京劇西遊記-火焔山-(吉林省京劇院)

2007/07/07

東京芸術劇場(池袋)で、吉林省京劇院の「火焔山」。いわゆる孫悟空モノでは、孫悟空がまだ玄奘三蔵の供になる前の天界での大暴れを描く「鬧天宮」あたりを何度か観たことがありますが、今回は天竺への旅の途上にある玄奘三蔵以下が、行く手を阻む火焔山の炎を消せる芭蕉扇を手に入れるため、牛魔王・鉄扇公主と戦うというお話。西遊記の中でもとりわけ有名なエピソードです。

冒頭に孫悟空が火焔山の様子を探るプロローグを置いて、第一場に登場したのはおなじみ三蔵・猪八戒・沙悟浄の一行。最初の三蔵の唱が朗々として見事。続いて、あまりの暑さに沙悟浄は「異常気象では?」、猪八戒は「太陽が沈む西の国に近いから」。この後二人は喧嘩を始めますが、この辺りの短いやりとりだけで何事にもいい加減な猪八戒と慎重で理屈っぽい沙悟浄という性格の違いを見せています。

第二場、芭蕉洞の中に立ち唱を聴かせるのは紅白出場○回目の小林幸子……じゃなくて鉄扇公主(しかし似ている)。ここでは鉄扇公主と牛魔王の間の息子である紅孩児と孫悟空の因縁が回想されるのですが、舞台上手客席寄りに現在の孫悟空と鉄扇公主を置き、その舞台上を暗くして下手奥で三年前のエピソードが孫悟空の影武者も使って再現される巧みな演出でした。

第四場の、蜜蜂になって鉄扇公主の腹の中に入る場面も見どころ。鉄扇公主の部下である弼児が運ぶ茶の上ででんぐり返ると卓の向こうに隠れ、その卓の背後にあるつい立てがシースルーになってそこが鉄扇公主の腹の中に見立てられます。そして出てくるときにも、猿を模した小道具が卓や宝扇の上でくるくる回ったかと思うと本物の孫悟空が飛び出してくるという趣向です。この場面に限らず、随所に機知に富んだ演出がなされていてスピーディー。音楽も伝統楽器に加え電子楽器を導入してリズミカルに畳み掛けるなど、全体にとてもモダンです。

第五場は火焔山。赤い照明の向こうで幕がゆらゆらと揺らめき、赤布をかぶった火の精たちがニセの宝扇に煽られ暴れ回って孫悟空(影武者含む)と激しい立回りとなります。ここで、ビーズで縁取られた八芒星型の布を指先で皿回しのようにくるくる回し、さらに孫悟空めがけて手裏剣のように投げる場面が出てきましたが、この小道具はいったい何というのだろう?第六場の「赤い絨毯を敷く」ときにこれを空中に斜めに投げ上げ、ブーメランのように戻ってくるところを他の出演者に受け取らせる技なんていうのも出てきましたが、とても斬新。

第六場は、玉面公主のもとにいる牛魔王を孫悟空が訪ねる場面。この玉面公主が、いかにも愛人っぽく妖艶で媚びを含んだ笑顔でいい感じ。さらに全長10m以上もある細長い薄絹を新体操のリボンのように空中でくるくる回して踊ってみせるのですが、あの長さの布をしっかり空中に舞わせるためには相当な力が必要で、見た目以上に難しいはずです。また、花臉の牛魔王は分厚い衣裳に翎子をひらひらさせ厚底靴を履いていますが、孫悟空と椅子を使った絡みがあってこれまた意外に身が軽いのに驚きます。その牛魔王が孫悟空を追って本宅へ向かうときに、愛人の玉面公主が行ったきりはいやよ。牛魔王はすぐ戻ってくるよ。……なんだか妙にリアルで笑えます。

第七場は、鉄扇公主が夫の帰りを知りいそいそと準備をする場面から。考えてみれば鉄扇公主は孫悟空のせいで長く子に会えず、夫は愛人宅に入り浸り、羅刹女と言えどもかわいそうな人(?)なのです。そして、鉄扇公主の召使いでもある弼児・輔児の二人が帰宅した牛魔王(実は孫悟空)と鉄扇公主の間を取り持とうとする甲斐甲斐しさ。このように、主要登場人物の一人一人が単純ではない性格づけをなされていて、観ている方もそれぞれに感情移入することができるあたり、脚本が実によく練られています。一方、牛魔王に化けた孫悟空が宝扇を手に入れて正体をあらわす瞬間のギミック(変臉)も面白いものでした。帥盔の下に臉譜の顔。その顔がミッション・インポッシブルみたいに薄い作り物で、一瞬で帥盔の中に収納され孫悟空の顔が現れる仕掛け。実によくできています。

