塾長の鑑賞記録

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私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

京劇西遊記2019〜旅のはじまり

2019/06/11

東京芸術劇場(池袋)で、上海京劇院の「京劇西遊記2019〜旅のはじまり」。

上海京劇院の来日公演を初めて観たのは2000年の公演で、そのときの演目の一つ「三岔口」で宿の主人・劉利華を演じたのが、まだ若かった厳慶谷です。上海京劇院の公演はその後もたびたび観に行き、そこでのお目当ては主に青衣と武旦を兼ねる美貌のヒロイン・史敏だったのですが、「双下山」の本無や「烏龍院」の張文遠を演じて客席を沸かせた厳慶谷の存在感もまた抜群でした。

大蔵流狂言を学んだことがあり日本通であるその彼が、今回の公演では主役の孫悟空を演じるだけでなく構成・演出を兼ねるということで、これは面白いものになるに違いないと確信し、チケットが発売されたらすぐに申し込んでおいたところ、当日会場に着いてみれば「満員御礼」の札。京劇公演でこれは稀有なことだと思われますが、それだけ京劇ファンの厳慶谷に対する期待が高いということなのでしょう。

京劇の「西遊記もの」には、孫悟空が天上界で斉天大聖として活躍する前史を扱うもの(「閙天宮」など)と、三蔵法師の供としての求法の旅のエピソードを扱うもの(「火雲洞」「火焔山」「無底洞」など)に二分されますが、今回扱うのはその間にあって、孫悟空が三蔵法師と出会い、その従者となる経緯を描くものです。

第一場:長安 化生寺

三蔵法師の旅の始まりは長安の化生寺の堂内からで、スモークがたかれ、釈迦如来とおぼしき仏像の背後からは後光がライティングで飛ばされてモダンな感じ。玄奘役の李春は文武小生で、その裏声のような高音の唱に特徴があります。白煙の中から登場し白煙の中に消えていく観音菩薩の田慧(青衣)は京劇特有の美女ファッションで、スポットライトとエコーの効果でとてもありがたい雰囲気に包まれています。その言葉に従って天竺へ大乗仏法三蔵経を求めにゆく旅に立候補したのが玄奘で、皇帝李世民から義兄弟の契りと三蔵の名を与えられて覚悟を決めたところで第一場は終了。

この場はこの後に続くストーリーのイントロダクションに過ぎず、皇帝李世民役の徐建忠(老生)の出番もこれでおしまい。それはひどいのではないかと思いつつ過去の記録を見てみたところ、徐建忠は2006年の「楊門女将」でも宋王・仁宗役を演じており、どうやらこの類の役柄が彼の十八番である模様です。

第二場:山道

印象的な笛の音に乗って、小坊主二人(丑)が登場。険しい山道を不安げにかき分けている場面なのですが、この二人の滑稽な仕草や表情がまずは見どころで、コサックダンス風に足を使ったり、バレエの540のように空中で軸足の周りにもう一方の足を旋回させたり。数珠を首の周りでくるくると回す型(?)は「双下山」を連想させます。三蔵法師を導いて先に進もうとしたとき、小坊主の一人がひとり芝居で上手に引きずり込まれてしまい、そこへ下手から現れた豹柄の漁師・劉伯欽が刺叉を上手袖へ投げ込んだものの、その小坊主は虎に食べられてしまったようです。このことにすっかり怯えたもう一人の小坊主は三蔵を置いて逃げてしまい、劉伯欽がこの山の道案内を買って出ることになりました。

三蔵が旅路の厳しさを歌う唱を聞かせたとき、助けを求める孫悟空の声が響き、いったん暗転した後に舞台上には岩に取り込まれて顔を手だけを出した状態の孫悟空の姿。その懇願に応じて岩に貼られた護符を三蔵が剥がすと電子音と共に護符は空中に消え、スモーク、雷鳴、稲光の中で孫悟空を閉じ込めていた岩山がバラバラに崩れて、孫悟空が全身を現しました。頭上からのスポットライトを浴びたその姿は、かつて天上界を騒がした斉天大聖としての神々しさを備えていましたが、猿らしい仕草も忘れてはいません。低く沈んで高速回転、一本足を軸に体を倒して回転などと体術の冴えを見せたのち、まったく息切れすることなく身の上を語る唱を聞かせました。石猿として生まれ、妖術を学び、天上界で弼馬温に任じられ……と唱う孫悟空にところどころで三蔵と劉伯欽は合いの手を入れるのですが、任命された弼馬温がただの馬番だと唱われたときに劉伯欽が「それは役不足でしょう」と感想をもらすと、孫悟空は「そうだろう?」と同意を求めて劉伯欽の腕をとりました。この辺り、なかなか芝居が細かい。

