実方 / 地蔵舞 / 正尊

2020/02/11

国立能楽堂で金春円満井会特別公演。能「実方」、狂言「地蔵舞」、独吟、仕舞、能「正尊」。この特別公演は二年に一度の開催だそうで、前回は2017年12月に「檜垣」「石橋群勢」だったそうですが、私がこの日の前に拝見した金春円満井会特別公演は2015年のもの(眼目は中村昌弘師による「道成寺」の披キ)でした。

世間は新型コロナウイルスのせいで不穏な情勢ですが、国立能楽堂に限っては快晴の空がこの公演を祝福してくれているように見えます。

実方

世阿弥の『申楽談儀』に「西行の能」とされる曲で、五流とも廃曲となっていたところ昭和63年(1988年)に復曲(シテ:金春信高師)されて今は金春流だけの現行曲(観世流でも1993年以後何度か上演)となっている曲。今回の上演はその復曲初演以来32年ぶりの再演で、シテ/藤原実方を高橋忍師、ワキ/西行法師を宝生欣哉師が勤めます。

藤原実方の陸奥への左遷の話は以前「名取ノ老女」の記録での名取市の紹介記事の中で記述した通りであり、この話が西行の墓参(実話)の前提となるのですが、さらに藤原実方は歌人で舞の名手でもあり、たぐい稀な美男子で清少納言はじめ多くの女性と浮名を流したということを知っておく必要があります。さらに、賀茂の臨時の祭(4月の中の酉の日に行われる例祭に対して11月の下の酉の日に行われる賀茂神社の祭)の舞人であったのに遅参したために挿頭かざしに挿す花を得られなかった実方は代わりに呉竹の葉を挿して舞い天皇や女官たちに賞賛されたという逸話もあり、このことは本曲の中で重要なモチーフとして取り上げられています。

裃で盛装した囃子方・地謡が所定の位置につき、しみじみとした笛と共に着流僧出立のワキ/西行法師(宝生欣哉師)が登場し、都の寺社を残りなく拝み巡ったので陸奥行脚を志したと述べ、道行の謡を朗々と聞かせた後に陸奥に着いてふと見れば由あげな塚。さっそく狂言座に控えていたアイ/所の者(山本則秀師)に声を掛けてその由来を尋ねます。ワキの問いにアイが一ノ松から遠く正先を見やり「あれは藤原の中将実方の御墓所である」と答えたので、ワキはなるほどこれが実方の旧跡かと納得し朽ちもせぬその名ばかりを残しおきて 枯野の薄すすき形見とぞなると実際の西行の歌(ただし原典では「とどめ置きて」「形見にぞ見る」)を手向けました。

この歌が謡われるところに揚幕が上がり、前シテ/老翁(高橋忍師)がワキにのうのう西行はいづくへ御通り候ぞと声を掛けましたが、その声音の深々しさは背筋がぞくっとするほど。ゆっくりとした呼び掛けののうのうの一言だけで、舞台上の色調が変わり秋風が吹き始めるようです。橋掛リに登場したシテの姿は茶の水衣を着し笹の枝を手にした尉出立、品のある姿でゆっくりと舞台に進みワキと問答になりました。いきなり「西行」と問い掛けられ不審に思うワキに対しシテはワキによる弔いを喜び、さらに手にした笹の枝の由来を問うワキに応えて大小の前に下居して上述の臨時の舞における逸話を〈語リ〉として聞かせます。この〈語リ〉の最後にその実方の塚の主、竹の誉れの世がたりに、これまで現れ出でたるなりとシテが明かすと、シテの懐旧の情を引き取って謡う地謡を聴きながらシテは手の笹の枝をはたと落としてじっと見込み、やがて左袖を前に引き寄せて控えめにシオル様子。今は老いてしまっているのに臨時の舞の舞人の役目を辞することも許されない(と思っている)シテは、扇を取り出して立ち上がると天の鳥船に乗るがごとくに飛び立つ姿となり、都を目指して橋掛リを足早に下がって行きましたが、その途中、二ノ松で振り返って扇を掲げながらワキに(都に戻って)臨時の舞を御覧ぜよと呼び掛けると幕の内へと下がっていきました。

