塾長の鑑賞記録

熊野

2019/04/26

セルリアンタワー能楽堂で、Bunkamura30周年記念「渋谷能」のプログラムのひとつ「熊野」。この「渋谷能」は、概ね月一回のペースで五流の若手能楽師が出演し不条理、正義、家族愛、恋愛、戦い、といったテーマに沿った様々な能を上演するというものです。この日のテーマは(もともと「パワハラ」の予定だったそうですが、それはあんまりだろうという話になって)「親想う心」。

その全体像は次のとおり。

  • 第一夜:3月1日|能「翁」宝生和英(宝生) / シテ方五流出演者によるトーク
  • 第二夜:4月26日|能「熊野」中村昌弘(金春)
  • 第三夜:6月7日|能「自然居士」佐々木多門(喜多)
  • 第四夜:7月26日|能「藤戸」髙橋憲正(宝生)
  • 第五夜:9月6日|能「井筒」鵜澤光(観世)
  • 第六夜:10月4日|能「船弁慶 白波之伝」宇髙竜成(金剛)
  • 第七夜:12月6日|舞囃子「高砂 序破急之伝」本田芳樹(金春) / 舞囃子「屋島」観世淳夫(観世) / 舞囃子「雪 雪踏之拍子」金剛龍謹(金剛) / 舞囃子「安宅」和久荘太郎(宝生) / 舞囃子「乱」佐藤寛泰(喜多)

第一夜の「翁」は見逃してしまったので、自分にとってはこの日の「熊野」が一連のプログラムの最初になりました。シテは、ここ数年応援している中村昌弘師です。

熊野ゆや

昔から「熊野松風は米の飯」(「米の飯のように美味しい」「これさえ演じれば能楽師は食うに困らない」の二説あり)と言われるほどの人気曲ですが、記録を見ると自分が「熊野」を観たのはこれまで一度きりで、それも2008年のセルリアンタワー能楽堂(シテ:大坪喜美雄、ワキ:宝生欣哉師)ですから10年以上前のことでした。しかし、それにしては懐かしさを感じないのは、2015年に世田谷パブリックシアターで現代能楽集VIII『道玄坂綺譚』(ユヤ:倉科カナさん、宗盛:眞島秀和)を観ているからだろうと思います。


今回座った席は脇正面の前から二列目、橋掛リにほど近いところ。橋掛リの短いセルリアン能楽堂だけに、お調べの囃子もすぐ後ろに聞こえます。舞台上に地謡と囃子方が揃ったところで「おまーく」の声が掛かり、ワキ・平宗盛(宝生欣哉師)の登場。風折烏帽子、薄青地に金色の桐の文様の狩衣、白大口という出立の宝生欣哉師は、昨夜の国立能楽堂に続いての出演です。そのワキの名乗リとワキツレとのやりとりに続いて次第の囃子となり、花柄の総文様が賑やかな唐織着流に文を懐に挿したツレ・朝顔(政木哲司師)が登場して、次第夢の間惜しき春なれや、咲くころ花を尋ねん

朝顔は遠江の池田の宿から熊野の母の手紙を持って都に上るところで、道行の謡を経て都に着いたところで熊野を呼び出すのですが、ちょっと風邪気味だったような?ともあれ、ツレの呼び掛けに応じて登場[1]したシテ・熊野(中村昌弘師)の姿は紅白の段に細かい草花や蝶の絵柄を散らした美しい唐織で、草木は雨露の恵み。養いえては花の父母たり。まして人間においておや。あらおん心もとなや候[2]と、いつにも増しての深い美声が見所に広がります。シテとツレとの問答があり、ツレが熊野の母からの文をシテに渡すと[3]、そこに書かれている老母の病状を読んだシテはすぐにも宗盛の許可を得て池田へ戻ろうと心を決め、ここでツレは退場しました[4]

ワキツレに取り次いでもらってワキの前に出たシテが老母の文をお目にかけたいと申し出たところから「文の段」に入っていきますが、ここはワキが「さらば諸共に読み候べし」と一緒に読む演出と「見るまでもなしそれにて高らかに読み候へ」とシテ一人に読ませる演出のふた通りがあります。金春流は本来前者で、そこには宗盛の熊野に対する一定の心遣いがこもるのですが、この日は後者の演出を採用していました[5]。シテが読み上げた老母からの文は、美文の中に娘に一目会いたいとの心情を切々と訴えるもの。ただ返すがえすも命の内に今ひと度、見参らせたくこそ候へとよとの文の最後を読むシテの口調から、母の咽び泣きが聞こえてくるようです。

