塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

厳島神社参詣

ここ数年、年に2回のペースで行なっている社寺巡りの今年2回目は、ずっと昔から一度は行ってみたいと思っていた厳島を行き先に選びました。主目的はもちろん厳島神社ですが、島の最高峰・弥山にも登ってみたいもの。さらに、せっかく広島県へ足を運ぶのであればとお隣の山口県岩国市にも足を運ぶことにしました。こちらは岩国城と錦帯橋が有名ですが、内心は獺祭の旭酒造見学(という名の試飲)がお目当てです。

2018/11/24

旅の始まりは、早朝の羽田発の飛行機に乗って一路広島へ。

この日は抜群の快晴で、甲府盆地上空を通過するときには、八ヶ岳から韮の葉の形に伸びる七里岩台地がはっきりと見えました。これは車で中央自動車道を小渕沢方向へ走ると韮崎から須玉にかけて左側に見えている脆い岩の台地で、約20万年前の八ヶ岳山体崩壊による岩屑なだれが形成した平坦地が東西の川によって侵食されてできたものです。

広島空港から市内までバスで1時間ほど。少し早めの昼食として広島風のお好み焼きを食してから、平和記念公園近くの元安桟橋からの「ひろしま世界遺産航路」で厳島へ向かいました。

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30分ほどの高速航海で着いたのが、こちらの厳島(宮島)です。上の案内絵図では中央やや右寄りに厳島神社がありますが、方角としてはこの神社から海中の鳥居を結ぶ線は北西を向いており、その先には大野瀬戸をはさんで対岸の宮島口があります。

島に着いたのは13時過ぎ。投宿するにはまだ早い時刻なので、直ちに厳島神社に参詣することにしました。人に慣れた鹿の姿がちらほら見られる海沿いの道には老若男女、国籍も多様な観光客がぞろぞろ歩いており、厳島神社の人気のほどが窺えます。もともと日本三景のひとつ(他は松島と天橋立)、さらに今では世界遺産にもなっており、その集客力は筋金入りです。

厳島神社

厳島神社は安芸国一宮、祭神は市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命の宗像三女神。社伝によれば推古天皇元年(593年)の創建ですが、平安時代末期に平清盛が安芸守に任ぜられた頃から平家の庇護を受けるようになり、現在見られる大規模な社殿が整えられました。

この図のように、遠浅の湾の奥に水上社殿が並び、湾の出口に赤い大鳥居〈重文〉が立つ独特の配置ですが、社殿が建つ位置はもともと陸地で、これを掘削して海としたものだそうです。

参拝入り口から入って丹塗りの美しい東回廊〈国宝〉に入るとすぐに摂社客神社まろうどじんじゃ〈国宝〉。ここで御幣を振って神主になった気分になってから、先へ進みます。

東回廊の先、本殿の手前から奥を見ると、干潮で水が引いた場所にまん丸い池がありました。これは「鏡の池」と呼ばれ、ここに湧き出る水は干潮時には川筋となって大鳥居の方へ流れていきます。

こちらは卒塔婆石(手前)と康頼燈籠(奥)。『平家物語』によれば、鹿ヶ谷の謀議に加わったために俊寛・藤原成経と共に薩摩の鬼界ヶ島に流された平康頼は、成経と語らって千本の卒塔婆を作り海に流したところ、その1本が厳島に流れ着いて平清盛の知るところとなり、中宮徳子の安産祈願の恩赦により赦免されました。卒塔婆石は、その卒塔婆が流れ着いて引っかかったところ、康頼燈籠は帰京できた康頼が神恩に感謝して奉納したものと伝えられています。

厳島神社の前面には平舞台と呼ばれる舞台状の板の間が広がり、大鳥居に向かって桟橋が長く伸びています。かつて貴人は、満潮時に舟に乗って大鳥居をくぐり、この桟橋から神社に入ったのでしょうか。また平舞台の中央には高舞台と呼ばれる一段高い舞台があり、そこから一直線に祓殿・拝殿・幣殿・本社本殿〈いずれも国宝〉が連なります。見たところ鰹木や千木がないのが神社らしくないところで、そのために明治初期の神仏分離の際に危うく廃却の憂き目を見ることになりかけたそうですが、この社殿の様式や平面プランは寝殿造を神社に応用したものとされています。

厳島神社の社殿群は13世紀に二度の大火で焼失し、今ある建物はそれ以後のものですが、概ね平安時代の様式を守って今に伝えているとのこと。ただし、海に浮かぶその構造の必然から水害も受けており、あちらに見える能舞台〈重文〉も平成3年の台風で倒壊し、再建されたものです。それにしても舞台が遠い……舟に乗って観るという想定なのでしょうか?

