塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

飛鳥の社寺巡り

2017/05/14

今日からの2日間は、奈良盆地の南に移っての社寺巡りです。

ホテルで茶粥の朝食をいただいてから、まずは近鉄で橿原神宮へ。

橿原神宮

橿原神宮駅はこれまで単に乗換駅としてしか意識することがありませんでしたが、今回は飛鳥巡りの起点となりました。

駅の北西側に出てロータリーから真っすぐ伸びる道を歩くと、前方に緑豊かな畝傍山と鳥居が見えてきました。

表参道を進んで神橋を渡り、二の鳥居の先で手水をつかってから右に折れると南神門。神楽殿の前を歩む巫女さんたちの白と朱の装束に目を奪われそうになりながら、ふと気付けばそこは外拝殿前の広い境内でした。

橿原神宮は神武天皇の畝傍橿原宮があったとされるこの地に、明治天皇の命により官幣大社として創建(明治23年(1890年))されたもので、祭神はもちろん神武天皇とその皇后。畝傍山東麓の南にこの橿原神宮、北に神武天皇陵が並ぶという位置関係にあります。

外拝殿から内拝殿を見やると、その奥に千木を高々と掲げた幣殿と本殿の屋根がちらりと見えています。回廊の途中までは一般参拝者も足を伸ばすことができて、そこには神武東征の神話を説明する20枚の絵が絵巻として連なっていました。境内の見どころはこれくらいですが、畝傍山の緑、建物の丹と白、玉砂利の白が組み合わさり、スペースを広く使ったシンプルな社殿配置が非常にすっきりした感じを与えます。帰りがけに御朱印をいただいたのですが、御朱印所のお姉さん……もとい巫女さんも、とてもすっきりした顔立ちの洋風美人で、御朱印帳の文字もその印象通りに優美なものでした。

南神門を出たところにある休憩所でちょっと一休み。そのすぐ脇にある長山稲荷社にもご挨拶。こちらは橿原神宮の末社で、奉賛50万円で名入りの鳥居が立つそうです。

深田池には緑の藻が繁殖していてちょっと息苦しそうでしたが、空は青く澄んでいます。今日は暑くなりそうです。

飛鳥路を巡るには自転車を使うのが便利。橿原神宮駅で借りて飛鳥駅で返すということができるのですが、すべてのレンタサイクル屋さんがそういうサービスに対応しているわけではありません。橿原神宮駅北西側のレンタサイクル屋さんに話をしてみたら、ウチでは飛鳥駅での受取りは対応できないので、駅の反対側のレンタサイクル屋さんに行ってくれと言ってわざわざ案内して下さいました。緑がコーポレートカラーの明日香レンタサイクルが目当てのレンタサイクル屋さんで、ここで地図をもらい、とにかく東に向かって真っすぐ行けば明日香村だからと送り出されました。

ママチャリに乗るのは相当久しぶりで最初はハンドルが安定せず戸惑いましたが、後ろから来る自動車に気をつけながら言われた通りに東へ走りました。

飛鳥資料館

飛鳥川にぶつかったところで小さく左に曲がってすぐの橋を渡り、登り道をがんばってさらに東進、雷丘の麓をすり抜けてひたすら進んだ先に、最初の目的地である飛鳥資料館がありました。

庭園には、亀石、猿石、須弥山石、石人像などの石造物やそのレプリカが点在していて、いかにも明日香です。館内の入り口近くには飛鳥が政権の中心であった頃のジオラマがあり、この地に天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮があった頃の様子が示されていました。

ここで飛鳥時代の定義を再確認しておくと、一般には6世紀末の推古天皇の治世から始まり、持統天皇が大和三山の中心に置かれた藤原宮(藤原は大和三山全部を包含する広大なもの)に遷る7世紀終盤までの約100年間、または平城京に遷都するまでの120年間を指し、文化史的にはそのうち後半(大化の改新以降)を白鳳時代も呼びます。また、飛鳥とはそもどこを指すのかと言うと飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たるあまり広くないところ(平地にかぎれば南北1.6キロ、東西0.8キロほど)と考えられているというのがWikipediaの解説で、飛鳥時代にこの地周辺から天皇の宮が離れたのは蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)直後に即位した孝徳天皇の難波宮と天智天皇・弘文天皇の近江宮のみです。

