特別展 三国志

2019/07/21

東京国立博物館(上野)で「特別展 三国志」。「リアル三国志」を合言葉に、漢から三国の時代の文物を最新の成果によってひも解くというコンセプトの展覧会です。

『三国志演義』の方は高校生のときに学校の図書館で120回本の邦訳を読んでおり、その後に吉川英治でも読んでいるので、時代背景や登場人物のあらましは予備知識として持っていますが、この展覧会はもちろん史実としての三国鼎立の時代をとりあげようというもの。しかも、個人の事績に光をあてるという要素は強くなく、伝来していたり出土したりした文物をもとに三国の時代を再現しようという、ある意味正攻法な展覧会です。

プロローグ 伝説のなかの三国志

三国志の世界が現代の人々に広く伝わることになったのは、元末・明初に成立したとされる『三国志演義』があってのこと。会場には横山光輝の『三国志』の原画がところどころに掲示されていました。横山光輝の中華物では『水滸伝』の方に私は親しんでいたのですが、16年間にわたり描き続けたこの『三国志』が、横山光輝の代表作とされるようです。

そして、『三国志演義』の著名な場面(関羽が黄巾の将を斬る場面や諸葛亮孔明の出山、張飛の関羽への謝罪、趙雲による阿斗救出)が墨画・壁画・人形などで示されたコーナーの奥まったところに、この像が置かれていました。

像高172cm、明の時代に作られた青銅の関羽像です。比較的スリムで髯の量も多くないことから神格化が始まる前の制作と考えられるそうですが、それにしても武人としてのみなぎる力感が圧倒的で、「義」の人・関羽に対する製作者の尊崇の念が窺えます。

第1章 曹操・劉備・孫権―英傑たちのルーツ

ここからは史実としての三国時代(魏・蜀・呉鼎立の時代)と、その前史である漢朝末期をあわせた「三国志の時代」(曹操が生まれた西暦155年から後漢が滅びた220年を経て晋が天下を統一した280年まで)にまつわる文物を紹介していくコーナー。最初に時代の主役となった3人の人形が展示されていました。これはNHKの『人形劇 三国志』(1982年-1984年)に登場したもので、作者は川本喜八郎です。

展示されていたのは、3人のそれぞれの家系を示す出土品の数々で、曹操の父親が葬られた墓から出土した玉豚、劉備がその末裔だと主張した中山靖王の栄華を伝える金銀鍍金の青銅壺、海洋国家であった呉の特色を示す貨客船を模した土の焼物など。

第2章 漢王朝の光と影

漢の時代には豪華な墓を築く「厚葬」が美徳とされ、そのために漢時代の墓からはさまざまな副葬品が出土しています。このコーナーではそれらを展示して漢王朝の栄華を示した後、黄巾の乱の鎮圧に漢王朝が各地の武将を頼みとしたことが群雄割拠を生んだ経緯を示していました。

それらの文物もさることながら、興味深く見入ったのはこのコラム的な展示です。後漢後期の2世紀中頃には6,000万人ほどもあった中国世界の人口が、三国時代の3世紀中頃には1,000万人を切っている状態で、その一因には寒冷渦の影響が考えられるとのこと。当時は今よりも年間平均気温が1度以上低かったと考えられ、1度下がれば植物の生息期間は1カ月ほど短くなり生息可能高度も170m低くなるので作地面積が著しく減少するのだそうです。この「三国時代には中国の人口が極度に減ってしまった」ということは以前に本で読んだことがあったのですが、こうしてグラフで示されると一層強いインパクトを感じました。

同時に、董卓にゆかりのあるらしい人物の墓に副葬された青銅製の儀仗俑のリアルな造形や、後漢最後の皇帝となった献帝が皇位を譲った魏の曹丕(曹操の子)によって穀倉地帯で余生を厚遇されたことを示す穀倉楼の模型(五層・四層・三層とそれぞれに見事な意匠)に目を見張りました。

第3章 魏・蜀・呉―三国の鼎立

次に、後漢時代から三国時代にかけての兵器や合戦にまつわる文物を展示するコーナー。

赤壁の戦いに際し諸葛亮孔明が三日で10万本の矢を集めたという『三国志演義』のエピソード(『三国志』の裴松之註では、船で偵察に出た孫権が矢を片舷に受けて船が傾いたため、反対側を敵に向けて矢を受けてバランスを取ったとされる)をかたどったディスプレイが大迫力。この時代は通常の弓矢のほか、大射程の弩が威力を発揮し、接近戦では剣、刀、槍、矛、戟が用いられていましたが、目を引いたのはこの武器です。

これは鈎鑲こうじょうという防衛用の武具で、使い方を示す図も掲示されていました。この図では左手の鈎鑲で相手の戟を止めて右手の刀で攻撃していますが、魏の初代皇帝であり文武に秀でていた曹丕は、一対の鈎鑲を両手で扱う武芸を学んでいたそうです。そのほか、見るからに踏むと痛そうな撒菱や、張飛が振り回したとされる蛇矛じゃぼう(長さ4m!)も。

