Q : A Night At The Kabuki(NODA・MAP)

2019/11/27

東京芸術劇場(池袋)で、NODA・MAP「Q : A Night At The Kabuki」。そのタイトルから容易に想像がつく通りにQueenのアルバム『A Night at the Opera』(1975年)の楽曲を駆使し、舞台を源平時代に設定した「ロミオとジュリエットの後日談」であると喧伝されていたのですが、主題の核心部はちょっと違っていました。

こちらは劇場で販売されていたプログラム。梅・松・鯉(恋?)の背後には歌舞伎の定式幕を連想させる縦縞が置かれ、そのカラフルさは『A Night at the Opera』のジャケットの色合いに通じるものがあります。

主要出演者は、ジュリエットにあたる「源の愁里愛」が広瀬すず、ロミオにあたる「平の瑯壬生」が志尊淳。その2人(若かりし日の自分たち)の悲恋の運命を何とか変えようと30年前に遡って奔走する「それからの愁里愛」が松たか子、「それからの瑯壬生」が上川隆也。松たか子さんの舞台はこれまで串田和美による「コーカサスの白墨の輪」「十二夜」、NODA・MAP「贋作 罪と罰」「パイパー」「逆鱗」と観てきていましたが、上川隆也はNODA・MAP初参加で私の方もその舞台は初見。また、この2組のロミオとジュリエットに絡む役柄で羽野晶紀と竹中直人が助演していて、羽野晶紀さんの舞台を観るのは1998年の「ローリング・ストーン」以来21年ぶり、やはりNODA・MAP初参加の竹中直人は2004年に本多劇場でその舞台を観たことがあります(が、共演の木村佳乃さんの美しさに見とれてばかりでした)。

装置は、奥側に舞台の横幅いっぱいに高さ2mほどの白い威圧的な壁がかつてのベルリンを連想させるように立ちはだかっていて、左右の袖側が前の方にスライドしてくるとコの字型に舞台を囲む作りになり、その上は回廊となって役者が行き来できるようになっています。白壁には回転式の四つの横長の扉がつき、袖がスライドしてきたときはそちらにも同様の出入り口ができて、役者はそこから舞台上に出入りするほか、扉と扉の間の柱に付けられた足掛かりを使って回廊の上と下を行き来することもできるようになっており、芝居の中では俳優たちの上り下りの軽やかな身のこなしに何度も目を見張ることになります。こうした構造物に囲まれた舞台上にはいくつもの鉄パイプの白いベッド(野戦病院にあるような)が横に並べられて開演を待ち、BGMには少々ノスタルジックな日本のポピュラー音楽がかかっていましたが、ボサノヴァアレンジの「DOWN TOWN」(原曲はシュガー・ベイブ)の途中でまったく唐突に壁が開き役者たちが舞台上になだれこんできて芝居が始まりました。

◎以下、戯曲のテキストと観劇の記憶により舞台を再現します。ここを飛ばしたいときは〔こちら〕へ。

第1幕

最初に演じられるのは野田芝居では常道の、終結部の予告的なプロローグ。役者たちがきびきびとベッドを移動させて1カ所にまとめると赦免船ならぬ帰還船になり、上手から走り込んできたそれからの瑯壬生(上川隆也)が「俊寛」の如く乗船を拒まれて舞台に倒れます。「俊寛」ならば鬼界ヶ島のはずなのにせめて秋田柵まで、淳足柵までと北方にあることを示す台詞が語られて「?」と思っているうちに、船の上から平の凡太郎(竹中直人)がおずおずとした口調で瑯壬生の言葉を都の愁里愛に伝えることを瑯壬生に約束すると、船は舞台後方の扉から消えていってしまいました。そこへ舞台下手から尼僧姿のそれからの愁里愛(松たか子)がベッドと共にゆっくりと現れて、ここは七里ヶ浜の尼寺。舞台に残っていた平の凡太郎と愁里愛の会話から、先ほどの乗船の場面は愁里愛に向かって凡太郎が語った30年前の出来事であったことが明らかになりました。その凡太郎が30年の歳月を経て愁里愛に渡した瑯壬生の手紙はなぜか白紙。しかし「Love of My Life」をBGMにそれからの瑯壬生が遠くそれからの愁里愛に呼び掛けて、ここから2人の「愛」の話をもう一度綴ることが告げられます。尼の頭巾を脱いで上手のベッドに横たわる愁里愛と、北国の曠野で眠りにつく瑯壬生。すると愁里愛のかたわら(客席から見て奥側)から少女の愁里愛(広瀬すず)、瑯壬生のかたわらから少年の瑯壬生(志尊淳)がいずれも魂のように起き上がり、その魔法のような登場の様子に息を呑んでいるところへ「Seaside Rendezvous」が大音量でかかって、舞台上は源平時代に遡りました。

