塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

熊野三山巡り〔熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社〕

忘れた頃にやって来る社寺巡りの旅。近畿で京都・奈良以外の大どころとしてはこれまで伊勢神宮高野山吉野と来ていますから、次に来るのは当然熊野ということになります。今年の11月下旬の連休は木土日の飛び石ですが、そのうち木金土を使って熊野三山を巡ることにしました。

熊野三山とは熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社、それに熊野那智大社と隣接する青岸渡寺を総称するもので、これらを各方面から参詣するために開かれ歩かれてきた道が熊野古道です。

大斎原にあったイチイの木に降臨した神を祀った熊野本宮大社、磐座ゴトビキ岩に宿る神を祀る熊野速玉大社、そしてもとは修行の場であった熊野那智大社はそれぞれ独立した起源を持っていましたが、平安時代に神仏習合が進むと共に一体化が進み、熊野三所権現として多くの参詣者を集めました。しかし、江戸時代の紀伊藩による神道化と、続く明治の廃仏毀釈によって仏教的な基盤を失ったことにより経済的に衰退。2004年の世界遺産登録により再び脚光を浴びるようになって、今日に至っています。

ここで和歌山県観光連盟のサイトから解説を借用すると、次の通り。

平安時代、「神仏習合(古来から日本にある神への信仰と、仏教への信仰が融合した思想)」と「浄土信仰」の浸透により、熊野地方は朝廷や公家の信仰を集めるようになりました。これが"熊野詣"の興りです。熊野本宮大社の「家津御子大神(けつみこのおおかみ)」は来世を救済する阿弥陀如来、熊野速玉大社の「熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)」は過去世を救済する薬師如来、熊野那智大社の「熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)」は現世を救済し利益を司る「千手観音」の権現(仏・菩薩が人々を救済するため、仮の姿をとって現れること)とされ、また、那智山青岸渡寺は西国三十三ヵ所巡りの第1番札所として、熊野信仰は全国に広がりました。

今回の旅は、熊野本宮大社を起点に時計回りに熊野速玉大社、熊野那智大社と回り、その間に短い区間の中辺路歩きを組み込む欲張りなプランです。

2017/11/23

東京から熊野へのアプローチは飛行機が便利。羽田空港から南紀白浜空港へ飛んで、そこからバスで熊野本宮大社へ向かいます。

東京を7時25分発のJALで発ったときは強い雨が降っていたのに、南紀に来てみれば良い天気。幸先良いスタートとなりました。

大斎原

南紀白浜空港9時28分発のバス「快速 熊野古道号」に乗って山道を揺られること2時間余り。その途中にもバス道と中辺路とが接する箇所が何カ所かあり、そうしたところでは歩き慣れた風情のハイカーがバスを降りる姿を見掛けましたが、こちらは熊野本宮大社前のバス停に11時50分に到着して、まず最初に大斎原おおゆのはらに詣でることにしました。

田んぼの中の一本道の向こうに立つ巨大な鳥居とその向こうのこんもりした森が目印。こうして見るとそうとはわかりませんが、実はここは熊野川・音無川・岩田川の合流点にある中洲で、昔はここに詣でようとする者は川を素足で渡らねばならず、そのことによって自然に禊がなされる仕組みになっていました。

ここはかつて熊野坐神社があった場所ですが、1889年の洪水で社殿が被害を受けたため、かろうじて残った上四社三棟を近くの丘の上に遷したのが現在の熊野本宮大社です。水害前の写真を見るとここにあった社殿の壮麗さがよくわかります。

しかし、いま残されているのは、静寂の中に中四社・下四社と境内摂末社の神々をまとめて祀る二基の石祠だけ。寂しくも好ましくもある清浄な雰囲気です。千年以上もこの地にあった熊野坐神社が明治になって洪水による壊滅的な被害を被ったのは、大規模な森林伐採により上流の山域の保水力が低下したためであると言われています。

また、熊野権現(阿弥陀如来の垂迹身)の夢告を得て時宗を開いた一遍上人(1239〜1289)の石碑もありましたが、そのありがたさもさることながら、周囲の紅葉の鮮やかさが見事でした。ここには桜の木も多く植えられていたので、春の眺めもまた美しいことでしょう。

発心門王子から熊野本宮大社まで

昼食を終えたら、バスに乗って発心門王子に向かいました。中辺路のうち熊野本宮に達する最後の7kmほどの区間だけを歩くお気楽な区間を歩くことが目的ですが、バスに同乗している他の客もそのほぼすべてが同じコースを歩こうとするもの。山道をゆったり登っていくバスの運転手さんも心得たもので、ところどころで古道歩きのポイント解説をしてくれました。