西回廊〈国宝〉の陸地側にもいくつか見どころあり。大国主命を祭神とする大国神社〈重文〉はかつて供え物を御本社に運ぶ前に仮安置したところ、菅原道眞を祀る天神社〈重文〉は毛利隆元の寄進。反り返った反橋〈重文〉は勅使参向時に渡った橋で、高欄には毛利元就・隆元父子が奉納した擬宝珠があります。

大願寺

西回廊を渡りきって出口を出たところからすぐ近くにある大願寺にも立ち寄ってみました。こちらは高野山真言宗の寺院。もともと厳島神社の修造に関わるなど神社と関係が深かった寺院ですが、明治の神仏分離令によって厳島神社から八臂弁財天(秘仏)を遷したほか、数々の貴重な仏像を安置する寺院です。

ここは、まあ軽くスルー(申し訳ありません)。

清盛神社

厳島神社を迂回するように流路を付け替えられた御手洗川の海側(右岸)の細長い砂原は西松原と呼ばれ、御手洗川が運んでくる砂を堆積させたもの。その一角に清盛神社がありました。

こちらは昭和29年に平清盛没後770年を記念して創建された神社です。もともと平清盛・二位の尼・安徳天皇を祀る平家鎮魂の社が島の紅葉谷に建立され、それが江戸時代に厳島神社の裏にあった山王社に遷され、そして昭和になって清盛だけがここに祀られることになったという経緯のようです。

西松原から大鳥居を見ると、ちょうど潮が引ききっている様子。ここから石組みの堤防を降りて大鳥居の下まで歩いてみました。そちらの様子は、後ほど動画で。

千畳閣 / 五重塔

最後に厳島神社の東(桟橋寄り)の尾根上にある千畳閣〈重文〉まで登ってみました。

今は末社豊国神社本殿とされていますが、もともと豊臣秀吉の発願により大経堂として建てられたもので、未完に終わったために天井も壁もなし。かつてはここに釈迦如来・阿難尊者・迦葉尊者の像が祀られていましたが、神仏分離の際に先ほどの大願寺に遷しています。

千畳閣の隣に建つ五重塔〈重文〉は、その赤色の鮮やかさとは裏腹に、千畳閣よりも180年も古いもの(1407年建立)ですが、こちらも内部に納められていた仏像を大願寺に移しています。しかし、五重塔は誰がどう見ても仏教施設ですが、仏像を移せば神社の一部になれるというのはずいぶん大らかなものだという気がします。

さて、これでこの日の観光の昼の部は終了です。土産物屋や食事処が立ち並ぶ表参道商店街を抜けて、この日の宿「割烹旅館 山一」へと向かいました。

宿の食事は穴子尽くしの料理たち。お造りや柳川や白焼きや天ぷらや……といろいろな調理法で穴子を美味しくいただきました。これは私自身は覚えていないことですが、私がまだ小学生の頃に愛媛県北宇和郡(当時)にあった父方の実家で出された穴子料理を子供とは思えない量たいらげて祖父・祖母にいたく喜ばれたという話を思い出し、少ししみじみとした思いがしました。

しかし、この日のイベントはこれで終わりではありません。

宮島参拝遊覧船

桟橋に掲示されていたこのナイトクルーズのポスターに魅力を感じ、宿に入る前に申し込んであったのでした。船には船頭さんと案内のお姉さん、そして10人余りのお客が乗り、桟橋から厳島神社に向かって進むと静かに大鳥居をくぐり、暗闇の中にライトアップされた社殿を眺めてから、再び大鳥居をくぐって桟橋に戻るというコースを辿ります。