こちらには諸葛亮孔明の人形と、その隣に孔明の「南征」でたびたび反乱しその都度捕らえられては赦され(七縱七禽)遂に帰順したという蛮王・孟獲の人形(長大な綸子が特徴的)が並んでいましたが、実際には南征先であった四川省南部から雲南にかけての地域には後漢時代に漢人が入植しており、南征は漢人豪族を支配下に入れることでその地で産する銅などの地下資源を確保することを目的としていたそうです。そして、そこで得られた資源も活用して実行されたのが、魏に対する軍事行動である「北伐」。その決意を記した「出師の表」の抜粋が掲げられていました。

第4章 三国歴訪

このコーナーは、魏・蜀・呉の風土の違いを示そうとするもの。西晋の左思による長編詩「三都賦」の抜粋が掲示されており、そこには「めぐみの蜀」「にぎわいの呉」「おごそかなる魏」の順に三国それぞれの都が描写されていました。この詩は人気を博し、識者はこぞってこれを写そうとしたことが「洛陽の紙価を高からしむ」の故事成語であるということを、恥ずかしながら初めて知りました。

まず、漢王朝の中心地であった黄河流域を押さえた魏については、日本との関係も想起される鏡が展示されていました。

このコーナーでは、三国時代の「第四極」として遼東の公孫氏が独自の存在感を示していたことにも言及していました。卑弥呼の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡も、関係の深い鏡が公孫氏一族の墓から出土しているとのこと。この公孫氏は西暦238年に司馬懿によって滅ぼされ、卑弥呼が遣使を魏に送って親魏倭王に封ぜられたのは、その翌年のことです。

かたや農作物をはじめとする物産が豊かで「天府」と呼ばれた蜀からは、舞踏俑や調理俑。その楽しげで生き生きとした描写からは、蜀の人々の恵まれた暮らしぶりが窺えます。

長江下流域を支配した呉は、高い造船技術と地の利をもって東南アジアの諸国とつながり、呉からは青磁が輸出されました。青磁の神亭壺は上部に楼閣や壺を配し、側面に蟹や亀、魚などの浮彫りが施されて、埋葬者に死後も豊かな海産物を届けようとしているようです。

かたやこの大きな銅鼓(直径90cm弱)は、交州(現在のベトナムから広西チワン族自治区にかけて)に出土するもの。海のシルクロードとつながる物産集積地であるこの地域を直接統治し海洋交易の利をもくろんだものの、そのために反乱を頻発させるようになったことが呉の滅亡の一因となったとの解説がなされていました。

第5章 曹操高陵と三国大墓

今回の展示の目玉の一つ、曹操高陵を紹介するコーナー。2008年からその翌年にかけて河南省安陽市で発掘された西高穴二号墓から出土した副葬品の石牌に「魏武王」と記されていたことなどから、この墓が曹操の高陵であることが確実視されるようになったそう。

こちらは会場で入手した朝日新聞の記念号外に見る曹操高陵。曹操は死に際して「厚葬」ではなく「薄葬」とするよう遺言したとされており、発掘時には既に盗掘がなされていたために埋葬当初がどのようであったか確かなことは言えないものの、おそらくはその遺言は守られたのではないかという見立てがなされています。

ただし、曹操高陵からの出土品の中に白磁の罐があったことは特筆に値するそうです。というのも、白磁の誕生は6世紀の隋の頃からとされているためで、青磁生産の過程で突発的にこうした器が生まれてもおかしくはないものの、類例の発見が待たれる状態にあるとされていました。

蜀の大墓からは、大小400個もの円銭を飾った青銅製の揺銭樹、呉の大墓からは虎形棺座。きらびやかではないものの、これらの文物からは、立派な墓室に手の込んだ副葬品と共に故人を葬ろうとする意思を見てとることができます。

もちろん、そのように葬った本人も自分の死後は子孫の手で同様に手厚く葬られることを強く願っていたことでしょう。

エピローグ 三国の終焉―天下は誰の手に

最後は、世界一短い『三国志』。「晋平呉天下太平」磚です。晋によって最後に滅ぼされた呉に属していた現在の江蘇省で出土したものですので、そこには平和を喜ぶばかりではなく、新たな支配者となった晋に対する複雑な心境も反映されているのではないか、と解説されていました。

事前の予想を上回る、面白い展覧会でした。史実としての「三国志の時代」と「三国志演義の世界」をしっかり区別しながらも漫画の原画や人形で『三国志演義』の世界観への接近を図るあたり、大変バランスのとれた演出がなされており、見飽きることがありませんでした。ここで紹介した文物は出展品のほんの一部に過ぎず、そして東京での会期は9月16日までとまだまだ長く続くので、三国志の世界に少しでも馴染みがある人は、上野に足を運ぶことをおすすめします。