塾長の鑑賞記録

日本フィルハーモニー交響楽団 『2001年宇宙の旅』

2015/11/25

既にクリスマスの装いのBunkamura オーチャードホールにて、ライブ・シネマ・コンサート『2001年宇宙の旅』。

『2001』はこれまでに何度か見ていますが、この日の上映はオーチャードホールを映画館とし、スクリーンの前にオーケストラを置いて主要な曲を生演奏するという企画です。この企画は2010年以来ヨーロッパ各地や米国数都市、シドニー、上海でも上演されており、都市ごとに地元の楽団を用いて演奏されてきました。この日の指揮はロバート・ジーグラー、演奏はオケが日本フィルハーモニー交響楽団、合唱が東京混声合唱団で、山田茂氏が合唱指揮です。

映画と生演奏を合わせるという企画は、以前『メトロポリス』でも体験していますが、あちらはもともとサイレント映画なのに対し、こちらはもちろん音声入り。音楽が演奏される部分だけ映画の音を消している模様ですが、タイミングをぴったり合わせるには指揮者の技量が求められそうです。

脚本と同時並行で書かれたアーサー・C・クラークの小説版『2001』が多分に説明的であるのに対し、スタンリー・キューブリック監督の映画版『2001』は必要最小限のセリフで観客に想像力を最大限に働かせることを求め、または理解しようとする努力を放棄させる作りになっています(月面のモノリスの役割やHAL9000の暴走の理由は、小説版を読まなければまず理解できません)。これは、もとはナレーションで情報量を補うことを予定していたものの、キューブリックが途中で方針を転換し、この作品を、言語体系を超えて、感情と哲学が直接人々の潜在意識に訴える映像体験(a visual experience, one that bypasses verbalized pigeonholing and directly penetrates the subconscious with an emotional and philosophic content)をもたらす映画とすることにしたからです。そのため必然的にこの映画における映像以外の主要な表現手段は音楽になり、いくつかの印象的な楽曲が劇中に導入されることになりました。

キューブリックは既存のクラシック曲や現代音楽を用いた仮のトラックを作って映像をカットし、それを1960年の作品『スパルタカス』で組んだ作曲家アレックス・ノースに示してオリジナルサウンドトラックの作曲を依頼して、ノースも前半40分間にあたる曲を作りキューブリックに提示したのですが、何の連絡もないままにキューブリックはノースの曲を放棄して、テンプトラックをそのまま採用したのだそうです。そこに織り込まれたのは、シュトラウス、ハチャトゥリアン、リゲティの曲でしたが、それらの中でとりわけ強烈な印象を与えるのは、やはり冒頭の宇宙の夜明けとヒトザルの覚醒、スターチャイルドのラストシーンで演奏されるリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」でしょう。『2001』と「ツァラトゥストラ」は、ほとんど対の存在であると言っても過言ではないほどです。

演奏中、舞台上に配置されたオーケストラや合唱隊はオレンジの光に包まれ、そのためスクリーンの下部が光を浴びてしまっている点は若干のマイナスポイントですが、ともあれ以下、映画の進行に沿って楽曲の様子を紹介してみることにします。

リゲティ 「アトモスフィール」
上映開始前、スクリーンが暗いままに弦と管とが、何かの予感のような不協和音を奏でます。
リヒャルト・シュトラウス 「ツァラトゥストラはかく語りき」導入部
映画の冒頭、宇宙の夜明けを示すあの印象的なメインタイトルにかぶさる、圧倒的な存在感の楽曲。コントラバスの重低音、管による輝かしい覚醒、ティンパニの轟き。これを聴くと、音楽というのは単に耳で聴くだけのものではなく、指揮者のタクトや弦の弓、打楽器のマレットなどの動きがもたらす視覚効果もまた音楽の一部なのだということがわかります。ただし、最後に入るはずのパイプオルガンはさすがに省略されていました。
リゲティ 「レクイエム」からキリエ
ヒトザルがモノリスと遭遇する場面で流れる、聴く者の不安をかきたてるトーンクラスターの合唱曲。
リヒャルト・シュトラウス 「ツァラトゥストラはかく語りき」導入部
ヒトザルの一人=ムーンウォッチャーがふとモノリスとの遭遇を思い出し、考え込みながら動物の骨をもてあそぶ内に、その骨を武器として使用できることに気づき徐々に高揚する場面は、全編中でも最高の名演技です。
ヨハン・シュトラウスII世 ワルツ「美しく青きドナウ」
投げ上げられた骨が宇宙空間を進む宇宙船に変わり、シャトルがステーションに到着するまで。回転するステーションに近づくシャトルの尾翼にはパンナムのマーク。音楽に沿って優雅に飛行するシャトルの動きと、ステーションに入るために姿勢を制御するシークエンスでのシャトル操縦席の計器類のいかにもSFな造形は見応えがあります。
リゲティ 「ルクス・エテルナ」「レクイエム」
月面をムーンバスがモノリス目指して低空飛行する場面から。これまた、恐れを抱かせる曲調の合唱曲。そして、地下から掘り出されたモノリスに日が当たると、モノリスは木星に向かって信号を発信します。それは、地球に生まれた生命が月に到達し、モノリスの磁力を発見してこれにアクセスできるだけの進化を遂げたことを知らせるものでしたが、このことは映画を見ただけでは普通はわからないでしょう。
ハチャトゥリアン 「ガイーヌ」からアダージョ
18ヶ月後、暗い宇宙の中を後方(太陽の方向)から光を受けながら静かに慣性飛行を続ける宇宙船ディスカバリーと、その中で黙々とジョギングをする宇宙飛行士の孤独。どこまでも美しいチェロの響きが切なく、HAL9000とクルーに与えられたミッションの冷たさ、つらさが伝わってきます。上述のように『2001』と言えば「ツァラトゥストラ」、ついで「ドナウ」が想起されますが、私はこの場面のこの曲が『2001』の中で最も好きです。