お姉さんの解説によると、宮島には三つの「ない」があり、それは「信号がない・コンビニがない・墓がない」なのだそうですが、歴史を辿れば14世紀頃までは厳島は島自体が御神体で人は住まず、本土の側に外宮も設けられていたということです。

なお、肝心のクルーズの様子については、下の動画でその一部を紹介します。

2018/11/25

2日目は、島そのものが御神体であったという厳島の最高峰・弥山に登ることにしました。

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弥山

起点となるのは厳島神社の裏手に紅葉谷。朝の大鳥居を眺めてから紅葉谷公園に入ると、その名の通りの紅葉の中を道が谷の奥へと続いています。

紅葉谷から登山道を登ることもできる(徒歩約1時間半)のですが、今回は文明の利器を利用することにしました。早立ちしたおかげで混雑もなく乗ることができたロープウェイは、どんどん高度を上げてゆき、眼下に厳島の豊かな植生が広がります。御神域であったおかげでこの常緑広葉樹の森は人の手が入ることなく原始林のままに残され、今では「弥山原始林」として国の天然記念物になっています。

途中のかや谷駅で乗り換えて、こちらからはほぼ水平の谷越えの移動となります。この移動の途中で早くも、風情のある多島海の景観を楽しむことができました。

終点の獅子岩駅に着き、そこからわずかの登りで展望台に出て、広島本土や周辺の島々の眺めを堪能してから振り返ると、顕著な花崗岩の露頭を示す弥山が見えていました。

尾根上の歩きやすい道を辿ると、紅葉谷へ下る登山道を右に分けてさらに進んだ先に弥山本堂と霊火堂。弥山本堂は唐から帰国した空海が霊地を探し求めてこの島に立ち寄った際に御堂を立てて百日間の求聞持秘法を修したところと伝えられ、霊火堂は修行に用いた火が今日まで消えずに燃え続けているところだそう。いずれもありがたい謂れのある御堂ですが、後者はなぜか「恋人の聖地」ということになっていました。

モダンな装いの石仏に見送られて先を急ぐと、道は三鬼堂・観音堂・文殊堂といった御堂を経由して山頂へと向かいます。

山頂直下は特に花崗岩の奇岩が連なり、岩が作る然の御堂の中に不動尊を祀る不動岩や、トンネルをくぐることになるくぐり岩、回廊状の岩などを経て、最高地点(標高535m)にある弥山展望台に到着しました。

中に売店やトイレも完備している立派な展望台の上からの眺めは絶景。厳島神社の大鳥居も小さく見えていました。なるほど確かに、厳島に来たら神社に参拝するだけでなく、この弥山に登らなければもったいないということがよくわかります。

元来た方向ではなく仁王門へ下ろうと山道を降りてゆくと、最初に行き会うのが干満岩です。岩の中程にポケットが開いており、その奥の水は塩分を含み、潮の満ち引きに合わせて水位を変えると言われているのだそう。

大日堂や水掛地蔵といったチェックポイントを横目に見ながら道を下って、弥山本堂に近いところに降りついたら仁王門を目指しますが、その前にひとつ、立ち寄るところがあります。

山道の途中から左へ折れて、紅葉の落ち葉を踏みしめながら小尾根の上へ。

そこにひっそりと佇むのが、朱色が鮮やかな小さい三つの社殿が可愛らしいこの御山神社です。厳島神社の奥宮で、厳島神社本社と同じ宗像三女神を祀り、古くから「さんきさん」と呼ばれ崇敬を集めていたとのこと。癒しのスポットとしてしばらく時間を過ごしました。鳥居の前の岩場からの眺めも高度感があってすてきです。

寄り道を戻って仁王門をくぐり、そのまま直進した先が駒ヶ林と呼ばれる山の花崗岩のピーク=竜ヶ馬場。大勢のハイカーで賑わっていましたが、ここは天文24年(1555年)に毛利元就と陶晴賢との間で行われた厳島合戦の際に、総崩れとなった陶軍の中で唯一抵抗を示し得た弘中隆包が立て籠もったところ。吉川元春の軍に包囲された弘中隆包は結局二日ほどで討ち取られるのですが、敗軍の武将がどのような希望と絶望を胸にここで最後の時を過ごしたのか、その心中が察せられます。なお、周囲には花崗岩の急崖が広がり、どうやらクライミングの岩場ともなっている様子でした。

駒ヶ林からさらに先に進んで大元公園へ下る道もありますが、厳島神社の背後の谷にある大聖院を訪れたかったので少し戻り、大聖院コースを下りました。その途中にあるのは白糸の滝。花崗岩の岩壁の上を水がかすかに流れる程度で、その名前のわりには美しくありませんが、降雨直後ならもう少し見栄えがするのでしょうか?

