塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

奈良の社寺巡り〔室生寺・長谷寺・春日大社・東大寺〕

例年ゴールデンウィークは後立山を中心に雪山に行くことが多かったのですが、今年は寡雪を嫌気して早々に雪山は諦め、熊野古道の内の奥駈道を吉野から熊野本宮へ歩くことを計画しました。しかし、行程の後半に予想される雨天と直前の仕事疲れからこの山行は取りやめ、がらっと趣を変えて奈良の社寺を巡ることに。ちょうどシャクナゲや牡丹の季節なので初日は久しぶり(たぶん30年ぶり)に室生寺と長谷寺を訪れ、2日目は定番の春日大社から東大寺へとハシゴすることにしました。

2016/04/29

室生寺

11時少し前に近鉄の室生口大野駅で相方と待ち合わせ、バスに乗って室生寺へ向かいました。この日は冷たい風が吹いていて肌寒く、肩をすぼめながらの拝観です。

縁起によれば、室生寺は奈良時代の末期に、後に桓武天皇となる皇太子山部親王の病気平癒祈願をこの地で行い、卓効があったことから勅命によって創建されたものとのこと。法相・真言・天台の各宗兼学の寺院であり、女人の済度をも図る真言道場として女性の参詣を許したことから女人高野とも呼ばれました。

バス停から5分ほど歩いたところに赤い欄干も鮮やかな太鼓橋があり、これを渡って右折すれば三宝杉の先に仁王門があっていよいよ境内です。しかし30年前の記憶は、綺麗な五重塔があったことと長い石段が森の中に続いていたことくらい。

仁王門を入ってすぐ左手にあるのがこの鎧坂。早くも深山幽谷の寺という雰囲気が漂ってきます。石段をとんとんと上がった先は小さな広場になっていて、左手には弥勒堂(鎌倉時代)〈重文〉、正面には金堂(平安時代初期)〈国宝〉。興福寺の伝法堂を受け継いだものと伝わる弥勒堂の中には、厨子入りの小ぶりな《弥勒菩薩立像》(平安時代前期)〈重文〉と、どっしりした安定感と穏やかな顔立ちが印象的な客仏の《釈迦如来坐像》(平安初期)〈国宝〉。そして金堂の方には、本尊《釈迦如来立像》(平安初期)〈国宝〉、《文殊菩薩像》〈重文〉、《十一面観音菩薩像》〈国宝〉、《薬師如来像》〈重文〉、《地蔵菩薩像》〈重文〉、さらに運慶作と伝わる《十二神将像》〈重文〉。まさに綺羅星の如くに尊い御仏が立ち並んでおられて、自然に頭が下がります。

金堂の横の石段を上がると、四角い池の向こうに本堂の灌頂堂(鎌倉時代)〈国宝〉。室生寺の本尊《如意輪観音菩薩像》(平安時代)〈重文〉が安置され、上がらせていただいて手を合わせましたが、蓮華の上に右膝を立て右肘(と言っても六臂なのですが)を膝の上に置いて頬杖をつくそのお姿は、光背の炎の装飾とは裏腹に得も言われぬ寛ぎを感じさせます。

屋外に立つ五重塔としては我が国最小(16.1m)であるというこの塔(平安時代初期)〈国宝〉は、九輪の上に、水煙の代わりに宝瓶を載せて宝鐸を吊り巡らせているのが変わっています。平成10年(1998年)に台風によって著しく損傷し、その写真も掲示されていましたが、わずか2年で修復されました。

森の中の石段は記憶の中のそれほどには急でも長くもなく、少しの頑張りで最上部の奥の院に到着しました。

一番奥にこじんまりと立っている四角い建物が御影堂(鎌倉時代)〈重文〉で、中には弘法大師42歳の像が安置されています。左手の常燈堂の周囲をぐるりと回って麓を見下ろし、岩の上に立つ小さな七重石塔を見上げて(本当は岩に登りたかったのですが、接近禁止でした)、往路を戻りました。

ご覧の通り、シャクナゲが花盛り。特に灌頂堂の前の株は白から濃いピンクまで発色の幅が大きく、見応えがありました。

長谷寺

室生寺の前から30分おきに出ている直行バスに乗って、長谷寺へ。あいにく仁王門〈重文〉は修理中でしたが、境内に入ると長谷寺の特徴である登廊〈重文〉が独特の雰囲気を作り、周囲に配された牡丹も見事でした。

