塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

エッグ(NODA・MAP)

2012/10/24

東京芸術劇場(池袋)プレイハウスで、NODA・MAPの「エッグ」。東京芸術劇場は築20年を経て大改装が施され、京劇公演などで何度も足を運んだ中ホールがリニューアルされて「プレイハウス」となっています。以前のフラットで広さを感じる座席配置も悪くはありませんでしたが、改装後は煉瓦の壁に囲まれた密閉感のあるつくりで、両サイドの椅子の配置はシアターコクーンを連想させるもの。音響も改善されて、より演劇向きのホールになったそうです。

さて、今回の出演者の多くは、野田秀樹の芝居の常連と言える面々。私が実際にその舞台を観たことがある演目だけで見ても……

妻夫木聡 キル / 南へ
深津絵里 半神 / 走れメルス
秋山奈津子 透明人間の蒸気 / THE BEE
大倉孝二 赤鬼 / パイパー
藤井隆 ザ・キャラクター
橋爪功 パイパー / ザ・キャラクター

こうした面々に囲まれて、トリプル主役の1人である仲村トオルがNODA・MAP初出演です。

野田秀樹の作品には、純粋にファンタジー的な内容の作品もあれば、歴史上の実際のできごとを題材にした生々しいものもあり、後者の例としてはベトナム戦争でのソンミ村虐殺事件を扱った「ロープ」や地下鉄サリン事件をとり上げた「ザ・キャラクター」などがありますが、今回の「エッグ」は満州で生物兵器の開発に関わったとされる731部隊がモチーフでした。

◎以下、戯曲のテキストと観劇の記憶により舞台を再現します。ここを飛ばしたいときは〔こちら〕へ。

この作品は、野田秀樹演じる芸術監督がたまたま手に入れた寺山修司の脚本『エッグ』を、その登場人物である消田監督(橋爪功)と共に読み解きながら劇中劇的にストーリーを展開させるという基本構造をもっているのですが、最初は現代の男性アスリートたちの話だと思い込んで芝居を再構築していったところ、脚本中の記述から設定が異なっていたことが判明して、その都度芸術監督が頭を抱えながら消田監督に新しい設定を伝えて芝居を進行させるということが起こります。さらに、冒頭のパートの中に時系列の最後に出てくる「事故にあった阿部」の場面が滑り込んでいたり(この円環構造は「赤鬼」でも用いられた技法)、異なる時制の中で似たようなセリフが全く異なる意味を持って現れたり(「俺も代わります」=選手交代→「俺を代えて下さい」=身替わり)とコラージュのような仕掛けがしてあって、それを試みに図示してみると、こんな感じになります。

開演前の舞台上は、コンクリート打ちっぱなしの駅舎のような壁を奥に聳えさせ、一面に散乱するロッカー、ところどころに畚、そして下手袖近くに取調机のような味も素っ気もないデスクとランプ。汽車の汽笛が長く響き、天井から黄色い原稿用紙が机の上に下りてきて、大勢の女学生と劇場案内係(野田秀樹)がわいわいガヤガヤと入ってきてプロローグのスタート。原稿用紙が寺山修司『エッグ』の生原稿であることが紹介されて、一瞬のカオスのうちに野田秀樹は芸術監督に変身し、ここから本編へと移ります。愛人である劇場案内係から手に入れた寺山修司の遺稿を改修して蘇らせようとする芸術監督と、その原稿の中の登場人物で「エッグ」と呼ばれるスポーツの監督である消田仕草(橋爪功)の対話、そこへ滑り込むように登場する車椅子の上の阿部(妻夫木聡)と、その車椅子を押しながらノスタルジックな歌を歌う苺イチエ(深津絵里)。消田監督が二人を理想の夫婦であったかのように紹介したとき、苺イチエはそんな話じゃないわ!。さらに「事故」にあった阿部比羅夫がエッグの聖人、背番号「7」をつけられるエピソードが続いて、実は始まってまだ間もないここまでの数分で、この芝居の核心が全て語られてしまったことになります。

ここから、劇中劇の世界に入ります。まずは、おそらく現代の選手控室。「エッグ」という「壊れやすいボールを移動させるスポーツ」の選手たちが試合前の緊張の中にあり、その中心にいるのはストイックながら下り坂の選手・粒来幸吉(仲村トオル)。そこへやってきた能天気な新人選手が貧しい農家の三男坊の阿部で、船と汽車と自動車と自転車を乗り継いでやってきたと自己紹介するのですが、これも後から思えば真の舞台設定をさりげなく説明している箇所。さらに故障キャラの平川(大倉孝二)の交代要員をめぐるやりとりの中で出てくる「実験精神」「インジェクション」も伏線です。ところが、日本チームが中国チームに勝利し、オリンピック出場を決めたと思われた後に、脚本の中に齟齬が生じて進行は一時ストップ。

ここで芸術監督と消田監督のダイアローグとなり、選手たちは女性であったこと、時代設定は「東京五輪」前であったことが明らかになります。仕方なく消田監督は新しい設定のもとでストーリーに戻り、再び4年後の東京オリンピックを目指す選手たちの葛藤の描写。しかしその中に今度はなんで俺の話になっている?誰かの手で書き換えられている……俺に何を背負わせるつもりだ?という阿部の独白が入って、阿部の粒来に対する攻撃的なまでの能天気に翳りが見えてきます。そして記録映画『エッグ紀元節』の上映。東京オリンピック出場決定!……ところが、東京オリンピックは開催中止に?