結局は如来に負けて五行山に五百年間閉じ込められたというくだりで孫悟空はしおしおになり、三蔵の供となって西方に向かいたいと希望を述べました。これを受け入れた三蔵が、身体中コケだらけ(緑の衣)の孫悟空に法衣を与えようとしたところ、遠くから虎の声。これにピンときた孫悟空は、下手の袖から飛んできた棒を受け止めると、上手から現れた虎を立回りの末に倒し、上手袖で皮を剥いで(という設定で、三蔵法師は思わずおののく)自分の衣にしてしまいました。ここでさらに孫悟空が体術の冴えを見せてから幕。

厳慶谷、神経の行き届いた演技とテンポの良い演出でここまで一気呵成に見せてくれました。

第三場:山中の祠

山中の祠に落ち着いた三蔵と孫悟空を山賊たちが襲う場面。いきなりキレキレの前転技の連続で山賊たちが登場し、客席からはおおーといった声が上がります。

どことなくドラキュラのような、それでいてどこかしら抜けていそうな山賊頭は「カモが来た」と拳を突き上げて大喜び。その気配を察している孫悟空は、三蔵を祠に送り込むとわざと山賊頭が見ている前で路銀を数えてみせました。大喜びした山賊頭が背後から路銀に手を出すものの、ことごとく空振り。卓の上で孫悟空が寝るふりをしたすきにやっと路銀の入った袋をせしめた山賊頭はしめしめと客席にアピールしましたが、孫悟空の術に翻弄されてしまいます。路銀を取り戻された山賊頭と孫悟空とのだんまり風の立回りは(それほど速くはないものの)「三岔口」の引用?切られて死んだふりの孫悟空にVサインを示した山賊頭は、卓上で足を上げた姿で倒れている孫悟空の「死体」をシーソーのようにゆらして「へっへっへっ、おもーしろーい」と日本語を使い喝采を浴びていました。このように日本語の台詞を紛れ込ませるのも厳慶谷がよく使う手で、わかっていてもつい笑ってしまいます。

孫悟空、いよいよ本領発揮。まずはナイフを奪って床に投げつけると、本当にびしっと刺さりました。さらに山賊たちとの立回りで棒を取り出すと、山賊が投げた刀を棒で受け止めてくるくると回してみせ、そこから一気にスピードアップして山賊たちを体術で翻弄します。さらに術をかけ、山賊たちは三組までが同士討ち。山賊頭は戦意を失って引きつった顔をしていましたが、出てきた三蔵が許してやるように命じているのに孫悟空は床に刺していたナイフを山賊頭に渡すと、術をかけてそのナイフで自分を刺し殺させてしまいました。これはさすがに山賊頭が哀れです。

三蔵が孫悟空を強い口調で戒めると、怒った孫悟空はシリアスな表情と仕草に変わり、三蔵が孫悟空を咎める唱に対し逆ギレの唱を唱うと筋斗雲に乗って花果山へと飛び去ってしまいます。この飛び去る場面は、下手奥に湧き上がったスモークの中に孫悟空が入ると背景の左下から右上へ張られたワイヤーを伝って孫悟空の人形が飛んでゆくというユニークなもの。ともあれ、供を失った三蔵がスポットライトの中で座禅を組み祈っていると、下手奥に置かれた岩の中に観音の姿が現れて三蔵に金箍と木魚を授けました。そこへ龍王に諭されたと言って都合よく戻ってきた孫悟空。うまい具合にその頭に金箍をはめることに成功した三蔵が呪文を唱えると、金箍は孫悟空の頭を締め付けます。はじめは不思議がっていた孫悟空は、三蔵との心理戦の末についにそれが三蔵によって操られていることを見つけましたが、さては!という顔をしたとたんに三蔵に木魚を叩きまくられて頭を締め付けられ、すっかり参ってしまいます。なってこった……とがっくりきた表情の孫悟空は、三蔵に命じられるままに馬鞭を手にして馬を引いてくる様子を示しましたが、憤懣やるかたなく馬に八つ当たり。さらに三蔵に馬を渡して背後から「アー」と迫りかけたものの、三蔵に振り返られて「阿弥陀仏」とごまかします。三蔵が去ったあとに残された孫悟空は、悔しがりながら金箍を外そうとしましたが外せず、三蔵の後を追って上手へと消えました。

第四場:鷹愁澗

険しい崖が立ちはだかり滝が激しく落ちる場所、鷹愁澗。激しい波の動きを模した旗をひらひらとさせる十二人の水族たちマスゲーム風の動きが見事で、彼らが旗を振るときのバサバサという風切り音が大迫力です。水族たちを率いる小白龍は、もともと西海竜王の太子でしたが失火で宝珠を焼いてしまい、死罪となるべきところ観音菩薩のとりなしで死罪を免じられ、五百年間三蔵が来るのを待ち続けていたという役回りです。そうした出自があるだけに、綸子を使った見得が見事に颯爽。ところが行き合った三蔵をそれと知らずにその馬を奪って呑んでしまい、ここから小白龍及び水族たちと孫悟空及び呪文で出現する小猿たちとの激しい立回りとなります。

