狩野芳崖 悲母観音への軌跡

2008/09/06

長府藩御用絵師として重用され、江戸と長州を行き来しながら数々の絵を描くとともに、測量などにも腕をふるっていた狩野芳崖(1828-1888)が、廃藩置県によって禄を失い、東京に出たのは50歳のとき。同年、東京大学の哲学講師として来日したフェノロサはすぐに日本美術のとりことなり、息も絶え絶えだった日本画に西洋的な画法を取り込んで再生を図ろうとしました。このときに白羽の矢が立ったのが、伝統的な狩野派の実力者だった狩野芳崖。1883年、55歳でフェノロサに雇い入れられた狩野芳崖は狩野派の画格を保ちつつ、強すぎる輪郭線を抑え、西洋画に負けないだけの色彩表現を追求し、明暗や遠近など合理的な絵画空間を描き出すことに成功し、近代日本画の基礎を築きました。有名な《悲母観音》は、そうした狩野芳崖の絶筆であり、後に続く日本画家たちのスタートラインともなりました。

その《悲母観音》をメインに据えつつ、幼少時からの作品も網羅して狩野芳崖の画業の全体像を明らかにしようとする企画が「狩野芳崖 悲母観音への軌跡」として東京藝術大学大学美術館で開催されており、先週日曜日に引き続いてこの日も銀座線でいそいそと上野詣でに出かけました。折しも「藝祭2008」の最中で、構内はお祭りムード。美術館の入口では、こんな天狗の像が迎えてくれました。

美術館を入ってすぐのカウンターでチケット(500円也)を購入し、階段をとんとんと下りて地下一階の2室が展示会場です。

展示室1には、狩野芳崖の幼少時からの絵が順を追って展示されていますが、その最初の作品は11歳のときの《鍾馗》(1838年)。これが11歳の絵?勢いのある太い線で描かれた衣服の上にふてぶてしい顔、細筆で丹念に書き込まれた髭。絵師の家の嫡男として生まれ、小さい頃から徹底した教育を受けた成果が、早くもこのときに現れているのでしょう。隣で見ていた夫婦の会話。「11歳!」「ずいぶん老け顔ね」いや、自画像じゃないんですけど……。カラフルな《馬関真景図巻》は下関の港と後背地の様子を鳥瞰した伝統的な構図で見応えがありますが、先ほどの奥さんはここでも「フグはどこに揚がるのかしら」とずいぶん即物的です。真景、というタイトルで言えば《真景図写巻》というのがあって、これは江戸から長州へ戻る途上のスケッチなのですが、特に塩尻峠からの景色は眼下に諏訪湖、左に八ヶ岳、右に甲斐駒ケ岳、その間に富士山を遠望する写実的なパノラマで、山屋心をくすぐります。また、雪舟の影響を受けたと言われる屹立した岩の表現が伸び伸びとした紙本墨画淡彩の《山水図》は、見ているうちにふとRoger Deanのシュールで幻想的な絵を連想させます(例えば『Relayer』)。というより、Roger Deanは東洋の山水画からも着想を得ていたのかもしれません。

それはさておき、いくつかの精密な人物画で確かな腕の冴えを見せた後、《柳下鍾馗図》(1883年頃)では背景の省略に意外に大胆な筆の運びを見ることができます。縦長の画面の中央下寄りには鍾馗が剣を持って誰かを待ち伏せしており、その描き方は真に迫ったものですが、鍾馗が身を隠している柳の木はデフォルメされ、擬人化されているように枝を広げ、その上方、刷毛で掃いたように左から右へ墨がさっと引かれた上は空白のまま残されていて、その空間がこの一瞬の緊迫感を高めています。こういう空白の使い方は、あまり見たことがありません。

続いて、フェノロサと出会った後の作品が並びます。びっくりするのは《仁王捉鬼図》(1886年)のカラフルさで、赤・橙・ピンク・黄・緑・青といった原色に近い色使いが細密に描き込まれた絵を彩っています。また鬼を捉えてにやりと笑う仁王の表情や身体つきは後世のアメリカンコミックヒーローのようで、妙にバタ臭い感じ。重要文化財の《不動明王》(1887年頃)も同様で、こちらは極彩色というほどではありませんが、非常にくっきりとした線と色の鮮やかさが目を引きます。また憤怒の形相の不動明王の顔はどこかで見たことがあると思ったら、これまた後に広く知られることになる手塚治虫の漫画に登場するアセチレン・ランプです。しかし、狩野芳崖晩年の収穫はこれらの細密・カラフル系だけではありません。垂直方向に引き延ばされ、一木一草も見当たらないつるりとした山肌が日本離れしていて、まるでパタゴニアの岩峰を連想させる《山水》の平明な表現にまずは惹き付けられ、さらに《暁霧山水》(1887年)に至って、しばらく絵の前を動けなくなってしまいました。横長の画面の右下から左やや上方に向かって小川をもつ谷が続き、左中段でV字に視野が開けてその奥に水平線が見えます。海の彼方から日が昇るところで、水平線が暁の色に染まり始めており、橙や黄色のグラデーションが遠方の島のシルエットや新月に近い月を飲み込もうとしています。その光は手前の谷の中にも差し込んでいるものの、霧に遮られて曖昧な乱反射を重ねていますが、右手手前の松の木はくっきりとした姿を見せて立ち、彼方の日の出に向かって枝を差し伸べています。軸がはっきりしていて遠近感のすぐれた奥行きのある構図、くっきりした岩山と朦朧とした谷間の情景の対比、卓越した色遣い、主題の崇高さなど、どれをとっても非の打ち所がありません。今回の展覧会で、最も強く琴線に触れた絵です。そして、これが上述の《仁王捉鬼図》《不動明王》と同時期の作品とは、とても信じられません。

展示室2は、いよいよ《悲母観音》(1888年)を中心とする展示。高さ2m弱の《悲母観音》は展示室の中央のガラスケースに収められ、暗めの照明に照らされていましたが、ある人はうっとりと、ある人は呆然とケースの中の《悲母観音》を見上げ、その前をなかなか立ち去れません。もっとも場内はさほど混んでいないので、思う存分見続けることも可能です。実は、絶筆となった《悲母観音》の前に《観音》(1884年)があって、パリ日本美術縦覧会に出展されたこの作品は現在はワシントンD.C.のフリーア美術館にあり、今回の展示にはその複製が掲げられていましたが、観音が手にもつ水差しからの雫によって生命を授かる童子、という主題も構図もまったく一緒でありながら、《観音》と《悲母観音》とでは、より女性的に優しい眼差しとなった観音の慈愛に満ちた表情、観音の衣装や装身具の細密さと透明の衣の玄妙な描写、妙義山に取材した下方の峨々たる岩山、そうした全てを光で包む金泥・金砂子がもたらす神々しさなど、あらゆる点で完成度が段違いです。しかしながら、狩野芳崖はこの作品の制作途中に愛妻よしを失い、自らも病に倒れて最後の金砂子の蒔き付けを人に委ね、奉職が決まっていた東京美術学校の開校を見ることなく亡くなりました。享年61歳。