の芸らしいおかしみに溢れた舞台でした。

鬼界島

喜多流。他流では「俊寛」となります。最初にワキ・赦免使(福王和幸師)が大赦により鬼界島へ赴く由を説明した後に舞台は島へと変わり、どちらも緑色系の美しい水衣を着た二人のツレの登場。そして後から現れたシテ・俊寛僧都(塩津哲生師)の姿は、茶色の絓水衣の上に純白の頭巾を被り、白い泣き顔のような面を掛けていたようですが遠目にははっきりとしませんでした。塩津哲生師は揚幕から登場すると例によってふるふると震えながらゆっくりと橋掛リを進み、大鼓の國川純師が「どこまで進んだかな?」とたびたびチラ見しながら間合いを測っていたのが異例。以後の進行は概ね他流と同じですが、おやっと思ったのはワキが赦免状をシテへ渡さずツレ・成経に渡し、このため成経とツレ・康頼との間で「読め」「いやあなたが」というやりとりが生じて成経が読んだこと(観世流では赦免状はワキからシテに渡り、シテが康頼に読ませていました)。後で調べてみたところ喜多流ではそうすることになっているのだそうですが、シテを介さないことは、もともと赦免の相手がこの二人であるから赦免使であるワキは俊寛を無視したのだと解することができそうです。ともあれ、赦免状に自分の名が無いことを知った後の俊寛が赦免状をひっくり返して確認した後に、不意に激して立ち上がり数歩進んで文を投げ捨てモロジオリとなった、その一瞬の表現にははっとさせられました。艫綱はなく、これを切られるときの所作は控えめなものでしたが、その後、遠ざかる船から聞こえてくるやがて帰洛はあるべしの声はツレ二人だけで、その二人もこの後は自ら俊寛に語りかけることはなく、残りの詞章はシテと地謡の掛合いとなりました。最後は、脇正面に立ったシテが、水平線に消えた船に向かって右手をかざして見送る形で終曲。全体に、都から見捨てられた俊寛の孤立と孤独が際立つ演出・演技であったと思います。

成上り

一昨年にも同じ和泉流で観た演目。大蔵流では太刀が青竹に成り上がったと太郎冠者が言上して主人に一喝されるところで終わり、その方が曲名にもマッチしていますが、和泉流では盗まれたこと自体を主人はさして咎めず、その後に太刀を盗んだすっぱを捕らえようとするドタバタが付け加わります。これがあまり私は好きではないのですが、しかしこの日も福々しいお顔が柔和な野村萬師による太郎冠者の間の抜けぶりを堪能するためには、この方が良かったかも知れません。野村万蔵師の主人とも息の合った「息の合わなさ」が面白く、楽しい一番でした。

葵上

最後は金春流。この日の演出は昨年2月に観た同じ金春流の「葵上」そのままですし、小書《古式》が付いた場合との対比で演出の細部についても以前言及したことがありますので、ここでは細々と筋や所作を追うことはしません。ただ、シテ・六条御息所(櫻間右陣師)が照日の巫女に向かって姿なければと語りかけたときに照日の巫女がビクッとおののく場面の緊迫感はこの上もなく、ただいま梓の弓の音にと名乗る言葉の凄みやただいつとなきわが心と謡う吐き捨てるような口調には、聞く方が震え上がるほど。ことさらに声量を変えたり抑揚をつけたりしているわけではないのに、六条御息所の心情の移ろいがはっきりと伝わってくる凄い場面でした。後場のワキ・横川の小聖(森常好師)とのバトルの後に成仏解脱する場面は、面の曇リが照リに変わるところを見たかったのですが、この日の席が中正面であったためにはっきりとは見られなかったことが少々残念。

最後に附祝言「高砂」のキリが謡われて、これで終了。修羅物の位置に四番目物の「花月」、切能の位置にこれも四番目物の「葵上」が置かれていて本来の五番立ての作法通りではなかったことと、さらに複式夢幻能が含まれていなかったことが不思議と言えば不思議ですが、ともあれこの日一日を能楽堂で過ごし、満ち足りた気分になりました。

配役

能(観世流)「翁」 観世清和
千歳 観世喜正
三番三 山本泰太郎
面箱 山本則重
能(観世流)「西王母」 前シテ・仙女
後シテ・西王母
観世芳伸
ツレ・侍女 武田宗典
ツレ・侍女 坂井音晴
ワキ・王 殿田謙吉
ワキツレ・侍臣 大日方寛
ワキツレ・侍臣 御厨誠吾
アイ・官人 山本則孝
主後見 武田宗和
地頭 岡久広
一噌隆之
小鼓 大倉源次郎
小鼓 清水和音
小鼓 飯冨孔明
大鼓 亀井広忠
太鼓 観世元伯
 