これが発心門王子。「王子」というのは熊野権現の末社で、西側の起点となる淀川河口の渡辺津から九十九王子が設けられ、熊野参詣道の旅人にとってよき目印であり休憩場所であったそうです。特にこの発心門王子は、ここから熊野本宮大社の神域に入る重要な場所にあり、格式の高い五体王子の一つです。

最初のうちは集落の中を通る舗装された道が続き、アバンギャルドな住民の作品にぎょっとさせられたりもします。

舗装路歩きの無聊を慰めるかのような風情ある売店などを愛でつつ進むと、紅葉が美しい水呑王子跡に到着しました。ここから本格的な山道になっていきます。

……と言っても道はよく整備されており、大変歩きやすいものです。手入れされた植林と下草の羊歯がきれい。そしてところどころに歴史を感じさせるモニュメント。トレイルランナーなら大喜びで飛ばすところかもしれませんが、ここは信仰の道なので穏やかに歩くべきでしょう。

そして道は五叉路から再び整備された道になります。彼方に見えるのは、高野山からの道が辿る果無山脈。そしてわずかの歩きで伏拝王子へ。

伏拝王子のある小高い広場から見ると、遠くに小さく大斎原を望むことができてちょっと感動。昔の人もここから目指す熊野本宮大社に向かって文字通り伏し拝んだそうで、ここで月の障りになり参詣を断念しようとした和泉式部の夢に熊野権現が現れてもろともにちりにまじわるかみなれば つきのさわりとなにかくるしきと告げたという伝説もあります。現代の私たちにとっては発心門王子から徒歩1時間でのこの眺めですが、いにしえの京の都からの旅であればここで12日目になるので、長い中辺路の歩きの終わりにようやく聖地の姿を目にした信者の感激の大きさはいかばかりだったでしょう。

ここまでもほぼフラットな道でしたが、ここから熊野本宮大社までは下り基調となってさらに歩きやすくなります。

いつの間にかお日様が傾いてきました。少し急がないと……。

途中で左に分岐する寄り道を辿ると、人為的に作られたと思われる見晴台地に出ました。ここからはさらに明瞭に大斎原を眺めることができます。

歴史を感じさせる石畳の道を下っていくと、やがて道は街並みの中に通じ、そして祓殿王子跡の前を通って熊野本宮大社の裏手に達しました。本来は大斎原がこの道のゴールですが、今日はこれまで。熊野本宮大社への参詣は明日の午前に回すことにして、そのまま境内を抜けてバス停に向かいました。

熊野本宮大社から少し離れたところに、川湯温泉・湯の峰温泉・渡瀬温泉の三つの温泉地があります。今回、あまり深く考えずに川湯温泉に泊まったのですが、これは失敗でした。

泊まった宿は部屋も料理ももてなしもすべて完璧でしたが、川湯温泉の売りである河原の仙人風呂はあいにく12月からのオープンで、この時期は重機が川に入ってがりがりと掘り下げている状態です。それよりも開湯1800年を誇り日本最古の湯とされる湯の峰温泉で昔ながらの湯垢離を行った方が、翌日の参詣のためにはよかったかもしれません。

2017/11/24

2日目。この日は熊野本宮大社に参詣してから熊野川を船で下り、熊野速玉大社にも詣でるという忙しい一日です。

熊野本宮大社

熊野本宮大社の創建は飛鳥時代という話もありますが、詳しい歴史は不明。しかし平安時代には皇族・貴族の崇敬を集めて盛んに熊野詣でが行われたことが知られており、特に後白河院の34回の熊野参詣は歴代最多(?)記録。

バスで熊野本宮大社に戻り、鳥居をくぐって表参道を登ります。参道の中央は神様の道、人は右側通行です。

石段を登りきったところの右手に授与所、左に社務所、そして突き当たりに神門。

神門をくぐると立派な本殿が並びます。左から右へ結宮(第一殿・第二殿)、證証殿(第三殿)、若宮(第四殿)の順で、次の神様が祀られています。

  1. 夫須美大神(伊邪那美大神) - 本地仏は千手観音
  2. 速玉大神(伊邪那岐大神) - 本地仏は薬師如来
  3. 家津御子大神(素戔嗚尊) - 本地仏は阿弥陀如来
  4. 天照大神 - 本地仏は十一面観音

第一殿は熊野那智大社の、第二殿は熊野速玉大社の祭神であることからわかるように、三社はそれぞれの神様を共通の祭神としています。それにしても、これが大斎原では上四社に過ぎず、他に中四社、下四社があったということですから、水害に遭う前の熊野本宮大社がいかに大規模なものであったことかと圧倒されるものを感じます。