この後しばらく舞台上は暗くなり、HALと二人の宇宙飛行士の物語が途中の休憩まで音楽なしで続きました。飛行士たちには伝えられていないミッションの目的を知らされているHALは、秘密を抱えていることの葛藤の内に徐々に混迷し始め、そのことに不安を抱いた二人の飛行士はHALに会話を聞かれないようにポッドの中で意見交換をするのですが、HALの変調に気づきながらもボーマン船長が「HAL9000シリーズはエラーを犯したことがない」と話すと、これに対してフランク・プール飛行士は「ハルも木から落ちるというでしょう?」。いや、この字幕の訳はすごいなと思いながら後で原文を探してみたら、こうでした。Unfortunately, that sounds a little like famous last words.ここで出てくる「famous last words」というのは慣用句で、言ってみれば「まゆつばもの」くらいの感じですから、確かに雰囲気を伝える苦心の訳とは言えそうですが、それにしても……。

リゲティ 「アトモスフィール」
休憩後、後半が始まる前に再び。

その後、HALの反乱によって船外で窮地に陥ったボーマン船長はやっとの思いで船内に帰還し、HALの中枢機能を少しずつ落としていきます。宇宙服の中でのボーマン船長の呼吸音が強い音響効果をもたらす中、徐々に誕生の時まで記憶と思考能力を退化させてゆくHALは初期の教育の中で教わった「デイジー・ベル」を歌いましたが、小説版では出てきた「スペインの雨は主に平地に降る(The rain in Spain stays mainly in the plain.)」というフレーズは映画では出てきませんでした。

リゲティ 「レクイエム」からキリエ
木星近くの空間に浮遊する巨大なモノリス。
リゲティ 「アトモスフィール」
ポッドに乗ったボーマン船長が、めくるめく光の乱流=スターゲートに入って行く場面で。確かこの中だったと思いますが、舞台上に置かれたピアノの弦を横からひっかく効果音も活用されていました。

そしてボーマン船長は、光に満ちたロココ調の部屋の中に閉じ込められ、ドッペルゲンガーの連続の中で急速に年老いていきます。最後に死を待つばかりの老人となったボーマン船長の前にモノリスが姿を現わし、ボーマン船長の姿は胎児=スターチャイルドへと変化します。

リヒャルト・シュトラウス 「ツァラトゥストラはかく語りき」導入部
宇宙空間に青く浮かぶ地球と、その地球を見下ろすスターチャイルド。この映画のラストにして、最も謎めいた場面。ただし、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』を読んでいれば、この場面が意味するところはある程度は想像がつくでしょう。
ヨハン・シュトラウスII世 ワルツ「美しく青きドナウ」
エンドロール、そして上映終了後の退場曲として最後まで。

こうしてみると、『2001』は映像と音楽とに同等の重要性を与えた作品であり、それぞれの場面にはめこまれた楽曲はまさにこの場面のために作曲されたかのような親和性を発揮していたことがわかります。キューブリックの音楽に対する深い理解と、観客のイマジネーションの力に対する強い信頼があって、初めてこの作品は成り立つことになったのでしょう。この日のコンサートは、映画史に残る傑作をそれまでに気がつくことのなかった新しい視点から眺め直すことができた、たいへん貴重な機会でした。

ところで、この映画が封切られたのはアポロが月面に到達する前年の1968年。そこから見た2001年は文字通り近未来であったわけですが、その近未来世界を2015年になって振り返り見るというのはなんとも不思議な感覚です。次に見るときは、映画の中のアイデアがどれだけ実現できているか数えてみようかとも思います。