翁 / 道成寺

2011/04/02

国立能楽堂で「浅見真州の会」。古稀記念と銘打って、浅見真州師が「翁」と「道成寺」の二番を舞う堂々の番組です。東日本大震災の後にいくつもの能公演が中止され、この公演についても心配していたのですが、浅見真州師には期するところがあったのでしょう。予定通りの上演ということになりました。そして、会場で配布されたパンフレットに挟み込まれた紙片には、「見所一隅の声」として次の文章が記されていました。

皆で国土安穏を祈りましょう。

〔中略〕

本日の浅見真州の会では、「道成寺」に先立って「翁」が舞われます。ご承知のとおり、「翁」は能の原初的な形態を今に伝え、能にして能にあらずといわれています。そこはまさに、天下泰平と国土安穏とを至心に祈る、厳粛な《祈りの空間》です。
本日の「翁」は、激震後おそらく最初の上演かと思います。浅見真州師の翁とともに、私たち見所もまた、国土安穏の祈りを捧げるべく今日のお舞台に向き合いたいと存じます。

しずしずと現れる演者一同、息を呑んで見守る見所。「翁」を観るのはこれが三度目ですが、やはり震災のことが背景にあり、いつにも増してぴんと張りつめた空気です。シテの浅見真州師が正先で拝礼したとき、見所の誰もが師と同様に「天下泰平、国土安穏」を願ったことでしょう。「とうとうたらりたらりら」に始まる呪文のごとき詞章も朗々と響き渡り、能楽堂の空間に一体感が充満します。

気迫のこもった千歳之舞の間に白式尉の面を掛けたシテ。異形の姿となったその翁の姿はしかし、初めて観た昨年の式能での金春流の妖気すら感じさせるそれとは異なって神々しさに満ちており、「天下泰平、国土安穏、今日の御祈禱なり」と高らかに宣してからひとしきり舞った後に左袖を返してすっくと立った姿の美しさには、思わず引き込まれました。

野村萬師の三番叟もまた、素晴らしいものでした。81歳とは信じがたいほどみなぎる気迫を身体中から放射しながら、力強い足拍子を聞かせる揉之段、そして荒くなった息を驚くほど短時間で静めて黒式尉の姿で舞った鈴之段。そのどちらにも、美しくも荒々しくもある日本の風土の豊かさに対する感謝と崇敬の気持ちがこめられていることがひしひしと伝わってきました。

休憩の後、仕舞三番(忠度 / 釆女 / 野守)、一調一番(勧進帳)。片山九郎衛門師はきりっと引き締まった舞、観世清和師は静謐にして優美、観世淳夫くんは……がんばろう!そして浅井文義師のビブラートがかかった劇的な謡で引き締め直して、休憩をはさんで「道成寺」へ。

道成寺

囃子方、地謡が舞台上に揃うと、最初に後見四人が鐘を吊るした太竹を高く掲げ爪先立って入ってきました。毎度気になる鐘の吊り上げはとてもスムーズに進み、舞台の中空に意思があるものの如く鐘が揺れながらワキの入場を待ちます。

ワキ/住僧(宝生欣哉師)の〈名ノリ〉、アイ/能力による女人禁制の触れの後、大鼓と小鼓が静かに掛け合い、これに絡む笛が異界の者の接近する気配を示しますが、ここが長い!シテが出てくるまでこんなに長かったかな、と思う頃に大鼓の音や掛け声が高く大きなものに変わり、幕が上がります。それでもしばらく前シテ/白拍子(浅見真州師)は幕の内にじっと佇んだまま(ここで特殊な足遣いをしているそうですが脇正面からは見えません)でしたが、やがてついと静かに歩みを進めて橋掛リに立ちました。シテの出立は紅入唐織ですが、常の姿である壺折ではなく着流であったような……(記憶違いかもしれません)。ともあれ、一ノ松まで歩みを進めたシテが見所を見込んだときに、大鼓・亀井忠雄師の後ろに控えていた広忠氏が忠雄師の背に手を伸ばして合図。シテは見所に背を見せて〈次第〉作りし罪も消えぬべし、鐘の供養に参らん。観世銕之丞師が率いる地謡陣の地を這うような地取に続いてシテはもう一度〈次第〉を謡うと〈サシ〉、そして道行。急ぐ心かまだ暮れぬと謡ったところでシテははっと沈み込むと二ノ松まで素早く戻り躊躇の態を示しましたが、それでもついに日高(←まだ暮れない=日が高い)の寺に到着しました。

シテの前に立ちはだかった能力とのやりとりは、ずいぶんあっさりと能力が「〔乱拍子〕など踏んで舞いを舞うておん見せ候へ」と譲歩し、シテは「あ〜らう〜れ〜し〜や」と震える低音で喜びを示しますが、これを聞くと能力は既にシテの妖力にとりこまれてしまっているのではないかと思えてきます。静かに大鼓が鳴らされ、シテは後見座で物着、能力は狂言座へ。そしてこの間に鐘は鐘後見(主・大槻文藏師)の手で高々と引き上げられました。これはたぶん、シテの目線に沿った鐘の位置の変化を示す演出なのでしょう。遠くから眺める鐘は水平方向に見えていますが、いま鐘の間近で舞いを舞おうとしているシテの目には、鐘は見上げる角度に位置しているはずです。