神門を出て境内を散策してみると、八咫ポストなる黒塗りのポストがありました。ポストの上にはもちろん3本足の八咫烏。新宮から吉野を経て橿原へと神武天皇を導いた霊鳥です。

熊野三山の護符である「熊野牛王神符」も烏文字と宝珠を組み合わせたもので、三社それぞれにデザインが異なりますが、いずれも起請文を書く誓紙として用いられたそう。この誓約を違えると、ヒッチコックの「鳥」のように烏の群が襲いかかって……ということはありませんが、約束を破られた熊野権現の使いである烏が一羽(一説には3羽)死に、誓約した者も死んで地獄に落ちることになっています。

次の予定まで時間があるので、熊野本宮大社から少し離れたところにある真名井社にも足を伸ばしてみました。毎年正月七日の八咫烏の神事にはここから汲んだ初水を献じるそうで、車道脇の小広場というロケーションではありますが、苔むした井戸の様子は好ましいものでした。

熊野川 川舟下り

熊野本宮大社から新宮(熊野速玉大社)に向けてはバスも出ていますが、「川の参詣道」と呼ばれる熊野川の川舟下りが趣きがあって良さそう。というわけで、川舟センターまでバスで移動しました。

川舟センターで合流した乗船客は、全部で8人。マイクロバスで乗船場所となる河原に案内されてみると、そこに待っていたのは「えっ!これに乗るんですか?」と驚くほど小さいボートでした。乗客を真ん中に1列2人ずつ4列、船尾に船頭さん、船首にガイドさんが乗って、マイクロバスの運転手さんに見送られて漕ぎだしました。

この舟旅は、緩やかに川を下りながらその両岸にある見どころをガイドさんが説明してくれるというもので、次々にチェックポイントが現れて飽きることがありません。もっとも、「布引滝」など大きな落差を持って熊野川に落ちてくる滝は季節柄水量が少なく、また後白河法皇の勅使が道の険しさに引き返したという古道の難所「宣旨返り」は2011年の台風12号による土砂崩れによって寸断されている状況(その上に真新しい車道の橋あり)です。しかし、両岸の奇岩の数々は見るだけでも面白く、中にはディープ・ウォーター・ソロができそうなクラックの走った岩壁もありました。やがて舟は、恐竜の背骨のように真っ白な岩が連なる骨嶋に立ち寄りました。この岩は熊野権現に斬られた鬼神の骨と伝わっているそうですが、水流に磨かれてつるつるの美白。

そして、骨嶋の対岸やや下流側に見えているのが、この釣鐘石です。大きな岩壁の下部が崩落してできたオーバーハングの中央に釣鐘形の岩が挟まったような状態になっており、この石が崩れるとこの世が滅びると言い伝えられています。また、釣鐘があればこれを撞いた跡もあるはずで、釣鐘そのものではありませんが、岩壁の下の方に本当に撞木で撞いたような丸い跡もありました。

川の流れはおおむね穏やかですが、ところによりこうした瀬も生まれます。平安貴族たちも、この激流には肝を冷やしたことでしょう。

次に出てくる昼嶋は熊野権現が昼食をとったところ。島の上の平らなところには熊野権現と天照大神が囲碁を打った跡という碁盤のような筋が走っているそうで、かつては川舟下りの舟はここに立ち寄り、今も残る階段を使って島の上に登ったそうですが、河原がなくなってしまったために接岸できなくなり、現在は水上から眺めるだけになってしまいました。

畳石。ここで舟はエンジンを停め艪漕ぎになって水面に漂い、ガイドさんが和笛を吹いてくれましたが……腕前のほどに関してはノーコメント。

熊野速玉大社の例大祭である御船祭の舞台となる御船島。神輿を積んだ神幸船を先導する早船による競漕がこの島を巡って行われるそうです。

そして舟は熊野速玉大社にほど近い権現河原へ。

熊野速玉大社

時刻は16時近く。夕暮れ時が近いので、駆け足での参詣となりました。

権現河原は熊野速玉大社のすぐ横手にあたり、そこから徒歩ほんのわずかで手水舎を経て神門をくぐり、境内に入ることができます。

他の二社同様、この熊野速玉大社も起源ははっきりしていませんが、伊邪那岐大神の唾から生まれた速玉男之神からその名がとられたとされ、熊野三山の社務を司る熊野別当の本拠がこの地にあったことから、三山の中でも特別な地位を占めていたとも言われます。