続いて第一展示室では6世紀から8世紀までの明日香の歴史を出土品やパネルや模型で辿っていて、そうした中には日本初の水時計である漏刻の模型などもありましたが、それよりもここで見たいと思っていたのは第二展示室の山田寺関連の展示です。大化改新で中大兄皇子側につきながら最期は皇子の軍に迫られて自裁した蘇我倉山田石川麻呂が建立したのが山田寺で、その伽藍の完成を見ることなく石川麻呂は亡くなったのですが、それでも完成後は立派な伽藍や仏像が威を誇った大寺であったそうです。前日興福寺で見た薬師如来像(仏頭)と脇侍の日光・月光菩薩像ももとはこの山田寺にあったもの。展示室内にはその仏塔のレプリカのほか、1982年の発掘調査によって土中に倒れた状態で埋もれていた東回廊の一部が実際に発掘された部材も用いて再現されていました。この部材は法隆寺よりも古く、そしてその保存処理には14年の年月をかけたそうです。

なお、アスカの意味については諸説あるものの、ここでは接頭語「ア」が浅洲や平らな砂地であることを示す「スカ(洲処)」についた「ア・スカ」に由来するという説が有力であると説明されていました。また「飛鳥あすか」と表記するのは「飛ぶ鳥の明日香」という枕詞に由来する(「日の下の草加」→「日下くさか」と同じ)ということは前から知っていたのですが、この枕詞は飛鳥川沿いの小盆地であるこの地域には多くの鳥が生息するから、という考え方があるそうです。

山田寺跡

飛鳥資料館からさらに東へ数分進んだところに、井上靖の書になる「磐余道」道標がありました。磐余道は山田道とも言い、上ツ道と横大路の交点(今の桜井の南、安倍文殊院もある安倍の地)から南西に数km下って山田を経て飛鳥中心部に至る古道で、その道標のある交差点を横道に少し入ったところに山田寺跡がありました。

……諸行無常。草原の中の起伏が往時の伽藍の壮麗さを偲ぶよすがとなるだけですが、その場にあった説明によれば、東西118m、南北185mの寺域の中に南門・中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む(講堂は回廊の外)伽藍配置であったそう。その造営は641年に始まり、643年には金堂が完成したものの、649年に石川麻呂が謀反の疑いをかけられて自殺したため中断。しかしその後造営が再開されて676年に塔が完成し、685年には本尊丈六仏の開眼供養が行われました。この丈六仏が、いま興福寺にある仏頭のもととなった薬師如来像ですが、鎌倉時代に入って行われた興福寺復興事業の一貫として薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像は僧兵に持ち去られてしまったとのことです。

飛鳥坐神社

飛鳥資料館の前に戻り、さらに西に進んでから南に入ったところにあるのが、この飛鳥坐神社です。「あすかざじんじゃ」ではなく「あすかにいますじんじゃ」なので要注意。

鳥居の前に飛鳥井、そして手水がありますが、水が出てくる口も柄杓もなんだか不思議な形。

急な石段を上がったところに神楽殿・西良殿があり、その向かいに本殿がありました。なかなか立派ですが、これはもと丹生川上神社上社の社殿であったものが、ダム建設により水没することになったためこちらに譲られたものです。

この神社は毎年2月に行われる奇祭・おんだ祭り(お田植祭)でも知られ、胤付けを示す天狗とおかめの夫婦和合の所作が神楽殿で実演されるそう。また、むすびの神石などその手の石が境内には多く見られます。手水の不思議な形も、もしかするとこの点に関係しているのかも?

