塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

アンドリュー・ワイエス 創造への道程

2008/11/08

Bunkamuraザ・ミュージアム(渋谷)で「アンドリュー・ワイエス 創造への道程」。ワイエスは私の大好きな画家で、その乾いた、無常観の漂う写実表現、とりわけテンペラ画法で細密に描かれた草原の描写などは、それがどこまでもアメリカの原風景であっても、どこか日本人にも懐かしさを感じさせて引き込まれます。

水彩画家として出発したワイエスは、制作にあたって鉛筆などでスケッチを繰り返し、その後に水彩、ドライブラッシュ、そして最後にテンペラ作品に取り掛かるという制作スタイルをもっています。そこで本展では、テンペラ作品とその準備のために制作された素描や水彩を比較しながら、画家の関心の変化を辿って行くという展示意図が冒頭に示されます。ところが、「準備のため」の素描や水彩と侮っていると、大変な目に遭うことになります。よく素描によって水増しされた展示というのがありますが、このワイエスの展示に限ってはそうした希釈がまったくなされておらず、水彩画とテンペラ画、習作と完成作とが同等の価値を有していることに驚かされます。

たとえば最初の方に置かれたいくつかの《自画像》の習作は、その無駄のない削ぎ落とされた表現がかえって対象の本質をつかみ出しているようですし、《表戸の階段に座るアルヴァロ》の定規で引かれたような窓枠の直線にかかるにじみやぼかしの玄妙さ、《カモメの案山子》の荒々しいタッチなどは、それ自体が素晴らしい完成度を示しています。そして水彩画とテンペラ画の鮮やかな対比が見られるのが、下のフライヤー右上の《幻影》。普段使われていない部屋の扉を開けた途端、そこにあった鏡に映し出された自分の姿に驚かされた画家の感情の起伏が、右の水彩画には暗い、おどろおどろしい色調と水彩のにじみによってとらえられていますが、左の完成作ではそうした内面の感情は鎮静化し、白く溶け込むような光の中に幻想的な世界が現出しています。

また、習作から完成作へと移行する過程で絵の主題が移り変わるさまが見られるのも興味深いところ。たとえば下のフライヤー左側のタイトル《ガニング・ロックス》はメイン州のワイエスの家の沖合にある岩でできた島の名前。習作の段階では海辺の風景と、その中に背中を向ける男性ウォルター・アンダーソンとが描かれていたのに、画家の関心はやがてこの人物そのものに収斂し、最終的にはこの孤高の男性の肖像画として完成されてしまいます。

ところで、今回の展示ではワイエスが30年間にわたってモチーフとし続けたメイン州の旧館オルソン・ハウス(と、そこに暮らし、やがて亡くなっていったアンナ・クリスティーナとアルヴァロの姉弟)にまつわる絵が多数見られますが、四角い画面の上に人工的な直線で構成される館を配するための絶妙のフレーミングに、何度もはっとさせられます。《煮炊き用薪ストーブ》の安定感と《続き部屋》の遠近感は、そこにクリスティーナがオブジェとして加わることでかろうじて温もりを感じさせますが、《オルソンの家》《さらされた場所(習作)》や《オルソン家の終焉(同)》の大胆な構図は、ついに主を失い滅びゆくことになるオルソン・ハウス自身を主人公として見る者の胸を衝きます。

一方、ワイエスが愛したもう一つの地、ペンシルヴェニア州のカーナー農場の入口の松並木を描いた《松ぼっくり男爵》にも一抹の寂寥感は漂いますが、こちらではむしろ大地の豊かさの強調とユーモアのようなものが感じられます。そして、厳しい硬質の描写が異色の《火打ち石》とともに、今回の展示中で私が最も心ひかれた《雪まじりの風》の、画面上4分の1を占めるどんよりと暗い雪空、彼方の中央に白く雪をまとった丘、前景の粉雪をかすかにまぶされた緩やかな草斜面の胸を締め付けるような寂しさにもかかわらず、右下に門柱のように轍をはさんで立つ2本の柱のうちの1本をどこからともなく照らす日の光に、画家がいかなる対象に対しても向けてきただろう温かい眼差しが感じられて、ほっとします。

展示期間は、12月23日まで。いまだに制作を続けているというワイエス本人から日本のファンへのメッセージや、制作の舞台となった二つの土地を紹介するビデオも上映されており、あらゆる意味で見応え十分。実は今回展示されている主要作品の多くは、1995年に同じこのBunkamuraザ・ミュージアムで開催された「アンドリュー・ワイエス展」の出品作と重なっている(ことを当時購入した図録で確認できた)のですが、それでも13年ぶりに出会うワイエスは、初めて彼の絵に接したときと同じ新鮮な感動をもたらしてくれました。

おなじみ「ドゥ マゴ パリ」の記念メニューは、「ひな鶏のロースト ブルーベリーソースで」。オルソン・ハウスのアルヴァロがブルーベリー畑からの収穫を生活の糧としていたことに由来するものですが、絵を見たのが夕方近かったので、今回はパス。それでも会期中に、もう一つのメニュー「ケーキセット ブルーベリーパイ」くらいは試してみようかな。