ここでシテはワキに暇を賜りたいと願い出るのですが、ワキはこの春ばかりの花盛り、いかでか見捨てたもうべきとにべもありません。必死になって食い下がる[6]シテ、容赦なく車に乗れと命じるワキ。囃子方のアシライの内に引き出された花見車は錦の天蓋、赤と白の枠と車輪を持つ美しいもの[7]です。シテがこの車の中に入り、ワキとワキツレも立って諸共に清水寺へと花見に向かうことになりますが、東山に向かえばその先には母のいる東国が思われて、シテは中正面方向[8]を望みシオリ。以下、サシ・下歌・上歌と続く長大な地謡のうちに京の情景が謡い込まれ、さらにロンギがあって六道の辻を過ぎ、車は清水寺の門前に達します。この間これといった動きはない[9]のですが、地謡を聴いていると花も盛りの春の都の様子が眼前に立ち上がってくるようで、とても美しいところです。

車から降りて中央に出たシテは清水寺の仏の前で南無や大慈大悲の観世音、母に会はせてたび給へと美しい節回しの謡で祈りますが、ワキは「どうして熊野はこないのか」といらだってワキツレに命じ、シテを花見の宴の席へと来させました。このあたり、確かに元のテーマであった「パワハラ」を思わせるところ。もっとも熊野はその道のプロなので、宗盛の前に出るとあら面白と咲いたる花ども候や。いつの春よりも面白う見えて候と気分を変えて見せ、ワキが機嫌を直してげにいつもの春よりも面白う見えて候と語るのに対し短冊を出して即興で和歌など詠んでみてはどうかとその場を盛り上げようとしますが、続く地謡がシテの内心の嘆きを謡うとシテは思わずシオリます。

『平家物語』「巻一・祇園精舎」を巧みに引用したクセを大小前に下居して聴いていたシテは、やがて立って足拍子。「薄霞」「青かりし葉」「花盛り」などと季節感あふれる清水寺の情景を謡う詞章をバックに、シテは大きく滑らかに舞っていきます[10]。そしてシテがワキに酒を勧めると、ワキはシテに舞を舞うように命、ここから中ノ舞になります。ここは無理強いされて舞うところなので気乗りしないさまを見せることになっているのですが、観ているとシテは(あるいは舞台を観ているこちらの心が)徐々に舞に没入してゆき、そこには「熊野」を演じているシテではなく、800年前に確かに生きていたであろう熊野その人が現れたように見えました。

やがて、急に降ってきた村雨にシテは舞を止め(笛も止まり)、我に返った様子となって花を散らす雨を嘆くとおろおろと舞台上を巡り扇で散る花を受けようとしましたが、そこに命尽きようとしている母を思う心を重ねてシオリ。大小前に着座したシテは、左袖から短冊を出し、扇を筆に見立てて墨を含ませる型を見せるとさらさらと歌を書きつけました[11]。これを開いた扇に載せ、テンポアップした囃子方を背中で聞きつつ、すばやくワキのもとへ届けるシテ。短冊を受け取ったワキが謡う歌はいかにせん都の春も惜しけれど。ここにシテが馴れし東の花や散るらんと下の句を続けたところでワキはついに心を改め[12]、この上は暇をとらせるのでとくとく東に下るべしとなります。これも観音様のおかげと驚きかつ喜んで合掌したシテは、ただちにその場から東路さして下がってゆくことになります。キリの最後の東に帰る名残かなに対して、シテは橋掛リに出ずに常座で留拍子を踏む演出もあれば、二ノ松または三ノ松で都への名残を示しつつ留拍子を踏む演出もありますが、この日のシテは二ノ松まで下がって扇をかざし舞台を見やると足拍子、さらにそこから舞台に戻って常座で留拍子を踏みました。

すばらしい「熊野」だったと思います。最初から最後まで90分出ずっぱりの中、中村昌弘師は細部まで気配りの行き届いたシテを勤められ、どこにも緩むところがありませんでした。翌日にご自身のTwitterで今できることは全てやり切りました。しかし、良い舞台をつくるには盤石な基礎技術なくしては叶わないと痛感させられました。まだまだ先は果てしなく遠いですと書いておられましたが、何年か(何十年か)たち「盤石な技術」を身に付けて再び「熊野」を舞われたとしたら一体どういうことになるのか、今から楽しみです。

また、事前講座で宗盛の心情についての説明を受けたことで、この曲に対する見方も変わりました。熊野が老母のもとに帰りたいと願う気持ちの深さは十分にわかっていても、寵愛する熊野と共にこの春ばかりの花見をしたいと思ってこれを許さず、しかし馴れし東の花や散るらんと歌を詠まれて断腸の思いで熊野を送り出す宗盛。これが熊野との今生の別れになることを、宗盛はよくわかっていたはずです。このときの宗盛の懊悩はいかばかりであったか。次に「熊野」を観るときは、この観点からも舞台を注視したいと思います。

配役

能・金春流「熊野」 シテ・熊野 中村昌弘
ツレ・朝顔 政木哲司
ワキ・平宗盛 宝生欣哉
ワキツレ・太刀持 則久英志
杉信太朗
小鼓 成田達志
大鼓 白坂信行
主後見 高橋忍
地頭 辻井八郎

あらすじ

熊野

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