それにしても、この社殿の美しさは素晴らしい。明治時代に花火が原因で全焼した後、1967年に再建されたもので、拝殿の奥、左端に夫須美大神(伊邪那美大神)を祀る結宮、その右に速玉大神を祀る速玉宮、そして右に上三殿(証誠殿・若宮・神倉殿)・八社殿(中四社・下四社)を連ねます。

境内の一角にひっそりと新宮神社と熊野恵比寿神社。そして神門を出て参道を外に向かう途中には御神木である梛の巨木。

八咫烏と手力男尊を祀る社を横目に見つつ参道を進んで鳥居から外に出て、ここから歩いて神倉神社に向かいます。

神倉神社

徐々に薄暗くなる町の中を少し早足で歩くことしばし、丹塗りの太鼓橋を入り口とする神倉かみくら / かんのくら神社に着きました。

橋を渡って左に進むと、すぐに急勾配の石段にかかることになります。

いや、この石段はすごい。ほとんどマヤの神殿の殺人的な勾配を連想させる急階段が500段余りも続いた先に、ようやく傾斜が緩みます。

スラブ状の岩の脇をかすめるように奥に進んでゆくと……。

これが熊野の神々が降臨したというゴトビキ岩。ゴトビキとはヒキガエルの意味だそうですが、この岩体は花崗斑岩が風化が進んで球状になったもの。つまり、火成作用のなせるわざというわけです。もともとこちらの神倉神社が熊野速玉大社の元宮で、それがいつしか今の熊野川沿いに遷ったために、そちらを新宮とも呼ぶようになったそう。

見下ろせば、夕焼け色の海と新宮の町が眼下に広がります。

ゴトビキ岩のすぐ近くに続く短い参道を辿ってみると、こんな具合に岩と岩とが身体を寄せ合っていました。さあ、今度こそ急いで下山しなければ。

新宮から勝浦までは路線バスを使いました。勝浦駅のすぐ近くにある民宿「わかたけ」に投宿したときには、既に真っ暗。

まぐろとクジラが売り物の料理に、民宿のご主人がセレクトをサポートしてくれる地酒の数々。満ち足りた夜でした。

2017/11/25

最終日。勝浦駅前のバス停から那智山行きのバスに乗りました。

こんなところに地球防衛軍の秘密基地本部が……などと驚いているうちに、バスは那智駅から補陀洛山寺の前を通って那智川沿いの道を山の中に入ってゆきました。終点まで乗ればそこが熊野那智大社ですが、今日は大門坂から熊野古道の一部を歩くことにしているので、途中下車することになります。

大門坂から熊野那智大社まで

車道から脇道に入るかたちで進むと、すぐに鄙びた感じの歩道になり、間をおかずに大門坂茶屋。

この茶屋の売り物は平安装束のレンタルで、ご覧のような市女笠姿の女装でも着付け時間はわずか5分。この茶屋の辺りを散策するだけなら2,000円、那智大社周辺まで足を伸ばすなら3,000円です。うーん。

九十九王子の最後の王子社である多富気王子跡。たふけ王子=手向け王子?

それにしても、この道は杉並木の中に石段が緩やかな上り坂となって続き、とてもよい雰囲気です。

唐斗石という祈り石を経て十一文関を過ぎると、那智滝が木の間越しに見えてきました。かつての参詣者は、この光景に歓喜したことでしょう。

熊野那智大社

大門坂の古道歩きを終えると、熊野那智大社の境内まで最後の、そして少々厳しい登り道が待っていました。

朱色が鮮やかな一の鳥居、二の鳥居をくぐって境内へ。すると……。

なんと拝殿は工事中!日光の東照宮でも同じような憂き目に遭いましたが、またですか。

拝殿の左隣にあり八咫烏を祀る御縣彦神社は健在。その右奥側に千木と鰹木を見せている大きな社殿は本殿のうち第六殿の八社殿(中四社・下四社)です。このあと、拝殿右の社務所で二種類の御朱印をいただいて、ここはもう終わりかと思ったのですが、ガイドブックを読んでみると次の記述がありました。

創建1700年を記念して白玉石奉納を受け付けており、1人1000円にて由緒などの案内を受け、本殿参拝ができる。

なるほど!というわけで社務所に申し出たところ、本殿に案内していただけることになりました。

先ほどの御縣彦神社の前を通って狭い通路のようなところを抜けると、拝殿の工事の足場の向こうに本殿の五つの殿舎が並んでいました。あいにく右側の滝宮、証誠殿、中御前の前に立つことはできませんでしたが、第四殿である西御前(主祭神・熊野夫須美大神=伊奘冉尊)と第五殿である若宮(天照大神)に参拝させていただくことができました。神妙な面持ちで御由緒などの説明を受けたあと、社務所の方が「どうぞ自由に写真など撮っていただいてけっこうです」と言われたのでびっくり。奥まった雰囲気が濃厚なこの一帯は当然撮影禁止なのだろうと自粛していたので、うれしいサプライズでした。