第九場はいよいよ最後の立回り。ここまでも随所にアクロバティックな回転やジャンプが披露されていましたが、この場では猪八戒のシュールな(しかし意外に器用な)立回りの後に鉄扇公主の派手な打出手が延々と続きます。敵が投げつける槍を、足を使って前へ、横へ、あるいは頭越しに、床で回転しながら、さらに時間差で四方へ。そして極めつけは両手の短槍と両足を使って同時に四方へ打ち返しまし、その見事な技の冴えに客席からも感嘆の声が上がりました。しかし、孫悟空に倒された牛魔王をかばって「命だけは助けて」と懇願する鉄扇公主の姿は、それ以上に感動的です。ここに南海菩薩が割って入り、悟りを開いた紅孩児を引き合わせて和解。めでたしめでたし。

日本で京劇というとどうしても立回りが派手でわかりやすい孫悟空モノに片寄りがちで、今回もそうした手合いなのかなと思っていたのですが、実際に観てみれば上述のように深みのある人物造型が面白く、スピーディーな演出と見応えのある内容でした。ただ、多彩な大道具、洗練されたライティングやスモークの多用、電子楽器も使った現代的な音楽、そして役者の胸元に見え隠れするピンマイクといったモダンな道具立ては、あるいは好き嫌いが出るかもしれません。しかし、カーテンコールで孫悟空役の董宏利が「手裏剣ハンカチ」三枚を客席に投げ入れてくれて、とにもかくにも観客は大喜び。そうしたサービス精神も含めて、洗練された楽しいエンターテインメントでした。

なお、火焔山は天山山脈の南麓に5〜7世紀に栄えた高昌国(現トルファン付近)の北に実際にあり、極端な乾燥気候で赤茶けた山肌が陽炎に揺れると本当に燃え上がるように見えるのだとか。玄奘三蔵は行き(630年頃)に立ち寄った高昌国で仏教に帰依していた国王の手厚いもてなしを受けたものの、帰途高昌国に立ち寄ろうとしたとき(643年頃)には、既に廃墟と化していたのだそうです。

配役

孫悟空 董宏利
鉄扇公主 郭紅玉
玄奘三蔵 李瑋
猪八戒 曹書侠
沙悟浄 欒天亮
牛魔王 畢孝玉
玉面公主 馬暁春
霊吉菩薩 賈振国
紅孩児 楊雪斌
南海菩薩 張蕾蕾

あらすじ

取経路上
西行受阻
孫悟空は三蔵一行に行く手の火焔山が燃え盛っていると告げるが、鉄扇公主の宝扇「芭蕉扇」ならば炎を消し止められると聞き、鉄扇公主の住む芭蕉洞へ向かう。
芭蕉洞内
礼借宝扇
義兄弟の契りを交わした牛魔王の妻である鉄扇公主はいわば義姉、孫悟空は丁重に宝扇の借用を願い出た。しかし、かつて孫悟空によって息子・紅孩児と生き別れになった鉄扇公主は、孫悟空を宝扇の力で吹き飛ばしてしまう。
小須弥山
菩薩贈珠
遠く吹き飛ばされて小須弥山に落ちた孫悟空は、霊吉菩薩から宝扇にも負けない力を持つ宝珠「定風珠」を賜る。
芭蕉洞内
叔嫂闘智
宝珠のおかげで宝扇にもびくともしない孫悟空に驚いた鉄扇公主は洞内に逃げ帰るが、孫悟空は変化の術で鉄扇公主のお腹に入り大暴れする。たまらず孫悟空を吐き出した鉄扇公主は、観念して宝扇を手渡す。
火焔山
假扇滅火
孫悟空は猪八戒とともに再び火焔山に。しかし宝扇をあおぐほどに山は大きく燃えさかる。扇は偽物だった。
摩雲洞
故友絶情
困り果てた孫悟空は、愛人・玉面公主のもとに入り浸りの牛魔王を訪ね鉄扇公主を説得して欲しいと頼むが、牛魔王もまた鉄扇公主と同様、孫悟空を深く恨んでいた。
芭蕉洞内
智取宝扇
牛魔王が久しぶりに夫人のもとに帰宅。孫悟空をだましてニセの宝扇をつかませた話で夫妻は盛り上がる。宝扇を見せてくれと手にした途端、牛魔王は孫悟空の正体を現し逃げ去る。
雲路上
得意失扇
勇んで飛んで行く孫悟空。追ってきた猪八戒に宝扇を渡したところ、その猪八戒は牛魔王が化けていたのだった。孫悟空は沙悟浄に天の将兵の加勢を頼みに行かせ、自分は猪八戒と共に牛魔王を追う。
火焔山下
道路通達
孫悟空たちは牛魔王、鉄扇公主と激戦となる。そこへ南海菩薩が現れ、今は天上界で悟りを開いた紅孩児を両親に会わせた。息子の姿に心を開いた牛魔王と鉄扇公主は宝扇を孫悟空に貸すことにする。ついに火焔山の火は消え、恵みの雨が降る中、三蔵一行は天竺への旅に再び出立する。