ここからは『ロミオとジュリエット』のストーリーをなぞりつつ、野田芝居らしい熱量とユーモアが舞台上に溢れます。

かたや禁欲的な価値観の源氏〔キャピュレット家に相当〕の家で自由に憧れる少女・愁里愛、一方では享楽的な家風の平家〔モンタギュー家〕の跡取息子・瑯壬生。クリスマス休戦の一日、源氏自治区から壁を乗り越えて平家の領域にやってきた愁里愛が平家のパーティー会場で瑯壬生と出会ったところからよく知られた通りの悲恋の物語が始まるのですが、そこに2人の保護者のように姿を現すのがそれからの愁里愛とそれからの瑯壬生で、舞台上の時制は若い2人の現在形になったりそれからの2人の回想に変わったりします。若い2人の対話は本歌である『ロミオとジュリエット』の台詞をほぼ忠実になぞり、一方、それからの2人の別れ際には見ずもあらず見もせぬ人の恋しくは あやなく今日やながめくらさむ知る知らぬ何かあやなく別きて言はぬ 思ひのみこそしるべなりけれと『伊勢物語』が引用されました。ついで平家の家ではそれからの瑯壬生が若い瑯壬生の「まさかの友」に、源氏の家でもそれからの愁里愛が若い愁里愛の「まさかの乳母」にそれぞれ任じられて時間・空間を若い2人と共有すると共に、それからの愁里愛が若い2人=かつての自分たちの運命を変える決意を固めます。

バルコニーの場面でも、うぶな若い2人が語るべき台詞の多くをそれからの2人がしゃしゃり出て代弁してしまいましたが、有名な台詞ああ、瑯壬生、瑯壬生!なぜあなたは瑯壬生なの?あなたのお父様をお父様でないと言い、あなたの名前を捨ててくださいは若い愁里愛によって語られ、そしてこのあなたの名前を捨ててくださいが終盤で異なる意味を持って引用されることになります。ついで場面は唐突にバルコニーから神社へと変わり、法皇〔僧ロレンス〕の前でそれからの2人を立会人に若い2人が結婚式を挙げたものの、洛中の大通りでの思わぬ斬り合いで若い瑯壬生が源義仲〔ティボルト〕を討ってしまったことから若い瑯壬生は洛外追放。若い2人の運命がよく知られた悲劇に向かって進んでしまっていることに危機感を覚えたそれからの愁里愛は、源の乳母と法皇を次々に地鶏棒で気絶させて自らの手で運命を変えてみせようと奮闘しましたが、それでも彼女の進めようとする道筋がかつて自分たちが歩んだレールの上を外れていないことに気付いていません。

それからの愁里愛が渡した縄梯子を若い瑯壬生が頭上に投げ上げると、入れ替わりに上空から長い梯子が降りてきて、これに乗った瑯壬生は宙を移動して若い愁里愛の待つ新床へ。ここからの数分間は、夢のように美しい場面でした。舞台中央の新床の上で結ばれる若い2人を巨大な真っ白い敷き布がふわりと覆い隠し、舞台前方で波打つように翻って後方へ引き上げられると新床の上はそれからの2人に入れ替わっていて、こうした入れ替わりが繰り返されることで瑯壬生と愁里愛の時を超えた束の間の幸福が描かれます。そして、朝のヒバリの声と共に若い瑯壬生は(原作と同じく)愁里愛に手紙を送ることを誓い、次のやりとりの後に去っていきました。

源の愁里愛 再会できる日には、私はもうおばあさんね……。私たち、また会える?

平の瑯壬生 すぐに会えるよ。

源の愁里愛 いつ?