長谷寺の創建は8世紀前半とされていますが、詳しい事情は明らかなっていません。当初は東大寺の末寺であったものが平安時代中期に興福寺の末寺となり観音霊場として信仰を集め、16世紀に真言宗豊山派の総本山となりました。

順路としては登廊を真っすぐ登るところなのですが、左手に伸びるこの道が気になったので寄り道をしてみることにしました。緩やかな坂を登って左に折れると、そこは本坊〈重文〉でした。

中に入ることはできませんが、奥を覗くと廊下の先には紅葉の仲間の猩々野村。そして振り返れば小初瀬山の中腹に五色の幔幕を垂らした本堂。

寄り道ついでに、登廊をはさんで本坊と反対側の二本杉を見に行ってみました。『源氏物語』の「玉鬘」で、夕顔の侍女であった右近が探していた夕顔の娘・玉鬘とこの長谷寺近くで会えた理由の一つはこの再会がかなう霊木のおかげとされていますが、見たところではそれほどの霊気は感じず、その奥にある藤原俊成碑と藤原定家塚も由来がわからなくて、なんとなく「?」という感じ。

気を取り直して、登廊を登ると今度は……。

紀貫之の「故里の梅」。百人一首でも有名な人はいさ心も知らず故里は 花ぞ昔の香ににほひけるという和歌が歌われたのは、長谷寺詣でのためにこの地の宿に泊まったときのことだということを、初めて知りました。ちなみにこの歌は宿の主人(おそらく女性)に対して歌ったものですが、返歌は次の通り。花だにもおなじ心に咲くものを 植ゑけむ人の心知らなむ

登廊を登り詰め、やっと本堂〈国宝〉に到着しました。そこにあったのは「復興の鐘」。4月14日から始まった九州の連鎖地震の被災地の復興を祈念して、普段は僧侶のみが打つことを許されている梵鐘を参拝客にも開放したものです。下に立って合掌してから長い紐を引くと、滑車の働きで撞木が動き鐘がつかれる仕組み。柔らかい音色が響きました。

そしていよいよ、本堂のうち正堂に安置された本尊《十一面観音像》とのご対面です。幸いにも年に二度の特別拝観期間に当たり、普段は立ち入ることのできない内陣に入ることができました。

五色線を左手首につけていただいて本堂の奥へ入ると、内々陣の狭い入り口があり、そこに観音様の金色のお御足。自分の順番がきたら祈りながらお御足に触らせていただいて、そこで見上げるとなんとも巨大な木造十一面観音立像がそこに立っていました。これは大きい!高さは10m以上あり、右手に錫杖と数珠、左手に水瓶を持って穏やかにそこに立っておられます。地蔵菩薩が持つ錫杖を観音菩薩が持っているのは豊山派独特の形式だそうで、したがって鎌倉の長谷寺の観音様も同じ形式です。天文7年(1538年)の作品だそうですが、この世の始まりからそこにおわすような絶対的な安定感と存在感がありました。

本堂を出て、その前にある舞台を伴った礼堂をぐるりと巡りました。舞台の上からは下の方に先ほどこちらを見上げた本坊が見えており、ぐるっと向きを変えれば本堂内のご本尊のお顔を拝むことができました。

長谷寺でのメインイベントは終了し、後は落穂拾い的に順路を歩くだけ。大黒堂で富貴を願ってから、石段を下りました。

昭和29年(1954年)に建立された五重塔を見に行きましたが、その前にある小さな三重塔跡の苔むした雰囲気の方がむしろ好ましいものに感じられました。

本長谷寺と名付けられたお堂もありました。これは、天武天皇御悩平癒のために道明上人が精舎を建立したところだそうで、これが長谷寺の始まりとされることから本長谷寺と称するのだとか。

