塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

奈良の社寺巡り〔法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺〕

前日、国立文楽劇場で文楽を観て大阪は天王寺に1泊した後の日曜日は、斑鳩へ足を運ぶことにしました。「斑鳩三塔」と総称される法隆寺・法輪寺・法起寺の塔を巡ろうというもくろみですが、この日は朝のうちが雨模様なので、ゆっくりホテルを出て天王寺界隈を少し散策することに。

道に迷ってたまたま通りがかった安居神社は、真田幸村戦死跡だそうです。幸村の立派な像もあり、その右手の甲にくっきり浮かぶ六文銭に「次こそ宝くじが当たりますように」とお祈りをしました。

そして、大阪の塔(?)といえば通天閣です。あらゆる商魂を吸い上げて高みを目指すかのようなタワーの上階でビリケンさんと対面し、いかにも大阪なあれやこれやに気圧されるものを感じた後、気を取り直してJR関西本線で法隆寺を目指しました。

2015/11/15

斑鳩を訪れるのは初めてではないはずですが、では前回はいつ来たのかと問われるとまるで思い出せません。可能性があるとすれば、中学3年生から高校1年生に上がる間の春休みに同級生の大阪の親戚の家に数日泊めてもらって京都・奈良・明日香を歩き回ったことがありますから、そのとき。もしそうだとすると、実に40年ぶりです。

法隆寺

法隆寺駅からてくてくと車道を歩いて20分、まだ雨雲が残る空の下を歩き続けて法隆寺へ。

松並木の参道の突き当たりの南大門〈国宝〉を抜けて境内に入ると、石畳の向こうに五重塔が見えてきました。定石に従って、まずはメインの伽藍が展開する西院から拝観することにします。

聖徳太子は推古13年(605年)に飛鳥から斑鳩宮に移り住み、その隣に法隆寺を造営しました。斑鳩宮は今の東院、法隆寺が今の西院ですが、607年に完成した創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)は天智9年(670年)に焼亡し、現在残る法隆寺は7世紀から8世紀にかけての時期に再建されたものです。それでも、現存する世界最古の木造建築物群であるとされています。

金剛力士像が守る中門〈国宝〉を正面に見てから、左側から廻廊の中に入って、目の前に五重塔〈国宝〉を見上げました。

高さ32.5mの塔はそれでもどこか慎ましやかな風情をたたえてそこにありましたが、初層の内陣を東西南北から覗くとさまざまな場面を描く塑像群を見ることができ、中でも北面の釈尊入滅では口を開けて嘆き悲しむ沙門の姿が実にリアルで面白いものでした。

隣の金堂〈国宝〉は内陣に入ることができ、有名な飛鳥時代の《金銅釈迦三尊像》〈国宝〉を中心に飛鳥時代の《金銅薬師如来坐像》〈国宝〉、鎌倉時代の《金銅阿弥陀如来坐像》〈重文〉、白鳳時代の《四天王像》〈国宝〉などが居並ぶ姿を目の当たりにすることができました。そして、2014年の「法隆寺 祈りとかたち」展に出展されていた平安時代の《毘沙門天立像》〈国宝〉と《吉祥天立像》〈国宝〉も懐かしい姿を見せていました。

本尊《金銅釈迦三尊像》は、正面から見られることだけを意識したかのようなこの面長な顔立ちと独特のアルカイック・スマイル、平べったい造形がなんともエキゾチック。施無畏与願印には、見る者を癒す力があるかのようです。これは、どれだけ時間をかけて眺めても見飽きるということがありませんが、ちょっと残念なのは、拝観路と本尊との距離が微妙に遠く、その細部までを仔細に確かめることができない点です。

廻廊の外に出て、いったん拝観コースを離れてぐるりと西の方に回り込んでみました。西室三経院とその奥の一段高いところにある八角形の西円堂も共に国宝で、西円堂の中には本尊《薬師如来坐像》〈国宝〉が安置されています。

東室聖霊院〈国宝〉の前を通って高床式の綱封蔵〈国宝〉の横を北へ。

食堂〈国宝〉の裏手の大宝蔵院には、有名な仏像や仏具が納められています。白鳳時代の《夢違観音像》〈国宝〉の名は「悪い夢を見たとき、この観音像に祈るとよい夢に変えてくれる」という言い伝えに由来するものですが、小ぶりながらすっきりと美しい立像です。

かたや推古天皇所持の仏殿と伝わる《玉虫厨子》は全体に黒ずんで輝きを失っているように見えましたが、宮殿型の造形は頂に鴟尾を乗せて優美。一方、蓮華座上の阿弥陀三尊を納める《橘夫人厨子》は上段の張り出しが重量感を醸し出していました。

そして一番奥まった一間(百済観音堂)の《百済観音像》〈国宝〉は、像高210cmと高く、しかも驚くほどに細身ですんなりとした体つきが、そのぼんやりと佇んだようなお顔立ちと共に儚げ。左手に持つ水瓶すらも重量感を失っているかのようです。様式的な金堂の《釈迦三尊像》に比べるとその表現は写実的でありながら、どこかに浮遊感を湛えてなんとも不思議な魅力に包まれていました。

