寝音曲 / 一角仙人

2017/09/21

宝生能楽堂(水道橋)で「第二回 和氣乃會公演」。宝生流能楽師(ワキ方)の御厨誠吾師が主宰する会で、師の嗜好を取り入れて(?)「能とお酒の饗宴」と題し、開演前に振舞い酒もあるとのこと。そのお酒につられたわけではないのですが……つられなかったのか?と正面から訊かれると口ごもります。

終演後に夕食にしたのでは相当にお腹がすきそうなので、早めの夕食を宝生能楽堂近くの「菩提樹」でいただきました。本来はカツやハンバーグがメインのお店のようですが、このビーフカレーもごろごろとした柔らかい肉のかたまりがこれでもかというくらいに入っていて絶品です。

さて、お腹を満たしたところで能楽堂へ。座席は目付柱の真ん前、前から二列目でした。今日の演目である「一角仙人」は動きの激しい曲ですから、その迫力を堪能できることでしょう。

こちらがお目当ての振舞い酒コーナー。京丹後市の木下酒造による「玉川」が常温と燗とで供されていました。しっかりしていながら柔らかい味わいがすてきです。おかわり自由でしたが、いただき過ぎては観能に差し支えるのでぐっと我慢して一杯だけ。これは、神様に捧げる御神酒をお下がりとして振る舞うものであるという話を、開演前に司会として立ったドキュメンタリー映画監督の石井かほり氏が説明されました。

松尾

まずは舞囃子「松尾」から。お酒の神様とされる松尾大社にゆかりのこの曲(脇能)は宝生流のみに伝わり、私は2009年に観たことがありますが、そのときは後場の〔神舞〕のエネルギーに圧倒されたことを思い出します。この日のシテはきりっと精悍な顔立ちの和久荘太郎師で、待謡に続いて激しい囃子に乗り、期待に違わず舞台上を縦横無尽に舞い巡りました。

寝音曲

狂言「寝音曲」は初めて観ますが、これもお酒に縁のある曲。太郎冠者(山本則俊師)の小唄がうまいことを知った主(山本則秀師)が自分の前で謡ってみせるよう命じると、最初はしらばっくれていた太郎冠者ですが、主が太郎冠者の声を聞いていたことを知って、ここで「はーははは」と笑ってみせました。あのぶっきら棒が持ち味の山本則俊師が笑うなんて!とこちらはショックを受けましたが、舞台上では太郎冠者は酒を飲まねば謡えないと言って主人に酒を注いでもらっています。鬘桶の蓋を両手で捧げ持って「うむ、うむ、うーむ」と唸るような声をあげながら気持ち良く飲み干して「ふー」と息をついた太郎冠者は一杯目にして目がすわった様子でしたが、まだ足りないと二杯目・三杯目を同じように飲み干してすっかりいい気持ち。気のせいか、顔も本当に赤くなったように見えます。ふらふらと揺れながら、今度は女どもの膝枕でなければ謡えないなどと言いだした太郎冠者に主は自分の膝を貸し、ごろんと横になった太郎冠者の頭を両手で支えるように持ってやると、太郎冠者は気分よく謡い始めました。

盃に向かへば、色もなお赤くして。千歳の命を延ぶる酒ときくものを、きこし召せやきこし召せ。寿命久しかるべし。

主「やんや」、太郎冠者「はーはーは」。今度はすわって謡えと命じられた太郎冠者ですが、身体を起こして謡おうとすると声がかすれてしまって謡になりません。しからばと膝を貸してやるとよい声。試みに両手で頭を持ち上げると声がかすれ、下げると声が出てくるということが三度重なりましたが、酔っ払っている太郎冠者はいつの間にか頭が持ち上がっているときに声を出し、頭が下がると声が出なくなるといった具合に順番を取り違えてしまって見所は大笑い。とうとう千鳥足で舞いながら謡いだし、声が出ないのが演技であることが主にばれてしまいます。最後はもう一番聞かせよとせがむ主に対し呵々大笑した太郎冠者が「許させられい」と幕へ引き上げていき、主がその後を「まず待て」と追っていきました。

なんとも楽しい曲で、とりわけ山本則俊師の酔態の演技が見事でしたが、それ以上に山本則俊師が笑い声を連発したことにびっくりです。

一角仙人

金春禅鳳作の切能で、歌舞伎の「鳴神」につながりますが、原典はなんと『マハーバーラタ』。そこから今昔物語、太平記ときて能だそうです。そしてこの曲は、冒頭の「松尾」とは反対に宝生流以外の四流にある能で、今日は観世流での演能です。

