徐九経昇官記(湖北省京劇院)

2009/09/26

今年、日中文化協定締結30周年及び中華人民共和国建国60周年を記念して「TOKYO京劇フェスティバル2009」が開催されることになりました。なんとびっくり、一週間ほどの期間に以下の四つの京劇団が、おなじみ東京芸術劇場(池袋)を舞台にして得意の演目を競い合うというものです。

  • 湖北省京劇院「徐九経昇官記」
  • 中国国家京劇院「三打祝家荘」
  • 北京京劇院「呂布と貂蝉」
  • 上海京劇院「烏龍院」

うーん、これは目移りしそう。どれにしようか……と考えても埒が明かないので、思い切って全部観ることにしました。

まず最初は、湖北省京劇院の「徐九経昇官記」。湖北省京劇院は2000年に「孫悟空(=閙天宮)」を観ていますが、この「徐九経昇官記」はもちろん西遊記ものではなく、優れた丑である朱世慧を主人公とした喜劇。1980年に初演され、以来600回以上の上演回数を誇る人気演目だそうです。文丑が主役の京劇というのは、そういえば珍しいかも。そして朱世慧は現在、湖北省京劇院の院長でもあります。この演目はあまりに面白かったので、ストーリーを詳しく追いながら感想を書いてみます。

幕開きは、尤家の飾り立てられた広間。小間使いたちの華やかな舞に続いて尤金と李倩娘とが現れるのですが、李倩娘は許嫁が戦死したと聞かされていて白い喪服姿。おれがいるじゃないかといやらしく迫る尤金を平手打ちして自害しようとしたところへ、許嫁の劉鈺が登場して李倩娘を略奪していくのですが、ここで劉鈺の兵士達が押し入る場面が派手な立ち回りになっていて、京劇のアクロバティックな面(打)が活かされています。劉鈺役の程和平自身が孫悟空役者ですが、まあ彼自身が飛んだり跳ねたりするわけではありません。

この行為に劉鈺の義父で元帥の劉文秉は怒って劉鈺を斬ろうとするのですが、ここで李倩娘が劉鈺をかばいつつ歌う唱が素晴らしい高音の伸びで、客席の喝采を集めました。実はこの日、李倩娘役は予定されていた張慧芳が病気入院のために万暁慧に変更になった旨の案内が出ていたのですが、声もいいし目もとぱっちりの美人だしで問題なし。そしてこの唱を受けた劉文秉役の江峰の唱もまた、リズミカルで力のこもったものでした。

左右から中幕が引かれて、その前に役人甲・乙が登場。一人は白髪白髭、もう一人は目元に朱を入れたフランケンシュタイン系(?)ですが、小物の役人という脇役ながらこの二人のキャラが立っていて、大理寺の長官や次官が災いを恐れて仮病を使うために誰も訴訟を裁ける者がいないことを並肩王の前に跪いて奏上するのですが、怯えてしまっているために両手をぶるぶる震わせている様子がなんとも笑えます。この二人は、この後も随所で見事な脇役振りを披露しました。さて、怒りまくる並肩王をなだめる尤妃のアドバイスがきっかけで、かつて科挙に首席合格しながら容貌の醜さを劉文秉に疎まれて地方に飛ばされた過去がある徐九経が大理寺の長官に抜擢されることになります。

場面変わって玉田県、都へ召還する詔を受けて首曲がりの樹の前に登場した徐九経は顔の真ん中を白く塗った丑の出で立ちで表情豊か。その従者の徐茗は、これまたにこやかで元気いっぱいの女性が演じています。この二人の掛け合いのコミカルな唱も面白く、この辺りから、どうやらこの演目はミュージカルのようにふんだんに歌われる唱を楽しむつくりになっているらしいと気付きます。

例の役人甲・乙が地方からやってきた徐九経を見くびっていたのに、簡単にやりこめられて徐九経に心酔するようになる一幕を入れて、帽子を横にかぶって見得を切った(かっこいいけどおかしい)徐九経が劉文秉のもとへ乗り込む場面へ。ここでも将兵達のゴージャスな整列があって、徐九経と劉文秉の丁々発止のやりとりは徐九経の意外な辣腕ぶりを示します。ところが劉文秉もさるもの、李倩娘を徐九経に預けるものの、翌日には審議を行い、しかもその結果李倩娘を返さぬときは……と武人の本性を示します。追い出されて呆然とする徐九経を支えるのは、徐茗と役人甲・乙の三人組。この三人がこの芝居全体の中で息抜きの役目を果たしていて、しかもそれぞれに個性があり好感が持てました。

今度は尤家。先ほどの劉家では武将達に威嚇され、椅子を反対向きに置かれるなど一触即発の状態だったのに、こちらでは李倩娘を取り戻した徐九経を下にも置かぬもてなしで、きれいな女官たちが寄ってたかってもてなすものだから徐九経は目をぱちくり。この対比がまた、笑えます。また、この場では尤妃役の李蘭萍の悪女でありながら明るく気品のある唱とともに、その弟・尤金役の呉長福の裏声を使った非常に高い男声の唱が聞かれました。これが小生独特の歌唱法なのですが、なんというか……凄いインパクト。

中幕の前で、玉田県で徐九経と懇意にしていた人の良い酒屋の主・李小二が仕入れのために都へやってきて、大理寺に入ろうとするのですが、役人甲・乙に咎められます。ここもフランケンのキャラ全開で、長官様は忙しいから会わないぞ!と威張ったかと思うと、李小二があらかじめ徐九経に言われていた通りに自分は徐九経の親戚だというと急に態度を変えて媚びる姿勢。そこへ来合わせた徐茗が徐九経には親戚なんかいないと言うので顔色を変えてなぐりかかろうとするところへ、李小二に気付いた徐茗があわてて一人いる!と叫んだ途端に拳を振り上げた態勢のままで作り笑い、といった具合で、非常にベタながら絶妙の間合のギャグが展開します。