白糸の滝やその下にある滝宮神社は、治承4年(1180年)に高倉上皇が平清盛と共に厳島神社へ参詣した際に立ち寄ったところ。平成17年の台風で社殿や歩道が流されてしまい、かつての姿を知ることはできないそうです。そして、沢沿いの道を紅葉を愛でながら下り、大聖院に到着しました。

大聖院

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真言宗御室派大本山。神仏分離までは厳島神社の別当職。空海が開基したという伝承もありますが、文献上の初出は12世紀です。古刹ながら、明治20年の火災で堂宇の大半を焼失してしまい、現在の建物はそれ以後に再建されたもの。それにしてもこの賑やかな境内の様子は、さながらテーマパークのようです。

仁王門をくぐり、手すりに摩尼車が連なる階段を登ると境内となり、右手に大きな観音堂。まずこちらから参拝しました。

両界曼荼羅と見事に荘厳された内陣の仏具の数々といった、いかにも真言宗らしい設え。

おや、チベットの砂曼荼羅にチベット仏(弥勒菩薩)。なぜここに?と不思議に思いましたが、2006年に弥山の開創1200年を記念してダライ・ラマ14世による弥勒菩薩開眼法要が営まれたことに由来する模様です。

大聖院の伽藍は弥山の斜面に階段状に展開しており、観音堂のある境内から奥へと階段を登ると、さらにいくつもの御堂にお参りすることができます。その前に、勅願堂で波切不動明王へご挨拶。

波切不動明王は、豊臣秀吉の御身仏で、軍船宝丸に安置して海上安全と戦勝を祈願した本尊。そして周囲には千体不動がずらりと並んで壮観です。

一段上がった上の境内には大師堂があって、その裏手には願いごとを一つだけ念じることにより叶えられるという一願大師が合掌した姿で立っていました。そしてこの大師堂の下にあるのが、人工の洞窟である遍照窟。四国八十八箇所の本尊が安置された砂踏み道場だそうです。このあたりの作りは、高野山の弘法大師御廟や燈籠堂を連想させるものがあります。

最後に摩尼殿の二階に上がって伽藍の全体像を見下ろしてから、大聖院を辞しました。

島を出る前に少し腹ごしらえ。牡蠣や穴子を美味しくいただきましたが、穴子飯と揚げもみじ饅頭を食べる機会がなかったのが心残りです。

歴史の重みと自然の造形の面白みとを共に実感させてくれた厳島。はたして、いつかまたここへ来る機会があるでしょうか。

錦帯橋

岩国駅からバスに乗って約20分。前から一度見たいと思っていた錦帯橋に到着しました。

じっくり見るのは明日に回すことにして、まず一通りその美しいフォルムを目につけたことに満足してから、この日の宿へ。

宇野千代さんゆかりの宿「半月庵」で、岩国の洗練された食文化を味わうの図。右上の吸物に入っているのは岩国名産の蓮根の真薯、右下の押し寿司は岩国寿司。

食後に散歩に出てみると、錦帯橋がライトアップされていました。これまた風情があっていい感じ。橋の上を歩いてみると、アーチ部の勾配の強さが実感できます。

2018/11/26

岩国城

岩国は古くから山陽道の要衝とされており、平安末期には平家方の岩国氏、その後鎌倉時代には上述の厳島合戦にも名前が出てくる弘中氏がこの地を治めましたが、現在の姿に整備されたのは関ヶ原戦後のこと。敗戦によって毛利家が広島から萩に移り、その分家である吉川家も米子から岩国に移封されてから、錦川の右岸に張り出してその流れを屈曲させる横山の山上に横山城、麓に土居と呼ぶ居館、そして錦川の左岸に城下町がそれぞれ整備されました。錦帯橋はこの土居と城下町とをつなぐ木造橋で、それまでたびたび流されていた橋に変わって洪水にも耐えられるものとすべく、独特のアーチ形状をもって延宝元年(1673年)に建造されています。その後、折々の架け替えを経ながら現代まで当初の姿を維持していたのですが、昭和25年に台風で流失し、その3年後に復元されて今日に至っています。