境内は本殿の右奥に続いており、式内小社飛鳥山口坐神社があり、小さいながらも雰囲気のある社が点在していました。参拝客はほとんどおらず、静かなお参りをすることができましたが、これが「おんだ祭り」のときは大変な賑わいになるそうです。

水落遺跡 / 石神遺跡

水落遺跡は、飛鳥資料館で見た漏刻が設置されていた施設の遺構。石神遺跡はこれに隣接した、複数の時代の建物跡などが集まった場所で、斉明天皇(在位655-661)が内外の要人をもてなした迎賓館などもあったようですが……。

これは「飛鳥二大がっかり」と呼んでいいかもしれません。それでも水落遺跡は遺構の体裁を一応とどめていますが、石神遺跡は発掘調査を終えて埋め戻され田畑となっており、かつてここから出土した須弥山石と石人像が飛鳥資料館に移されているばかりです。

ところでここは飛鳥川に隣接した場所であり、対岸には甘樫丘があります。その上にある展望台からは大和三山が一望できるとのことでしたが、ここでどれくらい時間を使えるか不安があったため、丘の上に登ることは諦めました。

飛鳥寺

飛鳥における最重要寺院の一つ飛鳥寺は、水落遺跡の少し南、甘樫丘の裾を巡る飛鳥川の東に位置します。奈良市内の「ならまち」はもと元興寺の境内地ですが、その元興寺はこの飛鳥寺が奈良市内に移されたものだということは、以前ならまちを散策したときに学びました。

飛鳥寺の歴史については複数の史料に記述がありますが、飛鳥寺でいただいたリーフレットの記載に従うなら、ここは蘇我馬子の発願により推古天皇4年(596年)に創建された日本最初の寺であり、法興寺、元興寺、飛鳥寺などと呼ばれたとのことです。その伽藍は南門から寺域に入ると回廊に囲まれた区画があり、その中心には塔、東・西・北の三方に金堂を置く一塔三金堂式。さらに回廊の外の北側に講堂を置いており、現在大仏を安置する本堂の位置はもとの中金堂(塔の北側)の位置に当たるそうです。この壮麗な伽藍は仁和3年(887年)と建久7年(1196年)の火災で焼失し、以後荒廃して大仏も野ざらしになったり仮堂に覆われるのみの時期があったようですが、江戸時代末期に堂宇が再建されて現在の姿にまで復したとのこと。

本尊の《釈迦如来像(飛鳥大仏)》〈重文〉は法隆寺の釈迦三尊像と同じ鞍作止利の手になり、推古天皇17年(609年)に造られた、これも日本最古の仏像とされています。像高275.2cm、銅15tと黄金30kgを用いて造られ、正面鑑賞性を重視した平面的なフォルムとアーモンド型の目が飛鳥仏の特徴を如実に示しています。後世の火災で罹災し修補を受けており、顔に見える傷のような線がその名残かとも思われましたが、最近の研究では像の大半が造像時のものである可能性があるとのこと(しかし、こういうことを言うとバチが当たるかもしれませんが、一見つぎはぎのようなお顔立ちにStyxの『Kilroy Was Here』のMr. Robotoの仮面を連想してしまいました)。また、その石造りの台座にある枘穴からかつては法隆寺の釈迦三尊像と同じく脇侍を左右に備えた三尊形式であったことがわかっていますが、その台座は飛鳥寺創建時からこの場所にあり、したがって飛鳥大仏は造像時からずっとここに座っておられることになるそうです。

なお、飛鳥大仏の向かって左には室町時代作の聖徳太子孝養像(木像)、向かって右には藤原時代の阿弥陀如来坐像(同)。さらに堂内の展示ケースの中には深沙大将像や勢至菩薩像(いずれも藤原時代)などが展示されていました。

酒船石遺跡 / 亀形石造物

飛鳥寺から南東へ自転車を飛ばした先の交差点に、酒船石遺跡と亀形石造物の入り口があります。

まずは緩やかな坂道を登っていくと、尾根の上のなんでもないところに唐突に酒船石がごろんと置かれていました。長さ5.5m、幅2.3m、高さ1mの花崗岩の岩の上面に、明らかに液体を貯め、流すための皿状の窪みと水路が刻まれていますが、江戸時代に石垣用材としようとして割り削られててしまっているため上面のデザインの全体がわからないこともあり、はっきりした用途は不明です。ただ、その場に置かれていた解説板の説明によると、この石の東40mのやや高いところにこの石へ水を引くための土管や石樋が見つかっているので、庭園の施設の一部だという説もあるそうです。