舞台へ出てきたアイがワキに説明する間語リは重要。先にシテの口から語られた臨時の舞での竹葉を冠に挿した逸話に加え、実方が宮中にて藤原行成と争いになり、その冠を奪って投げ捨てたことが原因で陸奥に左遷され、そしてこの任地で亡くなったことまでが含まれていました。この間語リを踏まえて前場の終わりでのシテの様子を振り返ると、都に対する望郷の念を抱えたまま遠い陸奥の地にあった実方の魂魄が、西行の訪いによってその執心を突き動かされたことが窺えます。アイはワキに弔いを勧め、ワキも「さては」と思い至って弔いをしつつ草の枕に伏しにけり

ヒシギ、さらに太鼓が入って空気が変わるところへ登場した後シテ/藤原実方の姿は、初冠に竹を挿し追懸をつけ、クリーム色の地に菱形の文様の狩衣、薄青色の指貫と若々しい公達の出立ですが、よく見ると髪は白く、面は目元が窪み白い顎髭をもつ老人(謡本の指定は「小尉」)。つまり既に老残の身でありながらシテは、かつて得意の絶頂にあった臨時の祭での若々しい装いをまとって登場したことになります。かくして声色も若々しく藤原の実方の、夢中にまみえ現れたりとワキに告げたシテは、大小前で床几に掛かると竹の徳を謡う地謡に聞き入り、ついで詞章がかつての実方の華やかな様子の描写に移ると立ち上がってゆったりと舞い始めました。花にたわむれ月にめで、雪をめぐらす舞の袖。げにも妙なる粧いさもみやびたる梅が枝の、花の顔ばせと自己陶酔の極致のような詞章の後に、シテは水にうつる影見ればとしばし見入って静止。わが身ながらも美しく、心ならずも休らいてと二歩進んで下居しさらに見入りつつ、舞の手を忘れたシテは水鏡に映る自分の姿に見とれて両袖で胸を抱く形になりました。

シテ夢のうちなる舞のそで、地謡うつつにかえす由もがな、そして〔太鼓序ノ舞〕に入っていくときにシテは、左の爪先を上げ下ろしてから右足で足拍子を踏み、次に反対の足で同様の形。その後、シテは袖を開き、巻き、舞台を大きく回りながら舞い続けましたが、やがて角で強く両袖を戻してから徐々に動きが速くなっていきます。ついに〔太鼓序ノ舞〕を舞い終えたシテは再び下居して水鏡を見込む姿になりましたが、そこに映る影をよく見れば、美しかった姿は昔のものとなり目の前にあるのは老いた自分の今の姿。そのことに気付き立ち上がってよろよろと後ずさったシテは左手で白髪を確かめ、詞章の「霜」や「雪」といった時の移ろいを連想させる文字に心乱れて舞台を回る〔イロエ〕となります。

最後は囃子方がテンポを上げて加茂の神山の雷鳴がとどろとどろと鳴り廻る中にワキの夢は覚め、前場で謡われた西行の歌枯野の薄 形見とぞなるが再び謡われます。この蕭条たる情景描写のうちにシテがワキに扇を差し伸べて常座へ後ずさると、地謡による謡は極限までテンポを落として跡とい給えや西行よ、跡弔い給え西行という願いの言葉を遠く遥かに聞かせ、これを聴きながらワキに向かって手を合わせたシテはやがてワキに背を向けて静かに留拍子を踏みました。

左遷されて任地で客死した藤原実方の、都での華やかなりし頃の自分の記憶に対する陶酔が、水鏡に映る老いた姿によって無惨にも打ち砕かれ、残された願いは自分の塚を訪れてくれた西行による弔いだけだったというなんとも救いのない曲。しかしながら、高橋忍師による深く美しい謡と舞と、シテの心情に寄り添って強弱やテンポを大胆に変転させた囃子方と地謡との相互作用によって、この曲は今後長く心に残るであろう舞台となりました。

地蔵舞

黒塗りの笠をかぶり光沢のある萌葱色の水衣に括り袴の旅姿の出家(山本東次郎師)は、坂東から都、さらに西国を廻ろうとしているところ。日が暮れてきたので遠くの人家の明かりを目指すことにしたものの、往来の者に宿を貸してはならぬという触れのある高札(シテ柱の見立て)に気付き、悩みます。この辺りは漂泊の旅僧の不安がしみじみと伝わるところですが、腹をくくった出家は知らぬ態で宿を乞うことにしました。しかし、長裃姿の主人(山本則俊師)は大法を理由に宿を貸そうとはしません。困った出家は一計を案じ、笠は師匠から譲られた大事な品なのでこれだけでも「何とぞ一夜」置かせてほしいと頼み込むと、もともと悪い人ではないらしい主人は快く笠を預かることにしました。