狂言(大蔵流)「大黒連歌」 シテ・大黒天 山本東次郎
アド・参詣人 山本則秀
アド・参詣人 山本凛太郎
 
能(宝生流)「花月」 シテ・花月 金森秀祥
ワキ・旅僧 福王茂十郎
アイ・清水寺門前の者   三宅近成
主後見 前田晴啓
地頭 當山孝道
寺井久八郎
小鼓 幸清次郎
大鼓 佃良勝
 
狂言(和泉流)「舟渡聟」 シテ・船頭 三宅右近
アド・聟 三宅右矩
アド・姑 高澤祐介
 
能(金剛流)「吉野静」 シテ・静御前 廣田幸稔
ワキ・佐藤忠信 高安勝久
アイ・衆徒 善竹富太郎
アイ・衆徒 善竹大二郎
主後見 廣田泰能
地頭 今井清隆
松田弘之
小鼓 林吉兵衛
大鼓 谷口正壽
 
狂言(大蔵流)「因幡堂」 シテ・男 善竹忠重
アド・妻 善竹十郎
 
能(喜多流)「鬼界島」 シテ・俊寛僧都 塩津哲生
ツレ・丹波少将成経 佐々木多門
ツレ・平判官康頼 内田成信
ワキ・赦免使 福王和幸
アイ・船頭 大藏教義
主後見 中村邦生
地頭 香川靖嗣
竹市学
小鼓 曽和正博
大鼓 國川純
 
狂言(和泉流)「成上り」 シテ・太郎冠者 野村萬
アド・主人 野村万蔵
アド・すっぱ 野村太一郎
 
能(金春流)「葵上」 シテ・六条御息所 櫻間右陣
ツレ・照日の巫女 伊藤眞也
ワキ・横川の小聖 森常好
ワキツレ・臣下 森常太郎
アイ・従者 山下浩一郎
主後見 長谷猪一郎
地頭 本田光洋
小野寺竜一
小鼓 観世新九郎
大鼓 亀井実
太鼓 大川典良

あらすじ

西王母

古代中国、周の穆王の治世。一人の女が現われ、三千年に一度咲く桃花を献上し、王の仁政を讃える。女は、西王母の分身であると明かし、花だけでなく実も捧げると約束し、昇天する。管弦を奏して待つところへ、光り輝く西王母が、桃の実を持った侍女とともに姿を見せ、実を帝王に捧げて妙なる舞を舞い、また空に消えてゆく。

大黒連歌

近江国・坂本の男が、友人を誘い合わせ、比叡山三面の大黒天に参詣して年を越す。毎年の例により、神前で連歌を詠む。「あらたまの年の初めに大黒の」「信ずる者に福ぞ賜る」。すると異香薫じてただならぬ気配となり、二人の信心を喜ぶ大黒天が出現した。そして大黒天の由来を語り、舞働を舞い、最前の連歌をほめ、打出の小槌や宝を入れた袋を与え、この所に納まろうと歌い舞いながらめでたく終わる。

花月

七歳のわが子が失踪したのを機に出家した筑紫彦山の僧が、都は清水寺で、花月と名のる少年に出会う。花月は門前の男とともに小歌を謡い、花を散らす鶯を弓で射落とそうとするが、殺生戒を思い出してやめる。僧は、花月が尋ねるわが子であることに気づく。花月も再会の喜びを舞に託す。そして、天狗にさらわれて諸国の山々を経廻ったことを語り舞い、父と仏道修行に出で立つ。

舟渡聟

矢橋の浦の船頭が乗せた客は、酒樽と肴を携え、婿入りに行く若者。船頭はその酒に目をつける。手が凍えて艪が押しにくいと言い、船を揺さぶったり漂わせたりの強引さに、若者も負けてしまう。ついに酒は残り少なくなってしまう。さて上陸し、若者は婿入りするが、舅は留守であった。帰宅して聟の姿を見た舅はびっくり。先刻の若者ではないか。とても会うわけにはいかぬと逃げ腰の夫に妻は腹を立て、夫の自慢の大髭を無理に剃り落として座敷に出させる。

吉野静

源義経は、頼朝との不和ゆえに吉野山に籠っていたが、頼みにしていた衆徒が心変わりしたために、山を落ちのびることになった。側近の佐藤忠信と静御前は、衆徒をあざむくための計略をめぐらす。忠信は都の道者に変装して衆徒集会の席に立ち入り、頼朝と義経が和解したなどと偽りの情報を流す。また、静御前は義経の忠誠心や武勇を語る舞を舞い、衆徒が舞に魅せられている間に時をかせぎ、義経は無事に落ちのびることができた。

因幡堂

ある男、妻が大酒飲みで怠け者なので愛想をつかし、妻が里帰りした機会に離縁状を届ける。新しい妻をもらおうと、因幡堂の薬師如来に参り、願をかける。これを知った妻は憤慨し、因幡堂に来て、睡眠中の夫に「西門の一の階に立った女を妻と定めよ」と言い渡す。目の覚めた男は薬師如来のお告げと思い込み、喜んで西門に。しかしそこにいたのは、先回りして被衣をかぶって立っていた妻だった。

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