まずは水族たちと小猿たちのダイナミックな前転やバク転。舞台上にX字を描くように上手奥と下手奥から斜めに飛び込んで交差していき、客席からは熱い「好!」の声が掛かります。続いて小白龍と孫悟空の対決は棒を用いたすごいスピードのもの。入れ替わって水族女子と子猿の一騎打ちや一対複数の立回りが次々に繰り広げられます。ことに思い切りのけぞった水族女子の上を小猿が飛び越えてみせたときは、拍手喝采が湧きました。孫悟空自身も負けておらず、如意金箍棒をもって小白龍からその武器(長い棒の両端に球状多面体の錘(重り)をつけた打撃系武具)を絡め取ってしまいます。さらにこの武器を地面に立て、勢いをつけて棒の上に横渡しにした状態で浮かせると、次には棒の先端に武器を垂直に立ててみせました。かなわずと小白龍が下がると、四人の水族が持ち出した武器(短めの棒の片方の先端に先ほどと同じく先ほどの武器が半分になり棒の先に錘が一つついたもの)を奪い取って二本でジャグリング。さらには剣玉のように片方を高く投げ上げて空中でもう一本の錘の上に立ててみせました。この一連の技の冴えはすごい。厳慶谷の技術と、それ以上に素晴らしい集中力に脱帽です。

最後は全員が出てきて入り乱れての乱舞となり、孫悟空が小白龍を圧倒したところに観音が現れて、三蔵こそ小白龍が待ち続けていた僧であることを告げました。これを聞いて小白龍は上手に消えて、入れ替わりにそちらから白い馬鞭が投げ入れられ、小白龍が白馬となって三蔵の旅の供となることが示されて、熱気のこもった拍手喝采のうちに幕が下されました。

冒頭に「面白いものになるに違いないと確信」したとは書きましたが、1970年生まれで大ベテランの域に達している厳慶谷が孫悟空をどのように演じられるのか(体術ではなく演技で見せる演出なのではないか)と不安がなかったわけではありません。しかし、蓋を開けてみればそれは思い過ごしで、抑制というものを度外視した技巧満載の立回りは躍動感に満ち、これぞ京劇の醍醐味という感じ。ただし、単に飛んだり跳ねたりするだけの猿猴ではなく、天上界にあって斉天大聖と呼ばれた風格をもって舞台上を支配してみせたのは、鄭法祥が確立した鄭派の演技術を体現したものだそうです。

演出も、上海京劇院(海派)らしく随所に巧みな仕掛けを施したモダンなもの。緩急はついていても、どの場面を切り取っても目を離すことができない密度の高さを感じました。立回りと並んで京劇のもう一つの魅力である唱の美しさや力強さを味わう場面は多くはありませんでしたが、それは他の演目に期待すべきこと。満員の客席の反応もよく、総じてこれまでに見てきた「西遊記もの」の中でも極上の舞台であったと思います。

配役

孫悟空 厳慶谷
三蔵法師 李春
小白龍 洪小鵬
李世民 徐建忠
劉伯欽 劉軍
観音菩薩 田慧

あらすじ

第一場:長安 化生寺 唐代・貞観13年、皇帝李世民が営む法要に観音菩薩が現れ、衆生済度を願うなら天竺神音寺の大乗仏法三蔵経を求めねばならぬと告げる。皇帝はその求めに応じた僧侶と兄弟の契りを結び、唐姓を授け三蔵と名付ける。
第二場:山道 三蔵と供の小坊主二人は山道に差し掛かり、一人の小坊主が虎に食べられる。猟師の劉伯欽が虎を追い払ったがもう一人の小坊主は逃げてしまう。そこへこの五行山の下敷きになって500年がたつ不思議な猿=孫悟空が助けを求め、これを閉じ込めている護符をはがしてやったことで孫悟空は三蔵の弟子になる。
第三場:山中の祠 日が暮れて辿り着いた祠に三蔵を休ませた悟空は、路銀を狙って襲いかかってきた山賊たちをあしらい、術をかけて同士討ちをさせる。殺生を咎めた三蔵に怒った悟空は飛び去っていくが、観音菩薩が三蔵に金のタガを授け、戻ってきた悟空はまんまとタガを頭にはめられて三蔵に逆らえなくなってしまう。
第四場:鷹愁澗 滝が激しく落ちる鷹愁澗で水族たちを率いる小白龍は、天の掟を破ってここに落とされてから尊い僧の訪れを待っている。そこへ通りかかった三蔵の馬を奪った小白龍は、悟空と対峙する。悟空の毛から生まれた小猿たちと水族たちとの激しい戦い。ついに小白龍が悟空に圧倒されたとき、観音菩薩が現れて三蔵こそ小白龍が待っていた高僧であることを告げる。小白龍は馬に姿を変え、悟空と共に三蔵の供となる。