平の瑯壬生 この世から戦が消える日に。

しかし瑯壬生を送り出した愁里愛は、瑯壬生の不在にいたたまれなくなり、法皇の庵を目指して走ります。風を切りながら舞台の上に大きな円を描いて全速力で走り続ける若い愁里愛の痛切な表情とその運動量の迫力には、観ているうちに胸を潰されそうになってしまいました。さらに法皇が、いや法皇を地鶏棒で倒したそれからの愁里愛が授けた企みを信じて、1人慄きながらも仮死の毒薬を飲む若い愁里愛の姿にも。

それからの愁里愛が送った手紙が届かなかったために仮死の計画を知らずに若い愁里愛の遺体と対面して毒を仰ごうとした若い瑯壬生と、目覚めてそこに倒れている若い瑯壬生の姿を見て懐剣を胸に突き立てようとした若い愁里愛の2人を共に地鶏棒で気絶させたそれからの愁里愛は、それからの瑯壬生に毒を飲ませ、自分も刃を潰した懐剣を胸に突き立てて若い2人の運命を自分たちで引き取ります。

それからの瑯壬生 また会えるかな、僕たち。

それからの愁里愛 会えるわ、この世から戦が消える日に。

シェークスピアの原作に忠実であればここで平家と源氏は諍いをやめることになるのですが、本作ではそうはなりません。平家・源氏それぞれの墓に若い2人の代わりに葬られたそれからの瑯壬生とそれからの愁里愛はやがて蘇生したものの、瑯壬生も愁里愛も美しく死んでいなければならないと考える平清盛と源の生母の考えによってその生存は隠され、2人は引き裂かれたままになってしまいます。なぜ運命を変えられなかったのかと問う若い愁里愛に、それからの愁里愛はもう一つの運命=戦争に巻き込まれてしまったことを告げて、激しい爆撃の音の背後に「Love of My Life」の合唱が流れるうちに第1幕が終了しました。

第2幕

ここからは「ロミオとジュリエット」のストーリーから大きく外れ、それからの愁里愛が言う「もう一つの運命」に巻き込まれた2人の姿が描かれます。お互いに相手が死んで自分だけが生き残ったと思っているそれからの瑯壬生とそれからの愁里愛は、それぞれの家で相手の墓参りを願うものの当然に反対されたため、瑯壬生は名もない一兵卒として戦場に赴き、愁里愛は尼寺に向かうことになり、時間が止まってしまった若い瑯壬生と愁里愛が「面影」としてそれぞれに付き添います。

「'39」をバックにマオリのハカを舞って威勢を示してから戦場に落下傘降下したそれからの瑯壬生たち平家の戦士たちは、名乗りを上げることなくいきなり攻撃してくる源氏の戦法(=近代戦のやり方)の前に次々倒されていきます。さらなる乱戦の中でそれからの瑯壬生は、第1幕でのティボルト殺害を繰り返すように源氏の無名戦士を射殺したために源氏の侍たちに囲まれて危うく処刑されようとしたとき、戦が終わったとの知らせが届いて死を免れるものの、極度の恐怖の中で視力を失います。さらに瑯壬生が運び込まれた尼寺=野戦病院では源頼朝から命を受けた尼たちが瑯壬生探しを始め、その場に現れた源の乳母によって正体を暴かれたそれからの愁里愛は首実検を命じられました。こうした極限状態の中でそれからの愁里愛はそれからの瑯壬生と再会し、密かに初めて2人が会ったときの台詞のやりとりを再現して口づけを交わすのですが、視力を失った瑯壬生の目に映るのは若いときの愁里愛の面影。一方、それからの愁里愛が目を閉じると愁里愛の面影にも瑯壬生の面影の姿が見えて、ようやく若い2人が口づけを重ねようとしたときに源頼朝が現れ、それからの愁里愛は鎌倉へと連れ去られて行きました。戦が消える日に2人は再び一緒になれるはずだったのに、戦争が終わっても「戦が消え」てはいなかったということです。

それからの瑯壬生を含む敗残兵たちは馬車に乗せられて北へ向かい、やがて舞台上では、極寒の滑野すべりやで看守が打ち鳴らす竹刀の音と共に収容所のルーティーン(起床→作業→配給→作業→就寝)、舞台背後の壁の上では鎌倉での源頼朝の飽食の様子が、同時並行で繰り返されます。給仕をする源の乳母が読み上げる豪勢な食事の数々(食前酒、赤ワイン、真鯛の洋酒蒸し、フォアグラ、羊のもも肉のロースト……)と対比されるのは抑留者に与えられる「黒パン120グラム」。その黒パンも80グラムになり、40グラムになり、故郷の家族への思いを切々と綴る手紙がいくら投函されても届くことはなく、呻き声をあげていた収容者たちも次々に斃れて「白樺の肥やし」になっていきます。絶食を続ける愁里愛を横目にひたすら食べていた源頼朝の腹はどんどん膨れ上がり、ついに限界に達して破裂したときに、それからの愁里愛は鎌倉殿のもとを去って七里ヶ浜が見える尼寺へ向かいました。一方、滑野ではようやく到着した帰還船の前で冒頭の「俊寛」のシークエンスが再現され、船を見送るそれからの瑯壬生の悲痛な呼び掛けが遠く消えていくと共に、舞台は30年後の愁里愛と、瑯壬生の手紙を記憶して持ち帰った平の凡太郎との会話に回帰します。