囃子方と地謡が舞台上に揃った後に、脇座に引廻しで囲まれた萩屋、大小前の一畳台の上に岩屋(他流では配置が逆)。萩屋の中にはシテが、岩屋の中には子方二人が隠れているのですが、後見が岩屋を正面側から一畳台の上によっこらしょと上げるときにタイミングを合わせて一畳台の上に登る二人の子方の可愛い足がちらりと見えました。ついで無音のうちにツレ/旋陀夫人(鵜澤光師)が二人の輿舁を従え、ワキ/官人(御厨誠吾師)と共に登場しました。静かに舞台に進み正面に向いて立ったツレは、天冠を戴き小面を掛け、草柄の上に揚羽蝶文様の紅入唐織を壺折にして下には紫の大口。唐団扇を手にしています。ここでふと気付いたのですが、鵜澤光師は小柄なので顔の輪郭が面の形の中に納まっており、ふくよかな男性能楽師が小面を掛けたときによくあるように面の周りに顔がはみ出している状態にはなっていないのですが、かえってそのはみ出ている状態の方が小顔に見え、鵜澤光師の掛けている面は大顔に感じられました。これは目の錯覚?不思議なことです。そんなことを考えている間に、法被・白大口でドラマーのそうる透氏に似た(?)ワキが脇正で〈名ノリ〉。一角仙人が龍神を岩屋へ閉じ込めたために雨が降らなくなって困った天竺波羅那国の帝に命じられ、一角仙人を籠絡してその神通力を失わせるという特殊任務を帯びていることがこの〈名ノリ〉によって判明します。

山奥深く分け入る道行のうちに一ノ松にツレ、二ノ松にワキがそれぞれ移動し、輿舁二人は大小の後ろに控えたところで、一行は松桂の枝を引き結んだ庵を発見。様子を窺う形になり、後見が萩屋の引廻しを外すと、緑の蔦の絡まる萩屋の中にシテ/一角仙人(観世喜正師)の姿が見えるようになりました。人里遠く離れた山の中で秋の気配を楽しむさまをシテが深く味わい深い声で謡ううちにツレと共に舞台に戻ってきたワキがシテに話し掛け、ここで問答となりますが、旅人を装うワキの作戦の第一弾は、道に迷って日も暮れてきたので一夜の宿を貸してくれというところからです。ワキの求めに応じ自ら戸を開いて姿を見せたシテの出立ちは、黒頭にツノを一本生やした異形の面、そして枯葉をところどころに縫い付けた暗い色の縷水衣に木葉腰蓑。腰に赤鞘の剣を佩き手にはヤツデのような葉団扇です。そして、ここで美しいツレの姿を見て明らかに意識した様子。第二弾のお色気作戦も成功し、さも美しき宮女の貌に誰かと問うシテの疑問にツレは黙って斜めを向いたまま、かたやワキは先ほど言ったように道に迷った旅人だとそっけなく答え、旅の疲れの慰めに酒を持ってきているので一献、と勧めるのが作戦第三弾です。自分は仙人だから酒は飲まない、と言うシテの言葉も聞かばこそ、ワキから渡された酒を持ってツレがシテの方へ進むと、シテはげに志を知らざらんは、鬼畜には猶劣るべしと自分で自分に言い訳をして酒を受けることにしました。この辺り、シテは完全にワキ・ツレのペースに乗せられていて、結末を知っているこちらは可哀想というかなんというか、誘惑に負け続ける一角仙人の、仙人のくせに人間らしい心の弱さにおかしみを感じてしまいます。

ツレのお酌で一杯目を飲み干し、ついで二杯目を葉団扇に受けてツレにじっと見入るシテ。ここでツレがおもしろや盃のとこの曲で唯一の台詞を謡って立つと、シテは腰を浮かし、そして座り込んでしまいました。ここからツレの短い舞、さらに太鼓が入り〈楽〉となって作戦の総仕上げです。賑やかに足拍子を多用するツレの〈楽〉にシテはそわそわしていましたが、ついに足拍子に誘われるようにして自分も立ち上がると、ツレとの合舞となりました。しかし、舞など知らない仙人のシテはツレに見よう見まねでついていっている様子でたどたどしく、足拍子も遅れがち。ツレが大きく回ると後ずさりして避け、ついで酒に負けたか色香に負けたか、つい手を伸ばしてツレに迫るもツレは自然に位置を変えてはぐらかし、するとシテは自分を恥じるようにまた舞に戻るという具合です。ところが、そうして舞っているうちに徐々にシテの舞がツレと合い始め、ついに一人できれいに舞うようになって、舞うことをやめたツレはその姿を地謡の前からじっと(冷ややかに?)眺める様子になりました。こうして〈楽〉は終わり地謡が入り、輿舁は先に一ノ松へ移動して待機。そしてツレから駄目押しの一献を注がれて酩酊したシテが一畳台の笛座前側に腰掛けて左手の扇を横に掲げる枕扇の形となると、反対側でツレとワキの刺客コンビは短く顔を見合わせ(心の中では「作戦成功」と語り合っていたはず)、そして橋掛リで待機していた輿舁たちと合流すると素早く去って行きました。

ここに来て地謡がかかりければ岩屋の内頻りに鳴動して、天地も響くばかりなりと謡うと、シテは異変を感じて目を覚まし立ち上がります。不思議に思うシテが岩屋を振り返ると、その岩屋の中から可愛い子方二人のデュエットが始まりました。

