出雲と大和

2020/02/22

東京国立博物館で、日本書紀成立1300年特別展「出雲と大和」。

開催趣旨は次のとおり。

令和2年(2020)は、我が国最古の正史『日本書紀』が編纂された養老4年(720)から1300年という記念すべき年です。その冒頭に記された国譲神話によると、出雲大社に鎮座するオオクニヌシは「幽」、すなわち人間の能力を超えた世界、いわば神々や祭祀の世界を司るとされています。一方で、天皇は大和の地において「顕」、すなわち目に見える現実世界、政治の世界を司るとされています。つまり、古代において出雲と大和はそれぞれ「幽」と「顕」を象徴する場所として、重要な役割を担っていたのです。 令和2年は、日本が国内外から大いに注目される時でもあります。「幽」と「顕」を象徴する地、島根県と奈良県が東京国立博物館と共同で展覧会を開催し、出雲と大和の名品を一堂に集めて、古代日本の成立やその特質に迫ります。

いずれも天武天皇(???-686)の命によって編纂されたものながら、『古事記』(712年)が日本語を漢字の音・訓を用いて表記しつつ国内向けに天皇支配の正統性を示す意図をもって書かれているのに対し、『日本書紀』(720年)は漢文による編年体の史書で国外(主として新羅)に対し国家の権威を示すことを目的としていると言われています。この性格の違いから、前者が出雲神話を大幅に取り入れているのに後者では大部分が省略されていますが、日本書紀においても国譲りの神話は取り入れられています。この中で、高天原からの使者である二柱の神に対し大己貴神(『古事記』では大国主)が、現世のことは皇孫に委ね自分は幽界を治めると語ったことが記されています。

会場の最初のコーナーでプロローグ的に展示されていた《日本書紀 巻二》(南北朝時代)〈重文〉には、まさにこのエピソードが記されていました。

吾所治露事者 皇孫當治 吾將退治

国譲りの代償として二柱の神は大己貴神に、「天日隅宮」を千尋もある縄を使い柱を高く太く板を厚く広くして建てることを約束しました。これが出雲大社(元の名前は「杵築大社」)の由来です。

