菅原伝授手習鑑

2002/02/11

今年は菅原道真公没後1100年に当たるのだそうで、今月は菅公由縁の狂言「菅原伝授手習鑑」の通し上演です。平成7年(1995年)3月にも同じく歌舞伎座で「菅原伝授手習鑑」の通し上演があり、私は夜の部だけを観た記憶がありますが、試みにそのときの筋書きを引っぱり出して、昼の部と夜の部の主な配役を比較してみることにします。

  平成7年 / 今年
道明寺 菅丞相 孝夫 / 仁左衛門
立田の前 秀太郎 / 秀太郎
宿禰太郎 段四郎 / 左團次
奴宅内 勘九郎 / 橋之助
苅屋姫 孝太郎 / 玉三郎
土師兵衛 権十郎 / 芦燕
判官代輝国 富十郎 / 富十郎
丞相伯母覚寿 芝翫 / 芝翫
寺子屋 松王丸 幸四郎 / 吉右衛門
松王女房千代 芝翫 / 玉三郎
春藤玄蕃 彦三郎 / 芦燕
源蔵女房戸浪 松江 / 松江
武部源蔵 富十郎 / 富十郎

やはり菅丞相はこの人をおいて他に適役はいないと思える仁左衛門丈(平成七年当時はまだ孝夫)。また武部源蔵の富十郎丈なども再びの配役です。

今回は昼夜通しなのでちゃんと予約席で観たかったのですが、電話を入れたときには既に土日は満席。二等席以上なら空いているものの、年末年始の海外旅行で緊縮財政に入っている当方としては覚悟を決めて幕見席に赴かざるを得ませんでした。

「加茂堤」は全体の発端。恋仲の斎世親王と菅丞相の養女苅屋姫の逢引を桜丸が手引きしたことがきっかけとなって、昼の部では菅原道真公の太宰府流罪の顛末が、夜の部では松王丸・梅王丸・桜丸の三兄弟の悲劇が繰り広げられることになります。しかしこの幕では春の風景がいまだのどかに描かれ、牛車の仲で逢引を楽しむ若い二人に当てられた桜丸夫婦のアツアツぶり(これが後の夫婦別れの悲劇性を高めるのですが)や、30分間ひたすら座りっぱなしの牛の演技(?)など、観ていて楽しい場ではあります。続く「筆法伝授」でいよいよ菅丞相=仁左衛門丈と武部源蔵=富十郎丈の登場。ことに仁左衛門丈は神々しいまでの気品が漂います。左中弁希世役の東蔵丈が達者な三枚目の演技を見せ、廻り舞台で場面が菅原館門外に移るとともにストーリーも急展開し、讒言にあった菅丞相は閉門蟄居となります。このとき築地塀越しに梅王丸から武部源蔵へと渡された若君菅秀才は富十郎丈の子息でまだ2歳の中村大くん。黒衣に手をとられてちょこちょこ歩く姿はまるで人形のようです。「道明寺」では丞相の木像が顕わす不思議を織り込みながら丞相と苅屋姫の別れを描きます。贋の警護兵に迎えられて輿へと向かう丞相は実は木像なので、身体の向きの変え方や歩き方など、いずれも生気のない作り物らしい動き。重厚な一幕ではありますが、首尾よく鳴いてくれたものの今度はいつまでも鳴きやまない鶏に宿禰太郎が業を煮やして鶏の首をひねったり、橋之助丈の奴のユーモラスな数え歌など、息の抜ける場も用意して長い幕を最後まで見せてくれます。