いったん坂道を降りて、今度は入場料を払って整備された道を進むと、そこにあるのが亀形石造物。樋を伝って流れた水は小判形の石槽に貯まり、ついでそこから亀形石槽の顔の部分を経て直径1m強の甲羅部分に貯められる作りとなっていて、亀の手足などもはっきりと彫り出されていますが、これまた用途は明確になっていないそうです。

これらの遺跡はいずれも斉明天皇の治世に造られた両槻宮の一部または入り口施設ではなかったかと考えられていますが、亀形石造物の方は平安時代まで250年間も使われた形跡があるにもかかわらずその後土に埋もれてしまい、再び陽の目を見るようになったのは平成12年(2000年)の発掘調査のおかげ。それにしても、飛鳥資料館で見た須弥山石やこの後で通りすがることになるいくつかの石造物を見ると、飛鳥が「石の文化」に染まっていたことがよくわかり、何とも不思議です。

飛鳥宮跡

さらに南へ下って、ちょっと西へ入ったところに飛鳥宮跡がありました。ここはかつて皇極・斉明天皇(在位642-645 / 655-661)の板蓋宮があったところだということで「伝飛鳥板蓋宮」とされていたところですが、今では飛鳥時代に代々遷宮が行われたことによる複数の宮、すなわち飛鳥岡本宮(舒明天皇:630-636)、飛鳥板蓋宮(皇極天皇:643-645)、後飛鳥岡本宮(斉明天皇:656-660年)、飛鳥浄御原宮(天武天皇・持統天皇:672-694)がこの周辺に置かれたことがわかっており、いま整備されているのは飛鳥宮跡III期(後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮)の石敷遺構です。

飛鳥板蓋宮は、かつて「大化の改新」として授業で習った乙巳の変が起こったところですから、蘇我入鹿が中大兄皇子によって討たれた場所としてここを見ると感慨深いものがありますが、乙巳の変の原因については諸説あり。記紀の史観によれば専横が過ぎる蘇我氏を滅ぼして天皇中心の国家作りを進めるためであったということになりますが、当時の半島情勢の変化の中で唐・新羅を含む全方位外交を志向した蘇我氏を百済支持の守旧派が倒した(しかし後に白村江の戦いでその外交方針は破綻した)という説や、乙巳の変の首謀者は中大兄皇子ではなく変の直後に皇極天皇から位を譲り受けて孝徳天皇となり難波宮に遷った軽皇子であったという説まであって、まさに藪の中です。

岡寺

東の山の中へ、自転車ではつらい坂道をなんとか頑張って登ったところにあるのが、この岡寺です。

天智天皇2年(663年)、草壁皇子が住んでいた岡の宮を仏教道場に改め義淵僧正(良弁や行基の師)に下賜したもの、というのがお寺のリーフレットに書かれた創建の由来ですが、草壁皇子は662年の生まれなのでこの説明はちょっと変。『扶桑略記』等によれば草壁皇子の没(689年=持統天皇治世)後に皇子が住んでいた岡宮の跡に創建されたことが記されており、その位置は今の山の中へ奥まった場所ではなく山麓にあったようです。

仁王門をくぐって入った境内は明るく、コンパクトに建物がまとまっていて大変よい雰囲気。本堂の五色の幔幕から容易に連想できるように、ここは真言宗豊山派長谷寺の末寺です。日本最大・最古の塑像観音像であるという高さ4.8mの本尊《如意輪観音坐像》〈重文〉を拝むべきだったのですが、境内のシャクナゲに気を取られて御朱印だけいただくとそのまま奥に進んでしまいました。