私はもはや、あなたを愛していないという意外な言葉から始まるその記憶された手紙(遺書)の朗読は、途中で平の凡太郎からそれからの愁里愛に引き継がれます。

あなたを愛する力をください。あなたを愛する力を取り戻したい。果てしもなく故郷から遠い、荒び冬ざれた曠野で朽ちた木のように横たわる僕に、あなたを愛していた時の力をください。そして、どうか朽ち木の如く死んでいく私を忘れないでください。どうかどうか、私を名もない兵士として葬らないでください。あわれんだ瞳で、無名戦士と呼ばないでください。もう二度と私に「名前をお捨てになって!」などとおっしゃらないでください。……瑯壬生より、愁里愛へ。渾身の「愛」をこめて。

「Love of My Life」をBGMに、ベッドの上に立つ若い愁里愛を若い瑯壬生が背後から抱擁し、やがて若い愁里愛がそれからの愁里愛に入れ替わり、ついで若い瑯壬生がそれからの瑯壬生に入れ替わって、遥かな時を経て2人の愛は成就したかに見えましたが、それからの愁里愛をその腕の中から失って力を失い舞台の上へと崩れ落ちたそれからの瑯壬生の亡骸は舞台背後の壁の開口部に運ばれ、そこに現れた収容所の死体たちと共に波の音にゆらゆらと揺れています。ベッドの上に1人立つそれからの愁里愛が遠く瑯壬生を思う泣き笑いのような表情を浮かべて立ち尽くすうちに、舞台上は暗転しました。

前半は「ロミオとジュリエット」をほぼそのままなぞって進んだ話が後半でシベリア抑留に転じるとは予想を超えていましたが、後から戯曲を読み返してみると、主題の大きな変転の中で「名前を捨てる」「手紙が届かない」というモチーフが重い意味を持って前半から後半に引き継がれていることがわかります。とは言うもののやはり、第2次世界大戦で起きた事柄に関する予備知識がないと本作を理解することは少々厳しいのも事実。本作の底本となっているのは『収容所ラーゲリから来た遺書』(辺見じゅん著)で、その中で描かれる、収容所で亡くなったある人物の遺書を生き延びた人たちが(書き物を持ち出すことが許されないので分担して)記憶し遺族に伝えたという史実が本作にほぼそのまま生かされています(「白樺の肥やし」も同書の中にそのまま出てきます)。同類の系譜につながる作品としては731部隊を取り上げた「エッグ」(2012・2015年)、人間魚雷・回天を描いた「逆鱗」(2016年)がありますが、「エッグ」も初演のときには731部隊の話だと思えたのに、再演のときには最後に描かれる満洲からの引揚者を襲う悲劇のウェイトが高いと思われたことを考えると、本作は「エッグ」の延長線上にあると言うこともできるかもしれません。

開演前に大きな話題になっていたQueenの曲は驚くほどの大音量をもって要所要所に用いられ、場面に応じてボーカル抜きなどの加工バージョンやライブバージョンも使用されましたが、舞台が盛り上がる場面では派手な曲調の「Seaside Rendezvous」や「Death on Two Legs」、神社の場面では「God Save the Queen」、殺人の場面では「Bohemian Rhapsody」、恋人たちの場面では「Love of My Life」といった具合にわかりやすい使い方がされていました。「'39」は距離と時とを隔てた恋人へのラブソングのような歌詞なのでこの芝居の主題にかなり近いと思われるのですが、平家の戦士たちの出陣でしか使われていなかったような?なお、台詞の中に「アカシアの雨に打たれてそのまま死んでしまいたい」「落葉の舞い散る停車場」といった昭和歌謡由来の言葉が出てきましたが、若い観客が敏感に反応していたのにはちょっと驚きました。

それにしても、1955年生まれの野田秀樹がなぜここまで戦中・戦後にこだわるのか?