主人が狂言座に退いて舞台上が夜更けた様子になったところで、うれしやうれしやと出家は抜き足差し足。正先に置かれた笠をかぶり、袖を合わせてちんまりとそこに安座しましたが、どうやらその姿は地蔵仏を模している様子。すると人の気配に気付いたらしい主人は盗人かと怪しんで常座から出合え出合えと呼ばわったのですが、そこにいるのが先ほどの出家だとわかってフリーズ。泊められないと言ったではないかという主人に対し出家は笠に宿を借りたので「なおかまやそ」(かまってくれるな)と強弁し、なるほどそういう理屈があるものかと見所に笑いが広がります。笠からはみ出したところはどうすると出家の笠の左右を扇で叩いていた主人でしたが、とうとうこちらも笑い出し、大法を破って泊めてやるので静かにするようにと出家に告げました。

ひとときおとなしく横になっていた出家は、すぐに起き上がって数珠を揉み南無……と勤行を始めたところ、あわてた主人に止められて再び横になります。気の毒になったのか主人は寒いから酒を飲ませようと出家に申し出たところ、出家は飲酒戒おんじゅかいがあるので飲めないといったんは断り、これに主人も奇特なことじゃと酒を引っ込めようとしましたが、実は酒を飲みたい出家はあわてて主人を制し、飲むとは言えないが吸うならOKと弁明しました。

ここから盃のやりとりとなり、楽しい連吟や小舞(「泰山府君」)も交えてやんややんやと盛り上がっていきました。勤行が駄目なのに酒盛りで盛り上がっても大丈夫なのか?と思いつつ観ていると、もはやブレーキが壊れた様子の主人はそろそろ出掛けようという出家に、これまでの舞はいずれも短かったので「長々と舞わしめ」と求めます。そこで出家は主人に「地蔵舞を見まいな」と囃させてから地蔵舞を舞いました。出家が舞いながら謡う地蔵舞の詞章の内容は、前半が地蔵の由来と功徳を説明し、後半は(自分を地蔵にたとえて?)地蔵がこの座敷で酒を振る舞われてよろよろとよろめきながら喜び泣くという内容。舞の方もこれに合わせて前半はきびきび、後半は形態模写に近い楽しいもの。こんな具合にめでたく舞い納めて、出家と主人は静かに下がっていきました。

続いて、金春安明師による独吟「六元」。昔の「実方」にあり、他流では闌曲(乱曲)とされている詞章があの独特の安明師ワールドの中で吟じられました。

されば心を種として。花も栄ゆく言葉の林。紀貫之も書きたるなり。在原の業平は。その心あまりて。言葉は足らず例えば。萎める花の色無うて。匂い残るに異ならず。宇治山の、喜撰が歌は。その言葉かすかにて。秋の月の雲に入る。小野小町は。妙なる花の色好み。歌の様さえ女にて。ただ弱々と詠むとかや。

大伴の黒主は。薪を負える山人の。花のかげに休みて。徒に日をや送るらん。これらは和歌の言葉にて。心の花を表す。千種を植うる吉野山。落花は道を埋めども。こぞの枝折ぞ、知るべなる。

さらに仕舞はまず金春穂高師と金春憲和師を前に、地謡四人を後ろに置いて「弓八幡」「杜若キリ」。ついで安達裕香師と長谷川純子師を前に、地謡五人(すべて女性)を後ろに置いて「箙」「笹ノ段」。小顔美人の安達裕香師の修羅物らしいドスの効いた……もとい、気迫のこもった謡と足拍子に驚いたものの、長谷川純子師が「百万」から「笹ノ段」で母の心を柔らかく謡って聞かせてくれてほっとしました。

正尊

兄・頼朝との間に亀裂が入り鎌倉入りを許されなかった義経は、京都の館で頼朝の命を受けた土佐坊昌俊(正尊)の襲撃を受けたものの、これを撃退します(「堀川夜討」)。観世弥次郎長俊(信光の子)作の能「正尊」はこの堀川夜討を描く劇能で、2013年に観世流で観ているのでここでは筋を細かく追うことはしませんが、この日の金春流「正尊」(小書《働キ入リ》)は観世流とは趣がかなり異なっていました。