夜の部に移り、「車引」は荒事の一幕で、筋隈の梅王丸は團十郎丈が飛び六法や元禄見得を見せ、よく通る太い声で存在感を示し、これに対して「待てぇ」の台詞と共に現れる松王丸の吉右衛門丈に仕丁が「あありゃ、こうりゃ」と化粧声を掛けるのも荒事ならではの演出。「賀の祝」では吉右衛門丈と團十郎丈のたわいもない兄弟喧嘩も面白いですが、松王夫婦、梅王夫婦共に去った後独り残されて夫である桜丸を門柱に身をもたせかけながら待ちわびる八重の福助丈が、風情がありました。そして「寺子屋」。一子小太郎を菅秀才の身替わりにするために武部源蔵の寺子屋に預け、隣村に用があるからと方便を言ってその場を離れようとする千代の玉三郎丈の演技に観衆の一人が「凄いな……」と溜め息をもらしていましたが、小太郎が討たれた後の愁嘆場でも玉三郎丈の抑制された嘆きにはこちらの目頭が熱くなりました。感極まった客席からは「大和屋〜!」「播磨屋〜!」の掛け声が盛んに飛んでいましたが、その中には珍しく私の声も混じっていました。

配役

菅丞相 片岡仁左衛門
武部源蔵 中村富十郎
松王丸 中村吉右衛門
梅王丸 市川團十郎
桜丸 中村梅玉
苅屋姫 坂東玉三郎
千代

あらすじ

序幕:加茂堤 恋仲の斎世親王と菅丞相の養女苅屋姫の逢瀬を、斎世親王の舎人である桜丸が加茂堤で手引きする。ところが菅丞相の政敵である藤原時平の家来三善清行が詮議にやってきて桜丸と立廻りになる間に、親王と姫は駆け落ちしてしまう。
二幕目:筆法伝授 菅丞相は勅諚により筆道の奥義の伝承を命じられたが、嫡男の菅秀才は幼いため、かつてその才を認めながら不義のために勘当とした弟子の武部源蔵を呼び出し、筆法を伝授する。急の召しにより参内した菅丞相は、斎世親王を帝位につけようとしたとの無実の罪により流罪を命じられる。武部源蔵は菅丞相の舎人の梅王丸と語らい、若君菅秀才を預かって逃れていく。
三幕目:道明寺 菅丞相は太宰府へ流される途中、河内の国で伯母の覚寿の家に逗留している。苅屋姫の姉、立田の前の夫である宿禰太郎とその父土師兵衛は時平から菅丞相暗殺を命じられており、企みを耳にした立田の前を殺害して池に沈めた上、贋の迎えを仕立てて菅丞相を輿に乗せ連れ出す。しかし、悪事は露見して宿禰太郎は覚寿に刺され、輿に乗っていた菅丞相は実は魂のこもった木像だったことから戻ってきた土師兵衛も本物の迎えである輝国に倒される。菅丞相は覚寿と苅屋姫に別れを告げ、太宰府へと旅立つ。
四幕目:車引 桜丸と梅王丸が身の不運を嘆き合っているところへ時平の社参を告げる雑色が通る。復讐を誓う二人は時平の牛車を止め、時平の舎人である松王丸と睨み合う。二人が牛車を壊すと、中から現れた時平の威光に打たれて身動きができない。賀の祝を済ませた後で決着をつけることにして、兄弟三人は別れていく。
五幕目:賀の祝 兄弟三人の父でかつて菅丞相に仕えた四郎九郎改め白太夫の七十の賀の祝いに相次いで現れた梅王丸と松王丸。松王丸は時平への忠義から勘当を願い出て許され、直ちに家を出ることになる。一人姿を見せなかった桜丸を女房の八重が案じていると、家の内から悄然と現れる桜丸。自分の手引きがもとで菅原家が没落することになった責めを負って、桜丸は白太夫の打つ鉦の音を介錯に切腹して果てる。
六幕目:寺子屋 武部源蔵は寺子屋の師匠をしながらひっそり菅秀才を守り育てていたが、訴人があって時平の腹心春藤玄蕃と松王丸に、かくまっている菅秀才の首を差し出すよう厳命を受ける。悩む源蔵は、その日新たに寺入りした小太郎の器量に目をつけ、これを身替わりとする覚悟を決める。寺子屋にやってきた松王丸が首実検をし、菅秀才の首に間違いない旨を請け合って春藤玄蕃は引き上げる。ところが実は小太郎は松王丸の子で、松王丸夫婦は小太郎を菅秀才の身替わりに討たせるために寺入りさせていた。涙にくれる松王丸夫婦は源蔵夫婦と共に、小太郎の野辺送りの焼香をする。