興福寺の境内を抜け、猿沢池の畔を歩いて「酒肆春鹿」へ。

最初にお楽しみ酒としていただいたグラス1杯500円の「儀助」特別純米無濾過生原酒が抜群においしく、その後の食事もお酒も進みました。

2016/04/30

今日は、奈良市内の定番コースを巡ってから東京に戻る日。

奈良公園で鹿せんべいを買ってみましたが、鹿たちの目ざといことには驚くばかりです。そんなに鹿せんべいが欲しいのならせんべい売りのおじさんやおばさんを襲えば簡単なのにと思うのですが、おそらくその辺りは厳しく躾けてあるのでしょう。

春日大社

前回春日大社を訪れたのは2012年の11月のこと。そのときは雨でしたが、今日はきれいに晴れてくれています。

二之鳥居をくぐったところにある伏鹿手水所で手と口を清めてから、表参道を奥へ。

石灯篭が立ち並ぶ参道の光景も、今日は妙に明るいものに感じられます。

これまたラッキー。この日は御本殿の特別参拝が許されていました。

砂ずりの藤の近くで相方が御朱印をいただいている間に、白装束と緋色の袴の若い男女がぞろぞろと特別参拝入り口から入って行きました。あれは、何?

朱色が鮮やかに輝く大宮の中、林檎の庭を左に見て、まずは東回廊を緩やかに下り桜門を外に出て大宮の東側に回りました。

御蓋山浮雲峰遥拝所は、平城京守護のために鹿島の武甕槌命が白鹿の背に乗って天降ったという御蓋山(禁足地)を遥拝するところ。よくわからないながらに祈りを捧げてから大宮の中に戻り、名だたる武将が奉納した釣灯篭を見たり御廊の中門から御本殿の第二殿・第三殿を拝んだり大杉の大きさに圧倒されたりしつつ、御仮殿参拝所へ。

今年は式年造替の年に当たるため大神様はこちらに御遷座なさっていました。

御仮殿を抜けて北に回り、藤の花が垂れる多賀神社の先、明治維新以来140年ぶりに開門したという後殿各社参拝所から霊験あらたかそうな各種の神様(建物の高層階で生活する人々の安全をお守り下さる神様、というのもおられました)にお参り。

藤浪之屋の中では、真っ暗な屋内に釣灯篭を下げ、壁を鏡とすることで、2月の節分と8月14・15日に行われる万燈籠神事を再現していました。

大宮への参拝を終えたら、しばし境内を散策。若宮から紀伊神社までを歩きましたが、途中の夫婦大国社の前に鈴なりにぶら下がっていたハート型の絵馬には大笑いしました。たいていは「幸せな夫婦になれますように」というラブラブなものなのですが、中には「◯◯さん、連絡ください」と伝言板と勘違いしているものもあれば、「◯◯君と良縁がむすべますように。彼女に勝てますように」と闘争心をあらわにしたものもあって、願いを聞く神様も大変なことだと思いました。

手向山八幡宮

東大寺へ向かう道筋にあったのが、手向山八幡宮です。天平勝宝元年(749年)に、宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請されたという由来を持ち、平重衡の南都焼討によって焼亡した後、建長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建したのが今の社殿で、住吉社本殿は重要文化財になっています……ということを知ったのは帰宅してからのこと。このときは拝殿を眺めただけで先を急ぐことにしました。ちなみに、菅原道真のこのたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまにに出てくる手向山は元来「神に御幣を捧げる山」という意味の一般名詞ですが、宇多上皇の吉野宮滝御幸に随行した際にこの神社で歌われたものという伝承もあるようです。

ところで、石灯籠のこのインパクトのあるマークに注目!「セミ?」「フクロウ?」と相方と議論しましたが、実は二羽の鳩が向かい合っている御神紋=「向かい鳩」でした。鳩は「八幡大菩薩の使い」であり、勝利を呼ぶ武運の瑞鳥。特に「向い鳩」は八幡の八を表すそうです。

東大寺

いよいよ着きました、東大寺・法華堂=三月堂〈国宝〉。寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺の遺構とされ、東大寺建築のなかで最も古いものです。2011年5月にこちらを訪れたとき、須弥壇及び諸尊像の修復事業のためにお目当ての《不空羂索観音立像》〈国宝〉を拝むことができなかったので、今回こそはと大きな期待を持っていたのですが、その願いはかなえられました。

