塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

くるみ割り人形(東京バレエ団)

2017/12/17

東京文化会館(上野)で、東京バレエ団「くるみ割り人形」。「くるみ」自体は年末の定番ですが、この日の演出は久しぶりに観るモーリス・ベジャール版です。

クリスマスの夜。

男の子がひとり、ちっぽけなモミの木のそばにすわっている。その枝では、去年のクリスマスからずっと残されたままの飾りが、寂しげに揺れている。男の子の母親は亡くなったのだ。

と、夢なのか魔法なのか、男の子のそばに母親が現れて、モミの木の下に小さなプレゼントを置こうとする。こうして、夢のような夜が始まった。

プレゼントは大きくなり、不思議なイコンに変身する。友人たちも登場し、母親はいきいきとした様子で、光の天使2人とマリウス=メフィストに率いられている。部屋全体がダンスを踊り、男の子は笑い出す。

これは夢なのか?

現実とは、われわれが感じとるもの。現実とは、今もって、苦悩から解放される瞬間のことである。男の子は、自分の師であるマリウスによって振付けられ、王子と王女によって踊られるバレエ作品、『くるみ割り人形』の“パ・ド・ドゥ”に見入ったままだ。

彼はダンサーになるだろう。

ホフマンの原作をベースにした通常の版とは異なり、ベジャール版は7歳のときに死別した母親への思慕とバレエへの憧憬を、ベジャール自身の少年時代の姿である主人公ビムの一夜の夢として綴るもの。ただし、基本的には通常版と同じくチャイコフスキーの音楽が用いられており、通常版での場面と曲との対応関係が頭に入っていれば「なるほどこの曲にこういう意味と振付を当てるのか」とベジャールの思考を追体験する面白さもあります。ただし舞台上の進行は2008年に観たときと同じなので、ここでそれを細々と再現することは控え、ダンサーの何人かに着目してみます。

まず特筆しなければならないのは、M...を踊った木村和夫。この日が彼にとってダンサーとして舞台に立つの最後の日であることは、配役表と共に配布されていた「木村和夫 東京バレエ団プリンシパル引退のご挨拶」でも告知されていましたが、この日も木村和夫ならではの極めて端正でありながらある種突き抜けた感のある自在なダンスと演技とで圧倒的な存在感を発揮していました。このバレエは少年ビム(ベジャール)の母恋いの物語ですが、一方で父や師と仰ぐマリウス・プティパに対するコンプレックスの克服の物語でもあるのか?と思わせるほど重要な役柄であり、この役柄を演じて十二分に客席を納得させられるのは木村和夫をおいてはいないのではないかと思わせられます。

次に母を踊った政本絵美さん。ダンスよりも演技の比重が高い役ですが、あるときはスタイリッシュでエレガントな女性として、あるときは少女のようなあどけなさでビムと共にサーカスを楽しむ母として、そして花のワルツの中で葬送の白いバラと死のキスに運命を自覚する薄幸の女性として、常にビムの思慕の対象であり続けます。ことに第1幕でのビムとのパ・ド・ドゥは、ビムのほとんど恋愛感情に近い思慕を優しく受け止めるその美しさに惚れぼれ。

トリックスター的な存在である猫のフェリックスの宮川新大も、葦笛の踊りを中心に抜群のキレを持つジャンプと回転、そしてコミカルな演技の鮮やかさで舞台を牽引し、カーテンコールでは木村和夫についで大きな拍手を集めていました。特にマネージュのスピード感は、ベジャール版「くるみ」になじみがなくとまどっていた観客をも高揚させるもの。なお、この公演では前日とこの日の2日間でダブルキャストが組まれていたのですが、予定されていたもう1人のダンサーが不祥事で降板したために、この運動量の多い役柄を彼が2日連続で演じています。

各国の踊りの中では、中国のバトントワリングを披露した岸本夏未さんが印象深く、プティパの振付通りに踊られたグラン・パ・ド・ドゥの川島麻美子・秋元康臣ペアも大きな拍手を集めました。この場面、フェリックスの仲間たちであるタキシードの男たちが、川島麻美子さんには惜しみない賞賛を送り、一方で秋元康臣がヴァリエーションを踊ろうとするときには揃って冷ややかな視線を送ったものの彼のダンスが見事だったので渋々「やるじゃないか」的な仕草をして見せたのが笑えました。なお、2008年に見たときにはフェリックスが男性ヴァリエーションのパートを踊っていて、今回も前日はそうした場面があったそうなのですが、この日はペアだけでグラン・パ・ド・ドゥを踊りきっていました。

他にも赤と金色の太陽形のかぶりものがゴージャスな髭もじゃの「光の天使」や子供には刺激的過ぎると思える蠱惑的な妖精たち、飯田団長自ら演じるマジック・キューピーなどの強烈な登場人物たちと、オリジナルのチャイコフスキーの曲にところどころシャンソンを交えた音楽は、ベジャールの少年時代が混沌とつつも瀟洒に明るいものであったことを示しました。しかし、そこで展開する母との思い出が楽しいものであればあるほど、その情景は思い出すなあというベジャール自身の言葉で振り返られる懐旧の世界の中にあり、その裏返しとしての喪失感が強調されていきます。そしてラストシーンは冒頭の場面に回帰し、プレゼントの包みを開けたビムが母の面影をたたえた聖母像を抱きしめているとき、舞台下手でひそやかに鏡に向かって手を振りビムに別れを告げる母の姿には、思わずぐっときてしまいました。

今年はモーリス・ベジャールの没後10年にあたります。ビムは母との永遠の別れを体験しましたが、私たちはその作品を通じてベジャールといつでも再会できるということを、稀有な幸福と思うべきでしょう。

カーテンコールのときに促されて木村和夫が前に出ると、多くの観客が立ち上がって惜しみない拍手。木村和夫も感情を高ぶらせている様子が見てとれましたが、いったん降りた幕が再び上がると、スクリーンに木村和夫のこれまでの軌跡を紹介する映像が流され、そして舞台上に飯田団長はじめ団員たち、さらには指導役の小林十市も登場して木村和夫の功績をたたえるセレモニーが行われました。

木村和夫自身もマイクをとって挨拶したのですが、自分を育てた指導者やサポートしてくれたスタッフたちと共に、自身の励みとなったライバルとして首藤康之、高岸直樹ほかの名前をあげ「仲は良くなかったんですけど」と笑いをとりつつ感謝の言葉を述べていました。彼は1984年に15歳で東京バレエ団に入団し、以来34年間一線級として活躍してきたのだそう。この日のダンスを見てもキレはいささかも衰えておらず、まだまだ現役で踊り続けられるのではないかと思わせるほどですが、団の定年ということなので余儀なく、以後は指導者としての道に進むようです。しかし、マジック・キューピーはいいのか?

配役

ビム 岡崎隼也
政本絵美
猫のフェリックス 宮川新大
M... 木村和夫
妹のクロード、プチ・ファウスト 秋山瑛
メフィスト 高橋慈生
光の天使 岸本秀雄 / 和田康佑
妖精 吉川留衣 / 三雲友里加
マジック・キューピー 飯田宗孝
スペイン 闘牛士 樋口祐輝 / 吉田蓮 / 海田一成
中国 バトン 岸本夏未
アラブ 沖香菜子
ソ連 二瓶加奈子 / 井福俊太郎
フェリックスと仲間たち(フェリックス) 宮川新大
パリ 奈良春夏 / ブラウリオ・アルバレス
グラン・パ・ド・ドゥ 川島麻美子 / 秋元康臣