最初に登場する源義経は山井綱雄師の子息である山井綱大くん(高校一年生)、静御前は憲和宗家の長女である金春初音さん。どちらも子方にしては立派で存在感があります。これに付き従うのは義経方の立衆が二人と弁慶ですが、観世流ではタイトルロールの正尊がシテ、弁慶はワキなのに対し、金春流では弁慶がシテ、正尊はツレです。黒地に灰色の太い黒縞入りの重厚な水衣と白大口、沙門帽子に直面の弁慶の腰帯には三鈷杵の柄。角にて一連の経緯を述べた弁慶は、正尊を義経の前に召し連れるべく一ノ松から幕に向かって呼び掛けます。これに応えて登場したツレ/正尊(辻井八郎師)の出立は角帽子に灰色の水衣、白大口。義経のもとに伺候せよと詰問する弁慶に対し、病のため養生したいと抗弁する正尊もまた重厚な存在感を示しましたが、最後は是非をいわせぬ武蔵殿に押し切られ、背後から舞台(義経の前)へと進めさせられてしまいます。

義経による下問(綱大くん精一杯頑張る)と弁慶の威圧を正面から受け止める正尊。能を観ていて毎度思うことですが、このように強い人物を演じるには能楽師自身も高い人間力を備えていなければ勤まらないはずです。それでも緊迫したやりとりの中で押し切られそうになった正尊は、異心ない旨をその場しのぎの起請文に認めることとして後見座から文を持ち戻りましたが、ここでは弁慶がシテなので正尊は起請文を弁慶に渡し、弁慶がこれを読み上げるという流れになります。常座に控える正尊、正中に右膝立てて下居する弁慶。敬つて申す起請文の事から始まり起請文かくのごとしで終わる長大な起請文を朗々と読み上げる弁慶の語りは言葉を重ねるに連れてどこまでも高揚し、背後の大小も息を合わせて見所をぐいぐいと引き込んでいきました。

起請文を読み上げ終えた弁慶は、ゆっくり正尊を振り返ってから笛座前に退き文を懐中に納めます。ついで静御前は、正尊に酌をした後に〔中ノ舞〕をしっかり。舞が終わり地謡を聴きながら正尊は舞台に手をつき、そのまま素早く去っていき、弁慶はこれを中央から見送るとアイ/侍女(山本凜太師)を呼び出して偵察を命じます。侍女は舞台を回って橋掛リに入り二ノ松から揚幕の方を窺いましたが、見れば物々しく今にも打って出そうな様子。先に送っていた禿二人が斬り殺されている様子にぎょっとし、弁慶にこの旨を復命しました。

報告を受けた義経はもとより覚悟の前なればと動じず、静御前が差し出した太刀を受け取って脇正から討手の様子を眺める形。弁慶も立って義経と共に物見をしてから、大小の〔アシライ〕のうちに舞台上で物着となります。弁慶は水衣を脱いでその下の法被をあらわし帽子を改めて軍装を示し、義経は右肩を脱ぎ、立衆二人も烏帽子をとって鉢巻姿になります。この物着がなかなか大変そうに見えてはらはらしているところへ正尊一行が登場。トモ/姉和光景(井上貴覚師)と立衆二人を伴った正尊はおそらく袈裟頭巾に白法被を肩上げし、長刀を手にしています。物着が間に合った義経方全員が立って正尊一行と対峙し、ここからは立衆同士の斬組み。太刀の鞘を捨てて打ち合うと立ち位置が入れ替わって義経方が正尊方の背後から切り捨てるというパターンが二組続きましたが、観世流のときのように前転やら仏倒れやらといったアクロバティックな斬られ方はなくて少し残念。三組目の対決は弁慶と姉和で、太刀を持って舞台に進んできた姉和は弁慶と打ち合うこと七合にも及び、ついに行き交って下居した姉和を後ろから長刀で切り下げた弁慶は常座に仁王立ちになると、揚幕の前で床几に掛かっている正尊を見やりました。今はこれまでと覚悟を決めた正尊は舞台に進み、太刀の鞘を払った義経と長刀を構えた静御前との斬合い。そして下がろうとするところを橋掛リ上で待っていた弁慶に阻まれ、舞台上で共に長刀を用いての斬り合いから互いに得物を捨てて組み付き合いましたが、ついに投げられた正尊は床に屈し立衆二人に縄を掛けられるとそのまま幕の内へと引っ立てられて、舞台上に残った義経が抜身の太刀を肩に留拍子を踏んで終曲となりました。

正直に言うと「正尊」と言えば飛んだり跳ねたりの斬組み、という不謹慎な期待を持って能楽堂に足を運んでいた自分は少々肩透かしにあってしまったのですが、朗々たる起請文の読上げや、その前の弁慶と正尊との気迫に満ちたやりとりはやはり魅力的で、会話劇としての面白さを満喫することができました。