四隅を四天王が固め、左右には梵天と帝釈天を控えさせ、阿吽の金剛力士が前衛を受け持って、中央に「聳え立つ」という表現を使いたくなるほどの高さを持って、不空羂索観音がそこにいました。大きい……素晴らしい存在感に圧倒され、声も出ません。一面三目八臂、緩やかにウェーブする羂索をもって衆生を漏れなく救済して下さる菩薩。相方ともども、救済を願って手を合わせました。諸尊像もそれぞれに巨大で、まるで異次元に放り込まれたような感覚を、この空間はそこにいる者に与えます。もちろん、ここにいるすべての像が奈良時代の制作で、国宝です。

興奮さめやらぬ……というより圧倒されて腑抜けになった状態のまま、お隣の二月堂〈国宝〉へ。御本尊の大観音・小観音はいずれも絶対秘仏ですが、奈良盆地を見下ろす広闊な眺めは相変わらず見事でした。

近くの休憩所には修二会の籠松明が展示されていました。「おたいまつ」も、いずれ見に来たいものです。

二月堂から大仏殿へ向かう道を、時折振り返りながら下ります。途中立ち寄った巨大な鐘楼は鎌倉時代、梵鐘は奈良時代。とにかく東大寺は、一つ一つのサイズがでかいのが特徴です。

奈良最大の観光スポット、東大寺金堂=大仏殿〈国宝〉。ここには何度も訪れていますが、相方の方は中学校の修学旅行以来で四半世紀ぶりとのこと。大仏殿の中は、興奮気味の外国人観光客で芋の子を洗うようでした。

左サイドには《虚空蔵菩薩坐像》〈重文〉、そして広目天の顔立ちはマヤの戦士を思わせる精悍なもの。

背後から仰ぎ見る《盧遮那仏坐像》〈国宝〉も、誠にありがたいお姿です。

多聞天立像には気品あり、そして大仏に向かって右脇が《如意輪観音坐像》〈重文〉。ところで、創建当初は四天王はちゃんと四体いて四隅を守っていたのですが、江戸時代の再建に際して持国・増長の二天は造られることがなかったそうです。

平等院

以上で今回の旅の目的は果たされたことになりますが、少し時間があるので、奈良から京都へ戻る途上で宇治の平等院に立ち寄ることにしました。藤原道長の別荘を受け継いだ関白・藤原頼通が永承7年(1052年)にこれを寺院に改めたものが平等院で、当初はさまざまな堂塔が建ち並んでいたものの、その後の戦火等により失われ、奇跡的に鳳凰堂だけが残ったのだそうです。

鳳凰堂の内部を拝観したかったのですが、着いたときには既にこの日の拝観受付は終了していました。残念。

パンフレットによれば、鳳凰堂の中はこのようになっているそうです。本尊《阿弥陀如来像》〈国宝〉は像高284cm。周囲の長押の上には雲中供養菩薩が飛翔し、それぞれに琴、琵琶、笛、笙、鼓などを持ち、あるいは合掌して本尊を見守っています。これは、実際にこの目で見たかったな。

鳳凰堂の周囲をぐるりと回ってみました。平等院の創建年は、当時の思想では末法の元年。そうした中にあって西方極楽浄土を観想するため、現世の極楽浄土として造られたというこの平等院と庭園とは凛として引き締まったバランスを示して、どれだけ観光客の喧騒の中にあっても超越的な雰囲気を醸し出していました。

境内には、平安末期の武人にして歌人の源三位頼政の墓もありました。以仁王を奉じて平家打倒の兵を挙げたものの、南都に逃れる途中で疲弊した以仁王と共に平等院に入ったところを平家軍に追いつかれ、以仁王脱出の時間を稼ぐための戦闘の末にこの境内で自害した老将の辞世は次の歌。

埋木の花咲く事もなかりしに 身のなる果はあはれなりける

見事な藤棚を眺めてから宇治の駅に戻り、そこから京都に出て旅は終了です。初めて訪れたところはなかったものの、30年ぶりに室生寺・長谷寺を訪れ、春日大社では御本殿、東大寺では《不空羂索観音立像》を拝むことができて、充実した旅となりました。御朱印ハンターの相方も、御朱印帳にこれでもかというくらいに御朱印を戴くことができて大満足だったようです。めでたしめでたし。