薩摩守 / 柏崎

2008/10/17

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の定例公演で、狂言「薩摩守」と能「柏崎」。

薩摩守

旅の僧は、世間知らずで茶を飲むにも船に乗るにもお金が必要であることを知りません。出家ほど心安いものはござらん、なにしろ僧を皆が大事にしてくれるのであなたこなたへやすやすと旅ができるから、などとのほほんとしていますから、立ち寄った茶屋でうまいうまいと茶を二杯も飲み、立ち去ろうとするところで茶がわり(茶代)を請求されて目を白黒。二杯だから二銭ですが二銭が一銭でも持ちません、となってしまいます。呆れた茶屋の主人がどこへ行こうとするのかと問うのに住吉の天王寺へ参詣するつもりだと答えると、途中にある神崎の渡では必ず船賃をとられるがどうするのかと聞きました。とても徒歩で渡れるような場所ではないので、気の毒に思った主人はこの天然系の憎めない僧に茶代を許した上に、神崎の渡守は秀句(洒落)好きなので、船に乗ったら船賃は薩摩守と言い、心はと問われたら忠度(ただのり)と答えればただで渡してくれるだろうと教えてやります。

親切な茶屋の主人に感謝しながら旅を続ける僧は、神崎の渡で対岸に渡守を見つけほ〜い、ほ〜い!と呼びますが、渡守は呼んでいるのがただ一人と知ってそっぽを向きます。実は、この川は危ないので一人二人では渡さない定めになっているのですが、そうと知った僧が他にもたくさんいると嘘をつくのにだまされて、渡守は船を漕ぎ寄せて僧を船に乗せました。この船に乗るときの揺れを二人の動きで巧みに見せるところは、京劇の「秋江」を連想させるものです。さて、たくさんいるという同行者はどこにいるのだ?と聴かれた僧が2、三日後にと答えると、渡し守は竿をばたん!怒って僧を船から下ろしてしまいましたが、僧は頼み込んでなんとか乗せてもらい、船頭が後ろに立ち、僧が前に座って左右へゆらゆら揺られながら船は進みます。船賃は十町だが?には十町が二十町でもと強気ながら、向こう岸へ着いてから出すと言った途端に船頭に途中の島へ置き去りにするぞとおどされて、船賃な薩摩守。おっ、これは秀句だな?自分が秀句好きなのをどうして知った?と喜ぶ渡守に、神崎の船頭の秀句好きは唐土・天竺・我が朝の三国にかくれない、とおだてまくる僧。出家の身で嘘をついたり人をおだてたり、なんともいい加減なところが笑えます。さて、渡守が薩摩守、薩摩守、はーっはっはと大喜びしながらついに対岸に着いたところで、僧はさっさと立ち去ろうとするので渡守はあわてて引き止め、今の「心」を言えと迫りました。「心」とはオチのことですが、実はオチを忘れてしまった僧はあまり面白うもござらんとかなんとか言い訳しようとして逃げようとします。とうとう問いつめられた僧は「のり」だけ覚えていたので青海苔の引き干しとやってしまい、とっと行かしめ!面目ござらん……

柏崎

狂女物。前場では、柏崎に住むシテのもとへ夫が鎌倉で客死し、息子の花若も父の病死を悲しんだ末出家してしまったという思いもかけない知らせがもたらされます。後場では、物狂いとなったシテが善光寺で夫の極楽往生を願って祈り、花若と再会を果たします。

調べも終わり、まったくの静寂の中をシテ/花若の母(武田志房師)がゆっくりと橋掛リを渡って、笛座前で床几にかかったところで切り裂くような強い笛の音(ヒシギ)。旅姿のワキ/小太郎(福王茂十郎師)が常座に進み〈次第〉夢路も添ひて故郷に、帰るや現なるらん。地謡がこれを低い声でなぞって(地取)から、柏崎殿が訴訟で出向いていた鎌倉で風邪で亡くなり、子息花若も遁世してしまったため形見の品々をもって故郷柏崎へ急ぐところだと語ります。碓氷峠を越えて越後に着いたワキは故郷の侘しい様子にあらいたはしやと述懐しながら角から案内を請い、シテと対面。平伏してさめざめと泣きながらシテの夫と子の悲劇を伝えるワキにシテも驚き、夫の形見を見てシオります。さらに届けられた子の文を広げて読みましたが、花若の言葉である心強くも出ずるなりさまざまの形見をご覧じては裏声に近いところまで高く、またシテ自身の書いたる文の怨めしやは声を震わせて劇的です。地謡亡からん父が名残には子ほどの形見あるべきかと怨めしく思い文を振り上げ膝を打ちシオりつつも、シテは我が子の行方安穏に守らせ給へ神仏と祈りながら、ワキと共に中入しました。