こちらは烏がうずくまっているように見えるという烏岩。そしてその右側の白い玉砂利の中に我々が奉納した白玉石も紛れています。

言い伝えでは神武天皇の東征の折に山の彼方に光る那智滝を見て神として祀ったのが那智山信仰の起源で、その後仁徳天皇5年(317年)に滝を望む山の中腹に社殿を遷して熊野那智大社が創建されたということですが、本当のところはよくわかっていません。ただし、もとは禊祓の場であった那智滝が聖地化したものであり、遅くとも11世紀には熊野三山の一角を占め、また滝本から現在の位置に遷っていたとのこと。いずれにせよ、川の中の熊野本宮大社、海に近い熊野速玉大社、そして滝に面した熊野那智大社とそれぞれに異なる形で水との関わりを持つことは、大変興味深いものがあります。

那智山青岸渡寺

ついで、熊野那智大社に隣接する青岸渡寺へ移りました。

もともと神仏習合の時代には各大社が仏堂を持っていましたが、明治の神仏分離により熊野本宮大社と熊野速玉大社では仏堂が破却されたのに対し、ここ熊野那智大社では如意輪堂が残され、それが後にこの青岸渡寺として復興したという経緯を辿りました。

西国第1番札所である当寺は、やはり仁徳天皇の御代に裸形上人が那智滝での修行で得た如意輪観音を本尊としたと言い伝えられていますが、現在の本堂は天正18年(1590年)の建立です。

本堂の近くにあるイヌグスの大木、宝篋印塔、鐘楼、如法堂などに目配りをした上で、少し離れたところにある三重塔(鉄筋コンクリート造り・エレベーターあり)に登り滝を眺めてから、いよいよ那智滝の足元に向かうことになりました。

那智滝

三重塔から坂道を下り、大門坂からつながる車道を渡って石段をさらに下ったところにあるのが、那智滝の前にある飛瀧神社です。

確かに、この滝の存在感は圧倒的です。そしてその前には小ぶりな鳥居があり、右岸側に通じる通路を経て延命水をいただきつつ、さらに滝に近づくことができます。

高さ133m、落ち口の幅13m、そして滝壺の深さ10m以上。毎秒1トンの水を落としています。

下部3分の2はクラックが発達しているが、上部のハング帯の突破は困難そう……などと考えてはいけません。この滝自体が御神体ですから。しかし、この滝の威厳の前には自然に畏怖の念を覚え、とても取り付こうなどと思うことはできません。

旅の終わりはバスで再び勝浦に戻り、ここから特急くろしおで新大阪へ出て、のぞみで東京へ帰りました。

勝浦駅内の立橋に、補陀洛山寺の写真が掲げてありました。南方にあるという観音菩薩の住む処=補陀洛へと舟で渡海する補陀落渡海の舞台となった場所です。9世紀から18世紀までの間に20回を数えるという補陀落渡海では、この補陀洛山寺の住職が舟の上に設えられた部屋に篭り、伴走船に沖まで曳航されたあと、海流に乗って漂っていくことになります。生きながら流されていく僧は、どんな気持ちで海の上を漂っていったのか……と最後は少ししんみりした気持ちになりながら、熊野三山巡りの旅を終えました。

紀伊半島は高山こそないものの重畳たる山並みが連なり複雑な地形を示していますが、そうした中にあって熊野三山の随所に現れる断崖や巨石、あるいは温泉は、一つのことを示しています。すなわち、ここにかつて巨大な火成作用が存在したということです。今から1,400万年前、大陸から分離していた西日本の陸塊とフィリピン海プレートとの衝突によって西日本各地に大規模な噴火が起こり、その中でも最大級のものが今の熊野地方に巨大なカルデラを形成しました。カルデラ地形自体はその後の侵食によって形状をとどめていませんが、その痕跡が例えば神倉神社のゴトビキ岩や那智滝であり、熊野川で見た柱状節理も火成作用によるもの。

川湯温泉をはじめとする温泉群もかつてのマグマが固まってできた花崗岩が熱源となっており、さらにはその相対的に軽い花崗岩の膨大な質量が紀伊半島全体を押し上げてあの複雑な地形を生み出したと言います。熊野本宮大社の地が「おおゆのはら」、そして熊野を「ゆや」と読むこともあることから熊野信仰の中核に湯との関係があることが指摘されていますが、そうだとすれば、この熊野カルデラが熊野信仰の遠祖ということになるのかもしれません。