金色の烏帽子を着けて立ち、向き直ったシテは橋掛リへ進み、一ノ松から高欄に寄って鐘を執心をもって見上げると、大鼓の激しい一調と共に一気に脇正へ走り入ります。そして〈次第〉花の外には松ばかり、暮れ初めて鐘や響くらんの地取がクレッシェンドに、かつスピードを上げて高揚した次の瞬間、〔乱拍子〕の静寂。

パンフレットに浅見真州師が書いているところによれば、この日の「道成寺」ではその先行曲である「鐘巻」の要素(より具体的な物語性?)を反映したいという意図があったようです。それがこの〔乱拍子〕にも反映していたのかどうか定かではありませんが、これまでに見た「道成寺」と違うように思えた点は、たとえば足拍子。後ろに蹴り上げてすたんと床を打つ足拍子ではなく、前に膝を上げて真下へ落とす力強い足拍子が含まれていました。また、なまめかしく仰向けに反り返ってから急に前へ沈み込み足拍子を踏む型も、これまでに経験のないもの。おそらくは蛇性の表現でありましょう。さらにシテの動線である鱗型は小さく、脇正をわずかに進んだところから舞台中央方向へ方向転換し、正中の近くでシテ柱方向に向き直ります。ここで鐘を見上げながらさらに歩みを進め、先ほどの三角形のさらに内側で正面方向に三たび向きを変えました。その動線は、鱗型というより、まるで鐘を巻き締め上げる蛇の姿を表わしているかのよう。

地謡の姿勢が変わって緊張感が漲り、山寺のやからついに〔急ノ舞〕となってシテは全速力で舞台上を舞い回りましたが、その中にもぐっとかがみ込む型が何度か。シテと地謡の掛合いが始まり、鐘後見たちも慌ただしく鐘を吊るす綱をほどき、舞台上の緊張が最高潮に達する中で、シテは一瞬の早業で頭上に戴いた烏帽子をはっしと打ち落とすと、鐘の下に入りました。その刹那、能楽堂を下から突き上げる地震!えっ、この揺れは本物?と思ううちにもシテは足拍子を踏み、次の瞬間に跳び上がったシテの姿は同時に上から落ちて来た鐘の中へ吸い込まれるように消えました。凄い!地震をものともしない完璧な鐘入リです。

鐘が落ちる轟音に眠りを破られた二人の能力のやりとりでは、ひとりがその音を地震かと思ったと言うので見所にややひきつった笑いが広がりました。能力のコミカルな押し付け合いと報告、ワキの物語、そして〔祈リ〕。鐘の中から鐃鉢のジャンジャンと割れた音が鳴り響き、再び吊り上げられた鐘の下に現れた後シテ/蛇体は般若面、鱗摺箔に緋の長袴。白練を腰に巻き付けて立ち上がり、ワキたちとの闘争となりました。激しいバトルの表現、白練を捨て(鱗落とし)ていったん幕の前まで下がってから逆襲に転じ、シテ柱をはさんで対峙した後、柱に背を預けて舞台へと回り込む柱巻キ。生々しい苦悶と執心の表現に見所は息を呑むばかりでしたが、ついに鐘の下に膝を突いたシテは数珠に追われて橋掛リに逃れると、一ノ松から鐘を再度見やり、二ノ松で座り込んだところが日高の川波深渕に飛んでぞ入りにける。普通なら幕の内へと飛び込むところを橋掛リの途中に持ってきて、まさかシテが橋掛リで留めるのか?と驚きましたが、シテはその後に鐘への未練を湛えてシオリつつ幕の内に消え、そのシテを見送ったワキが常座で留めました。

浅見真州師の「道成寺」は、この後シテの表現にかなりのウェイトがあったように感じました。後シテの心の内の哀しみにこれほど感情移入させられたのは、今回が初めてです。今まではスペクタクルとしての「鐘入リ」がクライマックスで、後場は(言葉を選ばずに書けば)付け足しのような気持ちがどこかにあったのですが、この日ばかりは最後まで気を抜くことができませんでした。それは幾分かは私自身の見方が変わってきたためであるかもしれませんが、やはり、浅見真州師の「道成寺」ならではのマジックであったように思えます。

配役

浅見真州
三番叟 野村萬
千才 浅見慈一
面箱 野村虎之介
主後見 木月孚行
地頭 山本順之
一噌仙幸
頭取 大倉源次郎
脇鼓 田邊恭資
脇鼓 古賀裕己
太鼓 柿原崇志
仕舞 忠度 片山九郎衛門
釆女 観世清和
野守 観世淳夫
一調 勧進帳 浅井文義
小鼓 幸清次郎
道成寺 前シテ/白拍子 浅見真州
後シテ/蛇体
ワキ/住僧 宝生欣哉
ワキツレ/従僧 大日方寛
ワキツレ/従僧 則久英志
アイ/能力 三宅右近
アイ/能力 野村万蔵
杉市和
小鼓 林吉兵衛
大鼓 亀井忠雄
太鼓 観世元伯
主後見 野村四郎
地頭 観世銕之丞
主鐘後見 大槻文藏

あらすじ

道成寺

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