花争 / 隅田川

2013/04/24

国立能楽堂の定例公演で、狂言「花争」と能「隅田川」。

花争

「花見に行こう」という主に対して、「鼻を見るなら何も出かけなくてもこの自分の鼻を見れば」と太郎冠者が頓珍漢なことを言い出したことから、桜花のことを「花」と言うか「桜」と言うか、古歌を引いての争いとなります。

太郎冠者が持ち出したのは、次の歌。

山桜霞のまよりほのかにも 見てし人こそ恋しかりけれ(紀貫之 / 古今和歌集)
桜ちる木の下風は寒からで 空に知られぬ雪ぞ降りける(紀貫之 / 拾遺和歌集)

一方、主はこちら。

花の色は移りにけりな徒らに 我が身世にふるながめせしまに(小野小町 / 古今和歌集)
行き暮れて木の下蔭を宿とせば 花や今宵の主ならまし(平忠度 / 平家物語)

忠度の歌は私の最も好きな歌のひとつですが、こんなところで引き合いに出されるとは……。ともあれ、形勢不利と見てとった太郎冠者は、今度は謡曲「小塩」から引用。この曲、在原業平の霊が夜桜の下で舞を舞うという話で確かに「桜」と謡われるところがあるのですが、同様に「花」と呼ぶ場面もあって主人に見事に切り返されてしまい、最後は「よくご存知で」「しさりおろう!」でおしまい。趣向としては「舟ふな」と同様で、大藏吉次郎師の素っ頓狂な太郎冠者と善竹十郎師の老獪(?)な主との掛け合いが面白かったのですが、約10分とたいへん短い狂言であったために、仔細を知らない見所は終わったときには何やら狐につままれたような感じでした。

隅田川

浅見真州師の「隅田川」は昨年の6月にも観ており、大いに感動したのですが、今回も演出としてはほぼそのときと同じでした。しかし、ワキ方に宝生閑・欣哉両師を迎えたことで更に味わいの深いものになったような気がします。

緑地に白い花の文様を散らした素袍姿で登場したワキ・渡守(宝生閑師)の名ノリが、枯淡の風。続いて登場するワキツレ・旅人(宝生欣哉師)は茶の素袍を着て明瞭な口跡。この二人の登場で早くも眼前に隅田川の情景が浮かび上がってきました。一声、ゆっくりと一ノ松まで歩みを進めてきたシテ・梅若丸の母(浅見真州師)は、面は深井、紅無唐織の上に薄い緑の水衣。あらかじめ大小前に置かれた小さな塚の作リ物と同系色です。そして一ノ松での一声から、舞台に進んでのカケリは緩急に富んで大きく、シテの物狂いの心情を端的に表わしているかのよう。シテの強い表現を受け止めた地謡も、緩急や声量にダイナミズムが感じられて、メリハリがかなり効いていました。名にし負はばいざ言問はん都鳥 我が思ふ人はありやなしやとと在原業平の歌を、自らの子を思う気持ちに重ねて感に堪えない様子で謡うシテは、舞台を廻りながら見所を見渡し(=我が子の姿を探し)て、ふと目に止まった白い鳥についてワキと都鳥の問答。しかし、その都鳥に見立てた沖の鴎に我が子はありやなしやと笹を振りながら目付柱に迫って問うても答が返るはずもなく、あきらかに落胆した様子のシテは一ノ松へ位置を移して思へば限りなく、遠くも来ぬるものかなと遠い目……ここで正気に戻って舞台に戻り、ワキに向かって下居合掌して乗船を求めました。

船中でのワキツレからの問いに答えてのワキの語リ、これがまた見事でした。一年前に人買いにさらわれてきた少年がここで力尽き、母を思いながら亡くなった次第を語ったのですが、ワキの口調は思い入れを増し、ことになうなんぼう世には、不得心なる者の候ひけるぞ、今を限りと見えたる幼き人をば捨ておき、商人は奥へ下つて候と語るところではワキツレの背中を見つめて語りかけます。さらに少年・梅若丸が返す返すも母上こそ恋しいと今際の際に語った後念仏四五遍唱へて事切れたくだりを語るところでは声を震わせ、ついに語リを終えたときにはシテはシオリ(これは演技)、さらにはワキツレも目をしばたたかせて(これはリアル)いました。こうして我が子の死を知ったシテは、ワキに子の年や名をひとつひとつ尋ね、ついになう親類とても親とても、尋ねぬこそ理なれ、その幼き者こそこの物狂が尋ぬる子にてはさむらへとよ、なうこれは夢かやあら浅ましや候と絶望の淵に沈みますが、この二度の「なう」はいずれも心の底からの絶唱、そして「これは夢かや」で笠と笹を投げ捨てる激情を示します。

ワキに連れられて、我が子が葬られた塚の前に立ったシテ。地謡によるさりとては人々この土をでワキへ手を伸ばし、かへして今一度と土を返す所作をした後うしろへ崩れ落ちこの世の姿を母に見せさせ給へやとモロジオリ。そのまま呆然としているところへワキが鉦を渡して供養を勧め、ようやくシテも心を落ち着けてワキと共に南無阿弥陀仏の名号を唱えます。ところが、名にし負はば都鳥も音を添えてとシテが求めると地謡の南無阿弥陀仏の声の上に子方の声が重なり始め、シテはしばらくこれに聞き入っていましたが、我慢できなくなってワキになうなう今の念仏の中に、正しく我が子の声の聞こえ候。ワキがシテに一人で念仏を唱え続けるよう勧めて、ここでワキの姿は景色の中に溶け込んでゆき、舞台上はシテの心象世界へ。続くシテの今ひと声聞かまほしけれはもはやうろたえきっての独り言ですが、遂に我が子の姿が塚から姿を表わすと、鉦を取り落として立ち上がり、子方に駆け寄りました。今回の子方は腕を広げることはせず、シテの手を右左とかいくぐって反対側の常座に立つと、不思議なものを見るような目でシテを遠く見上げます。目の前から我が子の姿が消えて呆然とシオるシテは、再び我が子の姿を見つけて二三歩後ずさると、絶望的に両手を広げて再び駆け寄りましたが、またしても子方にかわされて常座へ倒れ込むように安座。そのまま子方が塚の中へと消えて行くと、立ち上がって東雲の空を見やり、塚に両手をかけて我が子の姿が幻に過ぎなかったことを確認し、常座に座り込んでモロジオリとなってそのまま終曲となり、謡が切れた後に笛だけが蕭条と寂しい旋律を吹いて、深い余韻の残る留となりました。

配役

狂言(大蔵流)「花争」 シテ・太郎冠者 大藏吉次郎
アド・主 善竹十郎
 
能(観世流)「隅田川」 シテ・梅若丸の母 浅見真州
子方・梅若丸 長山凛三
ワキ・渡守 宝生閑
ワキツレ・旅人 宝生欣哉
主後見 浅井文義
地頭 坂井音重
松田弘之
小鼓 曽和正博
大鼓 柿原崇志

あらすじ

花争

満開の桜を愛でようと主人が太郎冠者を呼び出す。「花見」を「鼻を見る」と勘違いした太郎冠者と主との間で、桜花を「花」と呼ぶか「桜」と呼ぶか、古歌を引き合いに出して争うことになる。ついに謡まで出した太郎冠者を、主も謡を引いて見せた上で叱りつける。

隅田川

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