義淵僧正が悪龍を封じ込め大石で蓋をしたという龍蓋池(岡寺の法号も「龍蓋寺」)の脇を抜け、十三重石塔を見上げながら谷の奥に進みます。シャクナゲの花がきれい。

瑠璃井の横のひんやり湿った道を登って一番奥にあるのは、丹塗りの鳥居も鮮やかな稲荷社と、その右奥に奥之院石窟。

山麓に向かって左側の尾根を戻るようにつけられたほぼ水平な道を進むと、ひっそりと義淵僧正の御廟とされる宝篋印塔。そして右手を見れば境内が見下ろせます。

さらに進むと新しい(昭和61年(1986年)再建)三重宝塔が立ち、そこから谷の向こうに飛鳥の地を一望することができました。

石舞台古墳

岡寺から坂道を颯爽と下り、再び南へ進んで突き当たりを東へ少し進むと、右の右側に整備された公園のような広場が現れました。そしてその中の一段高いところに、石舞台古墳がありました。築造後早い段階で墳丘が失われ、総重量約2,300トンにもなる30数個の岩で組み上げられた横穴式石室がむき出しになったもので、被葬者は蘇我馬子が有力視されています。

今から約40年前、私が中学生から高校生になる春休みに、学校の友人の親戚宅(大阪市内)を起点にして京都・奈良を数日かけて巡ったことがあり、飛鳥も訪れているのですが、そのときは何もない開けた場所にぽつんと石舞台があるだけという状態だったとぼんやり記憶しています。しかし今では周辺も整備され、その代わり石舞台古墳の中に入るのは有料。時の流れというのは世知辛い方に進むものです。

それにしても、久々に見る石舞台はやはり大きい。玄室にも入りましたが、これだけ大きく重い石を見事に組み上げた当時の土木技術には感嘆するばかりです。

橘寺 / 川原寺跡

西へ。橘寺(正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」)は、寺伝によれば当寺は、聖徳太子様のお生まれになった所で、当時ここには、橘の宮という欽明天皇の別宮があった。太子は、その第四皇子の橘豊日命(後の31代用明天皇)と穴穂部間人皇女を父母とされて、西暦572年この地にお生まれになり、幼名を厩戸皇子、豊聡耳皇子などと申し上げた。推古天皇14年に天皇の仰せにより太子が勝鬘経を講じたところ大きな蓮の花が庭に1mも降り積もり(蓮華塚)、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち(仏頭山)、太子の冠から日月星の光が輝き(三光石)、不思議な出来事が起こったので、天皇は驚かれて、この地にお寺を建てるよう太子に命じられた。そこで御殿を改造して造られたのが橘樹寺で、聖徳太子建立七カ大寺の一つに数えられたということです。

本尊は聖徳太子と如意輪観音。本堂=太子堂には《木造聖徳太子坐像》がおわしましたが、古いお札の太子のイメージしか持たない私にはちょっとピンとこないお姿でした。また、入山に際していただいた説明書きによると、寺の名前の由来は垂仁天皇の時、勅命を受けて常世の国へ不老長寿の薬を求めに行った田道間守たじまもりが10年の後に橘の実を持ち帰ったところ天皇は既に亡くなっており、持ち帰った実を当地に植えたためという言い伝えによるもので、また、田道間守は黒砂糖をも持ち帰ったので後に蜜柑・薬・菓子の祖神として崇められるようになり、菓子屋の屋号に「橘屋」が多く用いられる理由ともなったそう。

この寺でもっとも有名なのは、左上の「二面石」かもしれません。飛鳥時代の石造物の一つで、人の心の善悪二相を表したものとされています。また、太子が作られた阿字池や上述の三光石などがありましたが、このへんになるとちょっと眉唾のような……。

史実としてのこの寺の創建の経緯はわかっていませんが、発掘調査の結果からは、この寺がかつて東を正面として中門、塔、金堂、講堂を一直線に連ねる伽藍を持っていたことがわかっており、境内には五重の塔跡や廻廊跡がありました。