ここでまた、両監督が協議。東京オリンピックといってもこの脚本に書かれていたのは、1940年に開催が予定されながら中止になった幻の東京オリンピックであったこと、さらに舞台は満州であったことが芸術監督の口から明らかにされました。再び劇中劇に戻って、今度こそ脚本通りの設定の下、東京オリンピックの中止に絶望した粒来が自殺し、苺イチエの慰問リサイタル、阿部と平川、あるいは苺イチエとの救いのない会話の中に、戦争も終わりに近い満州の絶望感が忍び寄ります。そして『エッグ紀元節』に記録されていた「エッグ」の本当の意味。半透明のカーテンが作るガス室のような実験室の前に並んだ粒来・平川・阿部の背番号は、左から「7」「3」「1」。この辺りから、ブレヒト幕を活用した大胆な場面転換が続いてストーリーの進行がスピードアップし、緊迫感がぐっと増してきました。実験室の中での死のイメージ、両監督が語る寺山修司の死の真相(この作品を書いている途中に亡くなったのじゃない、書こうとしたから亡くなったんだ)、関東軍撤退の混乱の中での証拠隠滅工作、そして粒来の監督、俺を代えて下さいという言葉によって身替わりに仕立てられワクチンを打たれる阿部。この阿部の姿が冒頭の車椅子姿の阿部に回帰して、満州から退避する群衆の姿が舞台を通り過ぎ、阿部と苺イチエの束の間の和解と死によって、劇中劇は終わります。

最後に野田秀樹の芸術監督が登場しあ、寺山修司の『エッグ』などという作品は存在しません。もちろん、私にも愛人など存在しませんと肩をすくめて、FIN。

731部隊のおぞましい人体実験(実験に使われた犠牲者を示す「猿」「マルタ」などの用語が出てきます)の真相を示す証拠は満州撤退に際して徹底的に消去され、密かにとられていた記録も改ざんされてスポーツの話にすりかえられました。冒頭の苺イチエのそんな話じゃないわ!という叫びや、途中で阿部が漏らす誰かの手で書き換えられている……俺に何を背負わせるつもりだ?という疑問が、こうした事情を端的に物語っていますが、それもそのはず。劇中でオーナー(秋山奈津子)がいみじくも語るようにスポーツでは、記録はいつも塗り替えられるものなのですから。しかし、塗り替えられた記録の陰に取り残されたあまりにもたくさんの絶望を、誰かが掬いとらなければならない。そんな思いが、寺山修司の名を借りた野田秀樹の本作における動機であったのかもしれません。

登場人物のうちの、2人のアスリートについて。

  • 阿部比羅夫(妻夫木聡)は、その名前の古代的な響きにはあまり意味がなく、1960年のローマオリンピックのマラソン競技を裸足で走って優勝し、1964年の東京マラソンで連覇したアベベ・ビキラを引き写した人物です。アベベは、途中棄権に終わったメキシコオリンピックの直後に交通事故で半身不随となり、車椅子生活を余儀なくされた末、41歳の若さで亡くなっていますが、劇中の阿部の車椅子姿や証拠隠滅のために死を強いられた姿が見事に重なります。妻夫木聡の演じる阿部は、いつもニコニコ笑って先輩の粒来に対し天然系の辛辣な言葉をぶつけ続ける、ある種イヤな奴なのですが、その性格づけ自体が記録の改竄の結果である可能性があるという難しい役どころ。
  • 粒来幸吉(仲村トオル)はもちろん、東京オリンピックで銅メダルに輝いたものの、メキシコオリンピック開催直前に自ら命を絶った円谷幸吉。しかし劇中の死は、満州で行われてきたことをなかったことにするための偽装工作でした。仲村トオルは、前半は悲劇のアスリートを深刻な表情で演じ、特にシャワールームの場面での見事な大胸筋と前に突き出した手の甲に卵を立てる精神集中法の異様さには圧倒されましたが、真骨頂は最後、ワクチンを打たれて倒れた阿部の前で記録を書き直す堂に入った悪役振り。

「エッグ」は、この2人を中心にストーリーが展開しますが、忘れてはならないのが、苺イチエ(深津絵里)。現代・1960年代・1940年の三つの時代それぞれに合ったメイクと衣裳を見せ、歌を聞かせながら、最後には「エッグ」の記録者という極めて重要な役どころになっていきます。野田秀樹が狂言回し役に徹した今回の作品の中で、芝居全体の進行を統率したのはベテラン橋爪功とこの深津絵里さんであったと言えるでしょう。もちろん、その他の役者もそれぞれのポジションを完璧にこなし、野田秀樹の近年の作品の中でも最もアンサンブルが整った舞台だったと感じました。

劇中で使われる曲を収録したCDも販売されています。全作詞:野田秀樹、全作曲:椎名林檎、そして歌はもちろん深津絵里です。中でも2012年の苺イチエが歌ってめちゃ売れてるという設定の「The Heavy Metallic Girl」がとりわけキャッチーで、歌詞の中に出てくる「光る鱗」「ぬめるうなじ」「毒」などといった言葉は「Heavy=蛇」を連想させます。目下ヘビロテ中です。

配役

阿部比羅夫 妻夫木聡
苺イチエ 深津絵里
粒来幸吉 仲村トオル
オーナー 秋山奈津子
平川 大倉孝二
お床山 藤井隆
劇場案内係 / 芸術監督 野田秀樹
消田監督 橋爪功
○田フミヨ 深井順子
女学生・×田 上地春奈
女学生・△田 大西智子
女学生・□田 秋草瑠衣子

◎2015年の再演時(2015/02/17)の様子は〔こちら〕。