ところで、上述のように正尊は苦し紛れの起請文を破り少人数で義経の館を襲ってあっけなく捕縛され幕の内へ押し出されてしまうという役柄ですから、金春流や金剛流のように正尊を見事討ち取る義経方の弁慶がシテとなるのは素直に理解できるところですが、では観世・宝生・喜多流はなぜ正尊をシテとするのかという疑問が湧いてきます。しかし、Wikipediaで「土佐坊昌俊」の項を読んでみたところ、次の記述がヒントになるような気がしてきました。

頼朝は京にいる義経を誅するべく御家人たちを召集したが、名乗り出る者がいなかった。その折、昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせた。昌俊は出発前、下野国にいる老母と乳児の行く末を頼朝に託し、頼朝は彼らに下野国の中泉荘を与えている。

〔中略〕

頼朝による昌俊派遣の目的は義経暗殺そのものよりも、義経を挑発して頼朝に叛旗を翻す口実を与えることであったとの見方もある。

この記述からは、昌俊は自分の捨て駒としての役割を把握しており、よって老母と乳児の行く末を託して悲壮な決意を固めて京に向かったという筋書きが見えてきますが、「正尊」の中でも正尊が弁慶に引っ立てられるように義経のもとに向かう場面で地謡によって謡われるのぼれば下る事もいさあらまし事のいたずらに。なるともよしや露の身の。きえて名のみを残さばやという詞章に同種の覚悟を見ることができるように思います。こうした悲劇の人物として正尊をとらえるなら、本曲のタイトルが「正尊」となりその正尊がシテとなることが自然に理解されるところです。

しかし翻って、弁慶をシテとし正尊をツレとしたのでは本曲の悲劇性は失われるのかと言えば、そうではないことを現代の我々は誰でも知っています。頼朝のもくろみ通りに土佐坊昌俊(正尊)を討ったことで追捕の理由を作ってしまった義経一行は、以後長く苦しい逃避行のうちに静御前をはじめ次々に人数を減らし、奥州に逃れ得た義経と弁慶も最後は衣川館で滅ぼされるので、結局この「正尊」はより大きな悲劇の発端に過ぎず、ここに登場する人物たちの中には一人も勝者がいないことになるからです。

配役

実方 前シテ/老翁 高橋忍
後シテ/藤原実方
ワキ/西行法師 宝生欣哉
アイ/所の者 山本則秀
一噌隆之
小鼓 大倉源次郎
大鼓 安福光雄
太鼓 櫻井均
主後見 櫻間金記
地頭 金春安明
狂言 地蔵舞 シテ/出家 山本東次郎
アド/主人 山本則俊
独吟 六元 金春安明
仕舞 弓八幡 金春穂高
杜若キリ 金春憲和
安達裕香
笹ノ段 長谷川純子
正尊
働キ入リ
シテ/弁慶 山井綱雄
ツレ/正尊 辻井八郎
トモ/姉和光景 井上貴覚
子方/源義経 山井綱大
子方/静御前 金春初音
立衆/正尊の家来 大塚龍一郎
立衆/正尊の家来 萩野将盛
立衆/義経の家来 本田芳樹
立衆/義経の家来 中村昌弘
アイ/侍女 山本凜太
槻宅聡
小鼓 田邊恭資
大鼓 國川純
太鼓 小寺真佐人
主後見 横山紳一
地頭 本田光洋

あらすじ

実方

みちのくを旅する西行法師の前に、歌の道の先達、藤原実方中将の霊が現われる。昔、賀茂の祭で、冠に竹の葉を挿して舞って賞賛されたことを語って姿を消す。西行が仮寝していると、実方の霊はありし日の雅な姿を見せ、静かに舞を舞う。水鏡に姿を映し、しばし、美しかった若き日にみずから陶酔する。しかし、現実の老衰の身はいかんともしがたい。ときならぬ雷鳴のなか、枯れ野のかなたへと去って行く。

地蔵舞

旅の出家が、宿を乞うて断られてしまう。出家は思案して笠だけを預け、こっそりと宿に入り込んでその笠をかぶって座り込み、宿主に咎められると、この笠に宿を借りたのだと言い訳をする。それを面白がった亭主は、出家に宿を貸すことにし、やがて酒盛りとなると出家は亭主に「地蔵舞を見まいな」と囃させて地蔵舞を舞う。

正尊

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