第一章 巨大本殿 出雲大社
会場の最初に《日本書紀 巻二》ありと書きましたが、むしろ最初に目についてその威容に圧倒されるのは、出雲大社の境内から出土した巨大な三本一組の柱である《心御柱》《宇豆柱》(宝治2年(1248))〈共に重文〉です。鎌倉時代の本殿造営時のものですから出雲大社の長い歴史から見れば新しい方ですが、それでも神代の昔を思わせる荒々しい威厳を備えていました。その先には空高く聳え立つ(高さ48m)本殿の復元模型が置かれ、周囲には様々の神宝群が配されていました。
第二章 古代祭祀の源流 出雲
神話の中での出雲の位置付けの大きさにも関わらず、出雲からの考古学的資料には長らくこれといったものがなく、和辻哲郎の『日本古代文化』(1939年)においても「筑紫中心の銅鉾銅剣文化圏」と「近畿中心の銅鐸文化圏」の二大文化圏説が唱えられていて、出雲はこれらから見れば辺境の位置付けに過ぎませんでしたが、1980年代の荒神谷遺跡、1990年代の加茂岩倉遺跡の発掘で大量の銅剣・銅矛・銅鐸が出土したことから、弥生時代の青銅器分布地図が塗り替えられることになりました。銅剣は出雲産、銅矛は北部九州産、銅鐸は多くは近畿産で一部は出雲産と考えられており、弥生時代の出雲が北部九州や近畿圏と交流を持つ一大勢力であったことが窺えます。
会場には、複数の遺跡から出土した銅剣175本、銅矛16本、銅鐸30個が展示され、加茂岩倉遺跡での銅鐸の埋納状況を復元した模型も置かれていました。これら大量の銅剣や銅鐸の質量感もさることながら、これほどの祭具を作り出すことに投じられた祈りの力と、それらを一括して埋納した意思の大きさが、見るものを圧倒します。出雲においてこれらの青銅器が埋められたのは、その型式からみて弥生時代中期末から後期初頭頃(約2000年前)と考えられており、これと前後して出雲を中心に中国地方山間部、山陰、北陸にかけて大きな四隅突出墓が築造されるようになったことから、そこに大きな社会的変化があったことが推測されています。会場では四隅突出墓の空撮映像が流され、そこからの出土品として弥生土器の数々や勾玉・管玉が展示されていました。
やがて、3世紀半頃から畿内を中心とした新たな墓制=古墳が日本全国に広がってゆき、出雲もその中に組み込まれていきます。
第3章 王権誕生の地 大和
大和の古墳から出土した品々を展示するコーナー。大きな埴輪を中心に数々の土器、玉杖や貝製の腕輪などの装飾品、そして何より青銅鏡。
出雲の銅剣や銅鐸ほどのインパクトはありませんが、それでも30面以上の三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡がずらりと並ぶさまはやはり神秘的です。出雲が「幽」、大和が「顕」とのことでしたが、これらの鏡を見るとむしろ大和の方に呪術的な支配力を感じます。
続いて展示室を移ると、半島との人や文物の交流を窺わせる金銀の精緻な装飾品についで、高句麗の圧迫下にあった百済王から倭王に贈られた《七支刀》(4世紀)〈国宝〉が展示されていました。石上神宮に伝わるこの七支刀に間近に接するのは20年ぶりですが、1,600年以上もの時を越えて金象嵌の文字が鮮やかに浮かび上がっていることに感銘を受けました。
一方、その先に展示されていたのは美麗な透かし彫りの装飾を伴う《金銅装鞍金具》(6世紀)〈国宝〉ほかの馬具。貴人の乗る馬はそれにふさわしく装飾具をつけていたようで、それらの装飾具の解説には馬のたてがみも飾ります帯にまでこだわりますといったちょっとユーモラスな一言コメントが付されていました。埴輪の方にも、大和と出雲のそれぞれから出土した「飾り馬」があって当時の支配階級が乗馬に親しんでいたことを示しており、その近くにはやはり大和と出雲で出土した「見返りの鹿」があって出雲の方には出雲の見返り美鹿というほのぼのとしたキャプションがつけられていましたが、もちろんこれらの鹿は狩猟の対象としてそこにいるものです。
最後に、出雲が玉作りのほぼ独占的なセンターであったことを示す玉製品の数々や『出雲風土記』『延喜式』が展示されていました。この日展示されていた《延喜式(九條家本) 巻九》(11世紀)〈国宝〉では大和の神社名が記されている部分が示されていましたが、前期(1月15日から2月9日)に展示されていた《巻八》には「出雲国造神賀詞」が載せられていたそうです。この「出雲国造神賀詞」は、出雲国造に任命された者が出雲にて潔斎をした後に帰京して天皇に奏上する神賀詞で、天皇の即位や都が移った時など国家にとってめでたいときにも奏上されたもの。会場では出雲国造神賀詞奏上儀礼の様子がCGで再現映写されていました。その内容はもちろん天皇の御代の弥栄を祈る祝詞で、その由来は出雲国造の祖先神である天穂日命が大己貴神を説得して国譲りをさせ、その結果を高天原の神々に復命したという神話に対応するものとされています。ただし「出雲国造神賀詞」自身に描かれたこの神話は『古事記』『日本書紀』とは異なっており、『古事記』では天穂日命は使者として高天原から葦原中国に派遣されたものの大国主に靡いてしまい役目を果たさず、その後にやってきた二柱の神が国譲りの交渉を行ったときに天日隅宮で祭祀を行う役割を与えられたことになっています。
第4章 仏と政
最後は6世紀半に伝来した仏教が政治と結びついて、かつて古墳が果たしていた権力の象徴としての役割が寺院に移っていったことを示すコーナーです。
したがって展示されているのは仏像が中心となり、おむすび型が面白い奈良石位寺《浮彫伝薬師三尊像》(7-8世紀)〈重文〉や、穏やかな姿ながら髭をたくわえた容貌が日本の神将像としては類例がないとされる脱活乾漆造の當麻寺《持国天立像》(7世紀)〈重文〉、唐招提寺の《広目天立像》《多聞天立像》(8世紀)〈国宝〉、さらに出雲からも一木造の質感が一種荒々しい萬福寺《四天王像》(9世紀)〈重文〉が出展されて、鎮護国家の思想があまねく古代世界を覆い尽くした様相が示されました。
最後に置かれていたのは《法隆寺金堂壁画 複製陶板(第一号壁)》。「出雲と大和」という主題に合致するものとは言えませんが、昭和24年の火災による焼損後の姿をそのまま示すことで、この日の展示品を含む各種文化財保護のメッセージを発するためにあえて置かれたもののようでした。

展示全体を通した一貫したストーリーを理解するには図録に記された解説の力を借りなければならず、少し難易度の高い展示だったようにも思いますが、これまで神話の世界の中の茫洋とした存在としかとらえられていなかった出雲を、出雲大社の巨柱と大量の青銅器の有無を言わさない物量でリアルに示してもらえて興味深い展示でした。この展示の記憶が色あせないうちに、出雲大社を訪れておきたいものです。