本作の後半では舞台の上の方で鎌倉殿の飽食の日々、下で収容所のルーティーンの繰り返しが描かれます。鎌倉殿は平家の残党を使役する立場ですから、そのままならロシアのことになりそうですが、その俗物ぶりに対する劇作家の冷ややかな眼差しは、歴史の記憶を風化させて豊かな現在を謳歌する私たちに向けられているようにも思えます。そう考えるなら、やはり本作は「今」描かれるべき主題を提示していると解することもできそうです。

最後に主要キャストについて。

松たか子・上川隆也
あの「逆鱗」から3年、野田秀樹の戦争を語り継ぐ作品における語り部としての松たか子の存在感は、ますます健在でした。前半ではところどころに突き抜けたキャラクターを垣間見せて笑いを誘いながら、後半では一転して……という手紙は届かなかったのリフレインや遠く過去に向けられるおーい!という呼び掛けの絶望感、そして最後の手紙の朗読の痛切さ。
一方、上川隆也の芝居を見るのはこれが初めてでしたが、開幕早々の「俊寛」の場面から他を圧する風格のようなものがあり、その後の随所に出てくる野田芝居らしいコミカルな場面でも品を失うことがなくて、本当に舞台に映える人だなと思いました。
広瀬すず・志尊淳
広瀬すずはこれが初舞台だそうですが、とてもそうは見えないオーラを感じました。とりわけ、上述の通り法皇の庵を目指して舞台上を走り回る場面や、その後にひとり仮死の毒を仰ぐ場面の思い詰めた表情には圧倒されました。志尊淳も広瀬すずの美少女ぶりにふさわしいピュアな少年(原作ではロミオもジュリエットも10代半ば)を演じて、それからの2人と好一対をなしていました。
橋本さとし・小松和重・伊勢佳世
源義仲・法皇・源頼朝・平の虚仮威を演じた橋本さとしには脱帽。結婚式の場面での妙にたどたどしい日本語を使う神父風の法皇や、風船を身体中につけて空中を遊泳しつつ登場する源頼朝(後方の壁から下がるときに風船のいくつかが扉にはさまるアクシデント!)、Brian Mayそっくりの髪型と顔とで塹壕に逃げ込む平の虚仮威。どれをとっても最高です。
平の水銀・平の白金を演じた小松和重は「走れメルス」「贋作 罪と罰」「パイパー」で見ているものの申し訳ないことにこれまであまり印象に残っていなかったのですが、今回はマキューシオとベンヴォーリオを兼ねた大事な役柄。しかしそれ以上に、愛する義仲の仇として瑯壬生をつけ狙う巴御前を演じた伊勢佳世の怨念を全開にした演技は強烈でした。
竹中直人・羽野晶紀・野田秀樹
竹中直人が野田秀樹の舞台に登場するということにはずいぶん驚いたのですが、ド派手な衣装が権力欲を身に纏ったように見せるエネルギー全開の平清盛と、打って変わっていつもおどおどとしている平の凡太郎という真反対の人格をいずれも見事に見せてくれる彼を見ると、芝居にぴったりはまっていてさすがだと思いました。
羽野晶紀はこの日は喉をいためていたのか声が出ていなかったように思いましたが、源の生母・平の溺愛母・尼マザーッテルサの三役がどれも似たテンションになっていたのが損をしていたようにも感じます。一方、源の乳母を演じた野田秀樹は安定のバイプレーヤーぶり。クリスマス休戦の日に、人はどんな理由でも休日だけは受け入れるということの説明として突如キレて山の日って!山の日ってさぁ!山の日って、何を祝えばいいんだよ……でも休むけどとやったのがバカ受け。しかし終盤、飽食の鎌倉殿にひたすら御馳走を給仕し続けるその姿には、どこか背筋が凍るものが感じられました。

第1幕が1時間35分、第2幕が1時間10分という長尺の舞台でしたが、終わってみれば一気呵成だった感覚です。なおタイトルには「Kabuki」とありますが、あらかじめ野田秀樹が宣言していた通り、歌舞伎の要素は皆無でした。

配役

それからの愁里愛 松たか子
それからの瑯壬生 上川隆也
源の愁里愛 / 愁里愛の面影 広瀬すず
平の瑯壬生 / 瑯壬生の面影 志尊淳
源義仲 / 法皇 / 源頼朝 / 平の虚仮威 橋本さとし
平の水銀 / 平の白金 小松和重
六波羅禿の巴 / 巴御前 / 尼トモエゴゼ 伊勢佳世
源の生母 / 平の溺愛母 / 尼マザーッテルサ 羽野晶紀
源の乳母 野田秀樹
平清盛 / 平の凡太郎 竹中直人