橋は6個の橋脚の上に片持ちの梁をせり出した五連橋となっており、釘を1本も使わず組木の技術によって組み上げられています。河原に降りて下から見上げれば、その複雑な構造美を堪能することができます。

橋を渡った先は、吉川家やその家臣団の居宅跡を整備した吉香公園になっています。時間があればこのあたりもゆっくり見て回りたいところですが、時間の都合で先を急ぐことにしました。

横山の上に建つ岩国城へは麓からロープウェイが出ているのですが、その営業開始時刻まで待てないので徒歩で山上に登ることにしました。左から大きく回り込むようにして横山の上へ通じる車道をおよそ30分ほども歩くとロープウェイ山頂駅のある一角に達し、そこから山道歩きとなりました。

案内図に描かれている左側のスペースがロープウェイ山頂駅周辺、右側が岩国城で、この図の下側の細い道を辿るとまず出丸跡に達し、階段を上がると二の丸広場。右にスロープを上がれば本丸で、そこに再建天守が建っていました。本来の天守はこの場所ではなく北側の斜面にあり、そこには石組みの天守台が残されていますが、昭和37年の復興天守建造にあたり麓からの見栄えを考慮して現在の場所に建てたのだそう。

桃山風南蛮造りを標榜する鉄筋コンクリートの天守の中には刀剣類や錦帯橋の模型や岩国にゆかりの人々の写真などが飾られており、これらを眺めながら階段を登ってゆくと、最上階からは錦帯橋の向こうに海まで続く岩国の市街を見下ろすことができました。

天守閣を降りて、ようやく動き出したロープウェイで吉香公園へ。

麓の吉香神社は神様ではなく吉川家の祖霊を祀る神社で、独特な屋根の形状が高度な建築技術を窺わせます。そして錦雲閣は旧藩時代に三層の櫓があった場所に明治になってから建てられた絵馬堂。こうして見るもの触れるものの一つ一つに歴史の重みを感じながら、再び錦帯橋を渡り返しました。

旭酒造

旅の最後の目的地は「獺祭」で有名な旭酒造です。アクセスが簡単ではないため、錦帯橋の近くからタクシーを奮発しました。

周知の通り、旭酒造の「獺祭」は純米大吟醸オンリー、しかも杜氏の手を借りず近代的な設備を用いた四季醸造による大量生産を実現した異端児的な銘柄です。前から一度その生産の様子を見てみたいとおもっていたので、今回の厳島神社参詣に合わせて酒蔵見学を工程に組み込んだのですが、これは正解でした。

最初にスタイリッシュな若社長さんが簡単なブリーフィングをして下さった後、案内役の従業員の方が精米〜洗米〜蒸米〜製麹〜仕込〜発酵〜上槽〜瓶詰と続く一連の工程のうち洗米、発酵、瓶詰の様子を見せて下さいました。こうした酒蔵見学はこれまでにも何度か経験があり、それらと比べて極端に違いがあるという印象は受けなかったのが逆に意外だったのですが、ポイントとなるのはやはりデータ中心主義のようです。試し、データをとり、改良を加えることの繰り返しの中で、機械に任せられることとそうではないところを峻別し、人手をかけるべきところには人手をかけるという合理的な思考の存在を感じました。

勉強が終わった後にはお楽しみの試飲タイム。唎酒セットは右から左へ「純米大吟醸50」「純米大吟醸磨き三割九分」「純米大吟醸磨き二割三分」。さらに「温め酒」もいただいていい気持ちになってきましたが、この日のうちに広島空港からの飛行機に乗らなければならないため、心ゆくまで飲むことができなかったのが残念でした。