橘寺と道路を挟んで反対側には、川原寺跡がありました。かつては飛鳥寺、薬師寺、大官大寺と共に「飛鳥の四大寺」とされた名刹ですが、平城京遷都に際してこの寺だけは移転せず、その後中世には火災などもあって廃寺に。その伽藍は発掘調査によって概要が判明しており、中門から左右に伸びる廻廊に囲まれた区画の正面奥(北)に中金堂があり、その前に左の西金堂と右の塔とが相対する特異なものであったそうです。

亀石 / 鬼の俎 / 鬼の雪隠

そろそろ時間が気になってきました。17時までには飛鳥駅に着いて自転車を返さなければなりません。

ユーモラスな亀石。なんでこんなところに?と思うほど唐突に置かれていますが、当麻の蛇の仕業で湖が干上がって死んでしまった亀を弔ったもので、元は北向きだったものが現在の南西へと向きを変えており、亀が当麻の方向である西を向いた時、大和国一帯が泥の海に沈むという怖い伝説も残されているのだとか。実際のところ、いつ・なんのために造られたかはわかっていません。

鬼の俎と鬼の雪隠。鬼が通りがかりの旅人をつかまえ、俎の上で料理し、食べ終わったら雪隠で用を足したという言い伝えがありますが、もちろん実際は実は古墳の石室の蓋石(雪隠)と床石(俎)です。被葬者は不明ですが、7世紀頃のものである模様。

高松塚古墳

鬼の俎・雪隠から坂道を気持ち良く下って、ひと山ふた山越えたところにあるのが高松塚古墳。その前に高松塚壁画館に入りました。壁画館の中にあるのは、石槨のレプリカや壁画の模写。そそくさと眺めて回った後、すぐ隣の古墳本体に向かいました。

発掘調査により古墳の石室(石廓)の壁に塗られた漆喰上に極彩色の壁画が描かれていることがわかったのは、1972年のこと。描かれていたのは人物像、日月、四方四神及び星辰で、発見されたときのセンセーションは私も覚えています。その後、行政による保存策の失敗から壁画の劣化が進んだため、2006年からの保存工事で石室を解体して修理施設に移し、保存修理の後にこの古墳へ戻すことになっています。

古墳に眠っていたのが誰であったかは、鎌倉時代の盗掘によって副葬品等が失われていることもあり、わかっていません。ただし、この古墳が築造されたのが藤原京時代(694-710)であるらしいことは判明しており、そこから諸説が唱えられているそうです。

これで飛鳥の社寺と遺跡巡りは終わりです。40年ぶりの飛鳥は懐かしくもあり新鮮でもありましたが、奈良が現代に続く歴史の中に位置付けられる「都市」であったのに対し、飛鳥は朦朧とした神話の中に溶け込んだ「土地」であると感じました。ただし、今回は時間の都合で甘樫丘に登ることができなかったのですが、その頂から飛鳥の盆地や大和三山を眺めたなら、また違った印象を持つのかもしれません。もっとも、そうした機会が来ることが果たしてあるかどうか……。

ともあれ、飛鳥駅で自転車を営業所に返してから近鉄吉野線に乗って吉野へ向かいました。

吉野川を渡る際に上流を眺めると、そこには谷崎潤一郎『吉野葛』の世界……などと遠い目をしていましたが、吉野駅で待っていたのは「吉野山ロープウェイ運休」のお知らせでした。もちろん代行バスが運行されているのですが、その運行もこの日は既に終了しているようです。ということは、たとえロープウェイが通常営業していたとしても営業時間は過ぎていたということ?これはリサーチ不足でした。

仕方ない、歩いて登るか……と言ってもせいぜい30分程度の登りです。七曲坂をジグザグに上がると着実に高さが稼げて、吉野という名の異世界に踏み込みつつあるという実感が湧いてきました。

今宵の宿は「旅館 歌藤」です。日曜日の夜の泊まりとあって宿泊客は他におらず、静かな宿でした。

料理もお酒も美味。右下の赤いものはシャキシャキというよりコリコリという感じで、不思議な食感。奈良県の特産(大和野菜)である「片平あかね」というカブだそうです。