さてその日の夜、琴の音が穏やかに流れる中、赤い礼服を着てうきうきの徐九経は李倩娘を執務室に呼んで事前の陳述をとるのですが、そこで実は李倩娘と尤金の婚姻証書は偽物で、劉鈺と李倩娘は婚約していたこと、その証人こそ、玉田県の酒屋で折しも徐九経のもとに逗留している李小二であることが明らかになり、尤金勝訴の青写真を描いていた徐九経は真っ青。これは礼服など着られそうにない、とおろおろする唱に対してコーラス(伴唱)が付くのがユニーク。そういえばこの演目に限っては、楽隊の中にシンセサイザーが含まれていて、かなり進取の気性に富んだ京劇団らしいことが窺えます。それはさておき、ここへやってきたのが並肩王。徐九経に天子から預かった尚方剣を渡し、翌日の審議を自分も見守るぞと脅しをかけて帰っていきました。正義を貫けば劉鈺の勝訴、しかしそれでは並肩王が黙ってはいない、と板挟みになった徐九経がここで「官吏などにはなるものじゃない」とスポットライトを浴びつつ歌うのが、管(理)と官(吏)を重ねて音の面白さを畳み掛ける唱。最後は官、官、官官官官官官官!と早口言葉のようになって宮仕えの辛さを表情豊かに訴えるコミカルな唱に拍手喝采。そこに並肩王の部下の宦官(陶器のような茶色の顔に隈取りをして、これもかなりインパクトのある顔!)がやってきて、たった一滴ですぐに昇天できる劇薬「仙鶴頂上紅」を届けます。もうダメだ、自分が死んだら甕に酒を満たして遺体をその中に入れ、玉田県の首曲がりの樹の下に埋めてくれと嘆いた徐九経ですが、ふと妙案を思い付きます。

いよいよ審理開始。肩をいからせてやってきた並肩王と劉文秉に一度は長官席を奪われたものの、酒の力と尚方剣の威光で二人を退けると、李倩娘を呼び出して告げた判決は、両家に嫁いで奇数月は劉鈺、偶数月は尤金にそれぞれ仕えるようにという訳のわからないもの。これに怒った李倩娘の唱もまた、強く伸びやかなものでしたが、操を通すためにと毒を仰いでしまいます。残された劉鈺は二万両の銀をもって正妻として李倩娘を葬りたいと言いますが、かたや尤金は死んだ女には用はないとばかりに自分は無関係、なぜなら婚姻証書は偽物だからと口を滑らせた上に、その旨を認めた供述書に署名までしてしまいます。これすなわち徐九経の計略で、尤金は四十叩きの刑を宣告され、皇族だからとそれに異議を唱えたことでさらに四十増しの八十叩きの刑となって、引っ立てられていきました。一方、悲嘆に暮れる劉鈺を前に李倩娘に清水を吹きかけると、李倩娘は生き返ります。毒だと思ったのはしびれ薬の酒で、こうして劉鈺と李倩娘が徐九経に感謝しようとしたときには、徐九経は衣冠を捨てて玉田県に戻っていました。最後は、徐九経が酒屋の出で立ちになり、首曲がりの樹の前で徐茗・李小二と共に見得を切って、幕となりました。

とにかくよくできた芝居で、ストーリーは起伏に富みながらも一貫していて弛むところがないし、徐九経をはじめ全ての役がキャラが立っていて無駄がなく、さらにそれぞれの役者が実に巧みな唱と念を聞かせてくれて、見応え聴き応え十分。京劇というと孫悟空的な立ち回りを期待する向きが多いと思いますが、この演目はとても洗練された、ある意味現代的な作品で、それでいて客席も存分に楽しんでいる様子が窺えました。600回もの上演回数を重ねているというのも、なるほど頷けるところです。

配役

徐九経 朱世慧
李倩娘 万暁慧
並肩王 王小蝉
劉文秉 江峰
劉鈺 程和平
尤妃 李蘭萍
尤金 呉長福
李小二 尹章旭

あらすじ

天子の伯父・並肩王の義弟・尤金は李倩娘との婚礼をあげようとしていたが、そこへ戦死したとされていた許嫁の劉鈺が闖入して、李倩娘を奪い去る。尤金と劉鈺は互いに相手が妻を奪ったと大理寺(裁判所)に訴えるが、皇族と軍人の争いにあえて関わろうとする者はいない。そこで並肩王は、玉田県の県令・徐九経を大理寺の長官として呼び戻すことにする。徐九経は科挙を首席合格した秀才だが、かつて劉鈺の養父である劉文秉に容貌が醜いことを指摘され、左遷されていた。着任早々、徐九経は劉文秉の屋敷に乗り込んで李倩娘を取り戻すが、李倩娘の話を聞いてみると、尤金の婚姻証書は偽物で、劉鈺との婚約の証人もいるという。その証人とは、玉田県で徐九経が懇意にしていた酒屋の主・李小二で、折よく都に酒の仕入れに来ていたのだった。翌日、大理寺に集まった一同の前で、徐九経は両家を怒らせる判決を下し、絶望した李倩娘は毒を仰ぐ。すると、葬儀を自分の手で行いたいという劉鈺とは対照的に、尤金は婚姻証書は偽物だから葬儀費用を出す必要はないと言い出す。ところが、李倩娘が飲んだ毒は実はしびれ薬。息を吹き返した李倩娘と劉鈺とは徐九経に感謝するが、徐九経は衣冠を脱いで大理寺を去り、玉田県に戻って酒を売って暮らす道を選ぶ。