仏さまたちのお姿を堪能してから、今度は東大門〈国宝〉をくぐって石畳の参道を東院へ向かいます。

東院の中心にあるのが、天平年間の創建になる夢殿〈国宝〉です。岡倉天心とフェノロサが開封したことによって世に出た秘仏《救世観音像》〈国宝〉がちょうど開帳期間にあたり、そのお顔を拝むことができました。正直に言うとその下ぶくれの顔立ちはいまひとつ美しさを感じなかったのですが、保存状態が良かったことで残された金箔の輝きには目を瞠るものがありました。

夢殿を囲む廻廊を出て、裏手の鐘楼〈国宝〉、伝法堂〈国宝〉を横目で見ながら、隣接する中宮寺に向かいました。

中宮寺

中宮寺は、聖徳太子の母・穴穂部間人皇后の発願により、斑鳩宮をはさんで西の法隆寺と対称の位置に尼寺として創建されたものとされています。現在の位置よりも東に500mの場所に旧跡の土壇が残り、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式伽藍(若草伽藍と同じ)であったそうです。しかし平安時には衰退し、16世紀末頃に現在の位置に法隆寺から子院地を借りて本尊《菩薩半跏像を守り今日に至っています。

境内には、亀がうようよいる池に囲まれてモダンな本堂が建ち、その奥にほぼ等身大の本尊《菩薩半跏像》〈国宝〉を祀っていました。寺伝では如意輪観音ながら、もとは弥勒菩薩像であろうとされ、今は油煙などによって黒々としていますが、クスノキ材の上に当初は彩色され、装身具も身に着けておられたとの解説が録音で流されていました。この像は本堂の少し奥まったところにあるものの数mの間近で拝見することができるのですが、敬虔な信者の皆さんが像の前の畳の上に座して拝んでおられたために近寄ってまじまじと眺めることははばかられました。しかし、それでもこのお姿と表情の優美な様はやはりこれまで観てきた仏像の中でも別格であり、この像が飛鳥時代から現代まで守られてきたことは奇跡ですらあると思えます。

また、聖徳太子の妃・橘大女郎が相次いで亡くなった穴穂部間人皇后と聖徳太子の死を悼んで采女に織らせた《天寿国繍帳》〈国宝〉のレプリカも、本堂内に飾られていました。これは聖徳太子がおわすであろう西方浄土の様子を描いたもので、その中にいくつかの亀形を置き、その甲羅に文字を書いて繍帳制作の由来を説明する銘文としていたそうです。なるほど、それで池に亀がたくさんいたのか。

本堂の前に会津八一(秋艸道人)の歌碑みほとけのあごとひぢとにあまでらの あさのひかりのともしきろかもを見てから法隆寺西院の前に戻る頃になって、ようやく青空が広がりだしました。参道の店で昼食をとってから、徒歩15分の法輪寺を目指しました。

法輪寺

法輪寺は山背大兄王が聖徳太子のために建立した寺と言われ、伽藍配置は法隆寺と同じ。かつては法隆寺の三分の二の規模があったそうで、そのことは講堂内の絵図で見てとることができました。

残念ながらこの塔は昭和19年(1944年)に落雷で焼失してしまい、昭和50年(1975年)になって再建されたものなので、三塔の中では唯一国宝になっていません。それでも優美な姿は一見の価値がありますし、収蔵庫を兼ねる講堂に収められた仏像群は見事なものです。特に《木造薬師如来坐像》〈重文〉は法隆寺金堂の《釈迦三尊坐像》と似たお顔立ちで、《木造虚空蔵菩薩立像》〈重文〉と共に飛鳥時代後期の作で、むしろこれらを目当てにこの寺を訪ねてもよいと思われます。

法起寺

法輪寺を出て左へ車道を15分ほど歩くと、コスモス畑の向こうに法起寺の塔が見えてきました。

法起寺は推古14年(606年)に聖徳太子が法華経を講説した岡本宮を太子の薨去に際して寺に改めたものとされ、発掘調査の結果でもここに宮殿の遺構が確認されているそうです。

こじんまりとした西門をくぐって境内に入れば、すぐ向こうに塔の先端が見えました。もとは南の中門を入って右に三重塔、左に金堂、正面奥に講堂があり、周囲を回廊が囲む伽藍配置でしたが、室町時代以降は徐々に衰微し、江戸時代の始め頃には三重塔しか残されていませんでした。その後、元禄年間に講堂を再建し、文久年間(19世紀)には聖天堂を建立して現在の寺観が整ったそうです。

三重塔〈国宝〉は慶雲3年(706年)建立で、現存する最古の三重塔。写真で見ると小さく見えますが、実際にその前に立ってみると意外なほどに堂々と大きく(高さ23.9m)、しかも軒のカーブなどは優美。これほどの建造物を作る技術が1300年も前にあったということにほとほと感心します。また、境内の収蔵庫には10世紀後半頃の作とされる杉材製・像高3.5mの立派な《木造十一面観音菩薩立像》〈重文〉が安置されていました。

三塔を巡り終えて、法起寺から法隆寺駅へ向かう途中、雲間から光さす奈良盆地の景色の右端近くに先ほど訪れた法輪寺の塔が見えました。前景は大きく変わっていても、荘厳な塔の眺めは飛鳥時代の人々が見たものと同じであったことでしょう。