いかにやいかに一角仙人。人間に交はり心を迷はし、無明の酒に酔ひ臥して、神力を失ふ天罰の、報ひの程を思ひ知れ。

緊迫のうちに構える一角仙人、すると岩屋が割れて、中から二人(二匹?)の龍神が登場しました。赤頭に龍戴、肩脱ぎの法被と半切。一畳台から飛び降りたミニ龍神たちは剣を抜いて〔舞働〕となり、二人でシテを威嚇しつつ鮮やかに舞うと、一畳台に飛び乗って見得。ついにシテも剣を抜いて斬組となりました。これまた見事、立ち位置を入れ替えながら剣を打ち合わせ、さらに一畳台の上に立つシテに迫った龍神はシテが振るう剣をぴょんと跳び上がってかわします。とうとう圧倒されたシテを一人の龍神が追い、二ノ松で虚しい抵抗を試みるシテを圧倒するとそのまま幕へ追い込みました。そしてもう一人の龍神はキリの舞のうちに角で型を決め、さらに飛び去るように橋掛リを進むと三ノ松で止まって袖を返して拍子を踏み、終曲を迎えました。

「一角仙人」を観たのは初めてでしたが、これは理屈抜きで楽しい!美しいツレとのたどたどしい合舞や最後の龍神たちとのバトルもさることながら、そこに至るまでの仙人らしからぬ弱みの見せ方が面白く、観世喜正師のリアルな演技によってシテの動揺が手に取るように見てとれて、感情移入しやすいものでした。もっとも、龍神を岩屋に押し込めるほどの神通力を持つ一角仙人をいとも簡単にたぶらかす人間の怖さ……といったところに視点を移すと、また一味違った見方になってくるかもしれません。そしてこの見どころ満載の曲に揺るぎない芯を一本通していたのは、ワキ/官人を勤めた御厨誠吾師の硬質の演技であったでしょう。

終演後は、石井かほり氏を司会に、木下酒造の杜氏であるフィリップ・ハーパー氏と御厨誠吾師の対談。話題のとっかかりはやはりイギリス人であるハーパー氏が日本酒の杜氏になったいきさつの説明となりましたが、そこから「外国人杜氏」という肩書を脱しつつ、江戸時代の製法で作りアイスクリームにも合うという「Time Machine」やオンザロックで味わうための「アイスブレーカー」といった斬新な酒作りを展開するに至った話は興味深いものでした。かたや、能楽師の家に生まれたわけではない御厨師が大学で能楽と出会いプロの能楽師になった経緯にもハーパー氏と共通する部分がありましたが、能とはタイムスリップさせるもの、能楽師は客の夢を覚まさせてはいけない(だから瞬きもしない)という話や、能や酒の中に伝統の重み=敬意を抱く対象があること、そしてこの日、龍神役で出演していた娘さんのように後の世代につなげることの大事さを語っていたことが印象的です。

最後は御厨誠吾師が能楽研修生同期だという大川典良師と共に、祝言一調「氷室」で謡の力強い説得力と太鼓の豊かな表現力を見せつけて、終了となりました。

配役

舞囃子宝生流 松尾 シテ/松尾明神 和久荘太郎
地頭 水上優
ワキ待謡 野口能弘
松田弘之
小鼓 大山容子
大鼓 佃良太郎
太鼓 大川典良
狂言大蔵流 寝音曲 シテ/太郎冠者 山本則俊
アド/主 山本則秀
観世流 一角仙人 シテ/一角仙人 観世喜正
ツレ/旋陀夫人 鵜澤光
子方/龍神 御厨可也子
子方/龍神 馬野桃
ワキ/官人 御厨誠吾
ワキツレ/輿舁 大日方寛
ワキツレ/輿舁 舘田善博
松田弘之
小鼓 大倉源次郎
大鼓 國川純
太鼓 林雄一郎
主後見 小田切康陽
地頭 山崎正道
祝言一調 氷室 御厨誠吾
太鼓 大川典良

あらすじ

寝音曲

前夜酔い紛れに小唄を唄っていた太郎冠者の声を聞きつけた主は、自分の前で唄ってみよと命じる。今後も度々唄わされては迷惑と考えた太郎冠者が「酒を呑まねば唄えない」「女の膝枕がないと唄えない」などと条件をつけると、主は太郎冠者に酒を勧め、自分の膝を貸す。膝に頭を乗せていると謡えるのに頭を上げられると声がかすれる太郎冠者だったが、やがて取り違えて頭を上げているときに謡い、ついに舞い始めてしまう。

一角仙人

鹿の胎内より生まれ一本の角を持つ一角仙人が龍神たちを岩屋へ封じ込めたため、天竺波羅奈国では雨が降らなくなった。困った帝は仙人の神通力を奪おうと美しい旋陀夫人を仙人の元へ送る。道に迷った旅人として仙人の元へやってきた官人と旋陀夫人は、首尾よく仙人に酒を飲ませ、酔いつぶして神通力を奪う。すると岩屋が鳴動し、封じ込められていた龍神たちが飛び出した。驚いて目を覚ました一角仙人は龍神を制しようとするが叶わず、龍神は嵐を起こして飛び去っていく。