子方/花若とワキツレ/善光寺の住僧が登場し、ワキツレが名宣った上で脇座に並んで下居。〔一声〕に乗って登場したシテは竹笹の枝を右手に持ち、薄青の上衣を着て現れると一ノ松でこれなる童どもは何を笑ふぞ、なに物に狂ふがをかしいとやから乱れ心を語り、笹を打ち振りつつ鬼気迫る様子で舞台上を狂おしく動き回る〔カケリ〕。さらに地謡が国府、常磐、木島、浅野、井上と狂い乱れた姿で旅を続ける様子を謡い、シテはあるいは常座に揺れながら立ち尽くし、かつまた舞台上を落ち着かぬ風で歩き続け、ついに善光寺に辿り着いて我が狂乱はさて措きぬ。死して別れし夫を導きおはしませと、正先に笹を置き、弥陀如来に祈ります。このときワキツレがついと立って御堂の内陣へは入ってはならないと制止すると、シテは極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽とこそ見えたれ以下圧倒的な教養で反論し、地謡も頼もしや、頼もしやと応援。その地謡が光明遍照十方の、誓ひぞ著きこの寺のと善光寺を讃えるのに合わせてシテが舞い、正中に正座したところで後見が夫の形見の直垂をシテの前に置きました。形見こそ今は徒なれこれなくは 忘るる隙もあらましものをと、これは「松風」にも出てきた歌を引いて物着。亡き夫の直垂と烏帽子を身に着けて、あらいとほしやこの烏帽子直垂の主は弓にも歌にもすぐれ、舞う立ち姿も美しかったと偲びます。そのノロケが強いだけに、シテの喪失感の大きさもまた伝わってくる場面です。そしてここから〈クリ・サシ・クセ〉と続き、いったんは浮世の無常を嘆きつつも、夫との極楽浄土での再会を一つ浄土の縁となし望みを叶へ給ふべしと舞うところではぐっと高揚して、引き込まれていきます。

〈クセ〉を終えてシテが常座に膝を着き、座したところでワキツレが子方(ここまで長時間、下居の姿勢でじっと我慢していました)の背を支えて立たせ、これこそおん子花若とシテに引き合わせます。シテは袖を後ろへ振り上げ、脇座に駆け寄って子方に左手を掛け、右手の扇ではさむように抱くと、橋掛リへゆっくりと送り出しました。そして、その母や子に逢ふこそ嬉しかりけれ、逢ふこそ嬉しかりけれで留拍子。

解説によればこの「柏崎」は、もとは榎並左衛門五郎という摂津の役者の作品に世阿弥が手を加えたもので、「善光寺曲舞」という独立した謡物を取り入れた点に改作の眼目があったとのこと。つまり、話の筋は子別れ・再会を軸にしながら、主題はシテによる善光寺礼賛の舞を見せる点にあるようです。よって、曲舞ではむしろ夫の極楽往生と来世での再会が強く願われ、その後に実現する子との再会がかえって唐突に感じられもします。しかし、あるいは亡からん父が名残には子ほどの形見あるべきかは一つのポイントで、極楽往生を願って一心に祈るシテの前に、夫の形見というべき花若を登場させることで、シテの願いは必ずかなうという予告がなされたのだと見ることもできるのかもしれません。

配役

狂言大蔵流 薩摩守 シテ/出家 大藏千太郎
アド/茶屋 善竹忠一郎
アド/船頭 大藏彌太郎
観世流 柏崎 シテ/花若の母 武田志房
子方/花若 藤波重紀
ワキ/小太郎 福王茂十郎
ワキツレ/善光寺の住職 福王和幸
藤田六郎兵衛
小鼓 幸正昭
大鼓 國川純
主後見 武田宗和
地頭 浅見真州

あらすじ

薩摩守

茶屋は無一文の僧に同情して、天王寺参詣のために船をただ乗りする方法を教える。その方法とは、秀句(洒落)好きの船頭に「船賃は、薩摩守」と言うこと。そのこころは忠度(ただのり)なのだが、いざ船を下りる段になって秀句の心(オチ)を忘れてしまった僧は、渡守の問いに「青海苔」と答えてしまう。

柏崎

越後の国柏崎にいる母にもたらされた、夫の病死と息子の出家の知らせ。悲しみに打ちひしがれる母は狂女となって彷徨うが、一途な祈りによって信濃の善光寺で息子と再会する。