ポンペイの輝き

2006/06/03

Bunkamuraザ・ミュージアム(渋谷)で「ポンペイの輝き」。

西暦79年8月24日午後1時に始まり翌朝まで続いたヴェスヴィオ山の噴火で、ポンペイなど麓の町が一夜にして噴出物に埋没したのは周知の通り。この展示では、18世紀から始まった発掘作業の最新の成果として、出土した彫像や宝飾品、壁画など400点余りが披露されます。なにしろローマ帝国全盛期の富裕層が暮らしていた町であり、出土品の豪華なことはこの上もありません。金のチェーンの首飾りや金のリングにエメラルド / 柘榴石などをあしらった指輪、古典ギリシアを模した優美な大理石像、贅を尽くした住人たちが寛いだであろう部屋を飾る壁画などがこれでもかというほど並び、それにたくさんの金貨や、複雑な解錠機構を備えた頑丈な金庫までが展示されています。

しかし同時に、随所に唐突に置かれてある噴火から逃げ遅れた被災者の遺骸の型取りにはぎょっとします。多くの住民は噴火の直後には町を出て避難すべきかどうかを迷っていたものの、やがて噴煙が太陽を覆い、降り積もる火山灰や軽石の重みに耐えかねて建物が倒壊し始めたこともあって、夕方頃から本格的な避難を始めたようです。しかし、残っていた全ての市民や奴隷が、その日の深夜から翌未明にかけて発生した致命的なサージ(火砕流の上部に発生する高温のガス、水蒸気、細流の火山灰を主とする濃密な灰雲。火砕流本体よりはるかに高速で移動します)に飲み込まれて即死しました。摂氏400度に達するサージに襲われた被災者の体液は瞬時に蒸発し、爆発したでしょう。そうした模様を展示に添えられた解説は、たとえば

彼は1人の奴隷をともない、布製の袋と扉の鍵を持って戸口の方に向かった。だが彼らはついにそれ以上先に進むことはできなかった。突然サージが襲来したからである。家族の者〔妻・息子・娘〕や他の奴隷たちも同様に死を迎えた。明かり取りから入ってきた火山灰で息ができなくなり、ガスのために窒息死したのである。

とか、

軽石の降下がいくぶんおさまったときに、それまで避難していた地下歩廊から脱出することにしたのであろう。火山放出物が降り積もっていたため、階段を上がって部屋を通って、またはもう一つの出口から出ることができなかったため、隅切りにした窓から外に出た。家に面した通りに出るために、家の塀の方に向かおうとして、何人かは地下歩廊の上の庭を、瓦で頭を保護しながら横切っていた。だが不運なことに、灼熱の灰雲が襲来したため、逃げようとするあらゆる努力はむなしいものになってしまった。

などと、まるでそのときにその場所で見てきたかのようにリアルに伝えていて驚きます。さまざまなドラマがそこここで展開したはずですが、急速に押し寄せるサージと火砕流が一瞬のうちに全てを飲み込み、またそれゆえに死を迎えたときの状況が生々しく読み取れるのでしょう。出土した美しい装飾品の数々も、この文脈の中では、美術品としての鑑賞の対象ではなく、ヴェスヴィオ火山の悲劇をより実感させる小道具でしかあり得ません。

カフェ「ドゥ マゴ パリ」では、「ポンペイの輝き」連動企画で「豚ロースのナポリ風」を供していました。豚ロースにトマト・モッツァレラチーズ・アンチョビオイルをかけ、ナポリ風に仕上げたものということでしたが、ちょっと冷めていたもののおいしくいただきました。

これを食したのが「ポンペイの輝き」の会場に入る前。ひと通り見終わってコーヒー&ケーキでも、ということにしましたが、「ドゥ マゴ パリ」の「ティラミスを火山風にデコレーションしたもの」とか「メレンゲの表面に焼き色を付けて遺跡風にアレンジしたもの」はちょっとあざとい感じ。よって1階のロビーラウンジで「コクのあるチーズケーキのアイスクリームにさっぱりしたコーヒー風味のバルサミコソースをかけた」ものを食しました。こちらもバルサミコソースの酸味が上品でなかなかの一品。

ついでに買った「ポンペイ最後の日のパン」は、ポンペイの火山灰の下から出土したパンではなく(←当たり前)ポンペイ風のパンだということで、原料は「ライ麦、中力粉、薄力粉、砂糖、生イースト、サワー、ラード、アラビキライムギ粉、塩」とあります。こちらはこの日の夕食にと買い求めたのですが、こうしてみると展示会のチケット&図録に加えて、ランチ、デザート、パンに至るまでポンペイ尽くしで散財させられたわけです。Bunkamura商法、恐るべし。